第五十二話 筋肉男爵と寡黙の騎士
アドリアナが王立学園から次に向かったのは、ドラクロワ邸だった。馬車を降りて、慣れた石畳の道を歩いていく。そうして訓練場で目的の人物を見つけた。
「ご機嫌よう、デュヴァル卿。訓練の邪魔をしてごめんなさい」
ドラクロワ家が抱える騎士の中でも一番の筋肉を誇るローラン。声をかけると彼は木剣を止め、振り向いた。
「……お嬢さ――失礼しました。男爵様」
「呼びやすい方で呼んでくれて構わないわ。それより変わらず元気そうで安心したわ」
「……はい。変わらず、訓練の日々です」
寡黙な返答。けれどその短い言葉に、誠実さと重みがある。訓練場の端に腰を下ろし、冷たい水を入れた革の水筒を差し出すと、彼は小さく会釈をして受け取り、静かに一口飲んだ。
「今日は、あなたにお願いがあって来たの」
「お願い、ですか」
「ええ。男爵領を盛り立てていきたいのだけれど、人手が足りなくって。軍の経験を持つ信頼できる人物が必要で、デュヴァル卿の力を借りたいの」
沈黙が落ちた。ローランは木剣を見つめたまま、動かない。
「……伯爵家を、離れろとおっしゃるのですか?」
「無理は言わない。けれど少しでもあなたにその気があるのなら、一緒に来てほしい」
「……俺の剣は、主家に捧げています。ドラクロワ伯爵の命令がある限り、ここを離れることはできません」
「……そう、よね」
予想はしていた。けれど、胸の奥がほんの少しだけ沈む。彼が忠義を貫く人間であることを、アドリアナは知っていてお願いをしたのだ。
けれど、ここで諦めるわけにはいかなかった。
「でもね、デュヴァル卿。あなたが本当に守りたいのは、ドラクロワ家なのかしら? それとも、あなた自身の信念なの?」
ローランの瞳がゆっくりとアドリアナを捉える。彼は言葉を探すように、息を吐いた。
「……騎士としての誇り、です」
「ならその誇りを、他の場所で貫くこともできると思わない?」
沈黙。しかし今度の沈黙は、拒絶ではなかった。
「あなたは命令がなくても動ける人だと思っているわ。人のために剣を抜ける人よ。だからこそ、私の領地を守る剣になってほしいの」
「………」
ローランが立ち上がり、木剣を静かに握り直す。そして空に向かって一振り。
――音が違った。さきほどまでの訓練ではなく、まるで自分自身に問いかけるような一撃だ。
「……領地には、何人の兵が?」
「今は三十ほど。半分は農夫の志願兵ね」
「……厳しいですね」
「ええ。でも私にはあなたが必要なの」
彼はしばらく黙っていた。そして少しだけ口元を緩めた。
「……以前、ともに訓練をしている際、あなたに言われました。『筋肉には知恵が必要だ』と」
「あら、そんなことを覚えていたの?」
「……はい。だから、あなたのもとで剣を振るうことに意味があるのかもしれません」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。ローランが承諾するまで、あと一歩。
「……伯爵には、俺から話を通します。ただ、時間をください。必ず、行きます」
「ありがとうございます、デュヴァル卿。待っていますわ」
彼はアドリアナに深く頭を下げた。その姿はまるで、忠誠の儀式のようだった。
彼のすっと伸びた背筋が美しい。それを見つめていたアドリアナは、静かに芽生えた希望の光が胸の奥に広がるのを感じた。




