第五十五話 筋肉男爵と流れを整える日
小雨が止み上がった朝、ガティネ男爵領の村はいつもよりひんやりとした空気に包まれていた。畑の土はしっとりと湿り、道端の石も濡れて光っている。アドリアナは外套の裾を整え、今日も領地の巡回に出た。
目指すのは、先日整備した水路。村人たちが朝の作業に取り掛かる傍ら、水路の様子を確認すると、流れがいつもより緩慢で、水が少し溢れかけているのに気付いた。
「これは…少し手を入れないと危なそうですわ」
村人たちの顔にも不安が漂う。今日の作業は決まった。
「みなさま! 本日の作業は水路の補強ですわ。雨が続くと畑も被害を受けます。私たちで流れを整えましょう!」
声を聞きつけ、マティアスが資料を抱えながら近づいてくる。濡れた地面で少し足元を滑らせ、慌てた様子で呟いた。
「えっと、水の流れを効率的にするためには、ここを少し掘り下げて…あの、角度をつけると…。あ、でも土が崩れないように注意して…」
彼の緻密な指示に、アドリアナは微笑み、さっと指示を整理した。
「まずは詰まった土砂や落ち葉を取り除くことから始めましょう。マティアス先輩は、具体的な順序を教えてください」
マティアスは資料を広げ、手順を説明する。ローランは無言で頷き、思い土砂を運ぶために率先して動く。黙って働くその姿に、村人たちも続いた
作業が始まると、予想通り、小さな混乱が起きた。土砂を取り除いていた若者が、つまづき、泥が飛び散る。
「うわあ!」
転びかけた若者をアドリアナが支える。彼は、恥ずかしそうに礼を言った。
「足元が悪いから、気を付けてくださいな」
その間にも、エティエンヌは作業の手順を観察し、必要に応じて村人たちに指示を送る。自分も手伝いながら、作業の流れが滞らないよう見守っていた。
アドリアナも自ら手伝おうと、木の板を使って水路の流れを整える。気合が入りすぎて板がひび割れてしまい、エティエンヌに『領主様は現場を監督していてください』と取り上げられてしまった。
(私の筋肉の出番はここではないということですわね。ならば大人しくしていましょう)
作業は順調に進んでいき、水が上手く行き渡っていなかった田畑も耕すことができた。少しずつ、けれど着実に良くなっている領地に、アドリアナは感慨深い気持ちを抱いていた。
「みなさま、今日の作業もおつかれさまでした。おかげで水路が整いましたわ」
まだまだやらなければならいことはある。それでも目に見えて良くなっていく村の環境に、村人たちの表情は明るかった。
こうして領地は少しずつ形になっていくのだ。アドリアナは既にもう、この男爵領を愛し始めていたのだった。
***
そして夜の男爵邸。寝静まった屋敷の中、マティアスは一人呻き声を上げていた。
「う、うぅ…脚が…」
寝間着姿のまま、薄暗い灯りの中で床にうずくまるマティアス。脚が痛むのか、両脚を抱えて震えていた。
「ふ、太ももとふくらはぎが…っ」
知恵担当であるマティアスもまた、昼間は村人たちに交じってスコップを振るっていた。その反動が来たのだろう。筋肉痛という痛みが夜になって襲ってきたのだ。
(せっかく、アドリアナ様にかっこいいところを見せたかったのに…)
ここに来て、改めて自分の貧弱さを知ることになるとは。なんとも情けない。
それでも明日には、この筋肉痛を押し殺してまた作業に励まなければならない。マティアスは、こんなこともあるだろうと事前に用意していた軟膏を脚に塗った。
――今夜は脚が痛んで、うまく眠れそうにない。
静かな夜の中、マティアスは一人溜め息をついたのだった。




