第五十一話 筋肉男爵と知恵の先輩
王都にある王立学園。男爵位を授与されてから、しばらく領地経営に集中したいと、休学願いを出していた。最後に通った日から大して時間は経っていないはずなのに、なんだかもう懐かしく感じる。
アドリアナが学園に来たのは、領地のためにどうしても必要な人材がここにいるからだ。大抵のことは筋肉で解決できてしまう彼女だが、視察を通して、領地の未来を担うには仲間が必要だということに気づいた。
そのためにまず、向かった先は。
「お久しぶりですわ、リュサール先輩」
厚い書物が整然と並ぶ、学園の図書室だった。奥の閲覧机が彼の定位置だ。
「あ、あれ?ドラクロワ――じゃなかった、ガティネ男爵。学園はしばらくお休みしてるんじゃ…?」
「ガティネ男爵と呼ばれるのはくすぐったいですわ。どうぞアドリアナとお呼びくださいな、先輩」
「あ、え、恐れ多いよ、そんな…」
書物から顔を上げたマティアスは、眼鏡の位置を直しながらアドリアナを見つめる。
「お、遅くなったけど、男爵位の授与おめでとうございます」
「ありがとうございます。実はそのことで、今日はリュサール先輩に会いに来たんですの」
「ぼ、僕に…?」
「ここで話してはまた司書さんに叱られてしまいますわ。よろしければサロンへ行きませんか?」
マティアスと二人で図書室を出る。そうして学生に向けて一般開放されているサロンに行き、部屋の端っこのテーブルについた。
「リュサール先輩。最近は筋肉の研究は順調ですの?」
「う、うん。この前は筋繊維の動きを、騎士と一般人で比べてました」
身体の線は細いけれど、筋肉への情熱と知識だけは誰にも負けないマティアス。もちろん筋肉以外の知識もあり、彼の理論はいつも筋道が通って美しい。
「実に興味深い話ですわね。それは今度詳しく聞かせていただくことにして――リュサール先輩。折り入ってお願いがありますの」
「お、お願い…?」
「ええ。今回領地を治めることになったのだけれど、正直なところ人手不足で…。私だけでは知恵が足りないところがあるから、ぜひリュサール先輩の力を借りたいんですの」
マティアスがぴしりと固まるのが分かった。遠くで、生徒たちの笑い声が聞こえる。
「ぼ、僕の……?」
「あなたの知識が必要なの。領地は未整備や改修が必要なところが多くて、私一人ではすべてまで手が回らないのですわ。けれど、リュサール先輩となら理論的に基盤が作れると思うんです」
「で、でも僕は…そんな立派な人じゃ…」
視線が揺れる。彼は自分の足元を見下ろし、言葉を探していた。
「僕がやっているのはただの趣味と学生の勉強で……領地経営なんて、そんな…」
「動くのは私の筋肉にお任せくださいな。その代わり、リュサール先輩には考えてほしいんですの。どうすれば領地の人たちが力を発揮できるか。それを『筋肉のように組み立てて』くださらないかしら?」
マティアスが顔を上げる。彼の中で何かが動いたようだった。
「筋肉のように、組み立てる…?」
「ええ。前におっしゃっていたでしょう?『筋肉は無駄なく配置され、互いを補い合うように働く』って。領地も同じですわ。人と人が支え合えば、動ける組織になる」
「……っ」
彼は口を結び、しばらく黙った。大きな窓から射し込む光が、彼の眼鏡の縁で柔らかく反射している。
やがて彼は小さく息を吐き、視線をアドリアナへと戻した。
「ぼ、僕…ずっと思ってたんです。強い人にしか、できないことがあるって。でも…ガティネ男爵を見てると、違うんだなって」
「違う?」
「う、うん。あなたは強く見えるけど、本当は、誰かの痛みを放っておけない人だ。そ、そういう人だから、僕も、一緒に力になりたいって思う」
胸の奥がじんわりと熱くなった。彼の言葉は不器用だけれど、真っ直ぐだった。
「……ありがとうございます、リュサール先輩。とても嬉しいですわ」
「ま、また返事はしてませんけど」
口調は照れ隠しのように柔らかい。けれど、少しだけ笑っているのが見えた。
「で、でも行くなら、しっかりと準備させてください。資料とか、測定器具とか…あと筋肉模型も持って行かないと」
「もちろん。領地の人たちがあなたの理論に触れたら、きっと驚きますわ」
「そ、それなら……がんばります」
言葉の最後に、かすかな笑いが混じった。
「明日、また改めて迎えに来ますわね。学園には手続きもあるでしょうし」
「は、はい」
「それから私たちはもう同志ですわ。どうぞアドリアナとお呼びくださいな。私もマティアスと呼ばせていただきます」
「……はい、アドリアナ様」
マティアスのはにかんだ笑顔が、アドリアナを胸をくすぐった。
「ぼ、僕、ずっとあなたみたいな人になりたかったです。理論と力を、ちゃんと両立できる人に」
「私も、あなたのように考え続けられる人に憧れていたわ」
言葉を交わした瞬間、彼は少し顔を赤らめた。そして眼鏡の奥で、ほんの少しだけ自信の灯が揺れたように見えた。
アドリアナは立ち上がり、軽く会釈をする。サロンを出ると、外の陽射しが眩しかった。
学園の庭を吹き抜ける風は柔らかく、花の香りを運んでくる。マティアスのような人が、一緒に領地を支えてくれる。そう思うと、不思議と胸が温かくなった。
人を集めるというのは、戦いとは違う。けれど、心と心を繋ぐのは、どんな戦いよりも難しく、そして尊いことなのだとアドリアナは思った。




