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第五十話 筋肉男爵と村の信頼

 王都での男爵位授与から数日。アドリアナは、ついに自らに与えられたガティネ男爵領を訪れる日を迎えていた。ガティネ領は、王都に隣接する小さな領地だ。


「領民のみなさまに初めて顔をお見せする大事な場面…。失敗は許されませんわ!」


 きりりと眉を上げ、馬車の窓から外を覗くアドリアナ。しかし、緊張に胸を張りすぎて、筋肉の隆起でドレスの縫い目がミシミシと鳴る。向かいに座る侍女が慌てて声をかけた。


「お嬢様! 力を抜かれませんと、ドレスが本当に…」


「あ、あら。無意識に筋肉が躍動してしまって…」


 こうして筋肉令嬢改め筋肉男爵の初訪問は、すでに前途多難であった。


 やがて馬車は領地の入口に到着。村人たちは遠巻きに集まり、新しい領主を見ようとざわついている。


「おお、あれが新しい男爵様か…?」


「どんな人かしら。厳しい方じゃなければ良いけど…」


 馬車の扉が開く――が、アドリアナの逞しい腕が勢い余って扉ごと外してしまった。


「あら」


 どさり、と馬車の扉が地面に落ちる。


 村人たちの間に緊張が走る。だがアドリアナは慌てずに微笑み、片手で扉を軽々と持ち上げた。


「ふふっ。扉も私を歓迎しているようですわね!」


 そのままバーベルよろしく扉を掲げ、見事な筋肉ポーズ。


「おおおおっ!?」


 領民のどよめきが笑いに変わり、いつしか拍手が沸き起こっていた。


 続いて村を歩くアドリアナ。視察のはずが、次々と筋肉芸が発動してしまう。


「あら。荷車の車輪が外れかけているではありませんか。――よいしょ!」


 片手で荷車を持ち上げ、車輪をはめ直す。


「おおっ、すごい…!」


「領主様! こちらの井戸は汲み上げる滑車が固くて…」


「お任せなさい!」


 ロープを巻き上げる滑車を両手でぐるぐる回し、錆で固くなっていた動きを滑らかにした。


「おお!くるくる回っているぞ!」


 最初は恐る恐る見ていた人々も、いつしか『近寄って声をかけても大丈夫だ』と思い始めていた。


 その最中、アドリアナは村長に呼び止められる。


「領主様…。人々はにこやかに振る舞っておりますが、実は困りごとがございます」


 村長の声は低く真剣だった。


「古い水路が痛んでおり、田畑への水が安定しません。今年は収穫が少なめて…冬が心配です」


 笑顔で触れ合う人々の後ろで、確かに干からびた畑や壊れかけの水車が目に入る。


 アドリアナは一瞬だけ表情を引き締め、胸の奥で考え込んだ。


(なるほど。筋肉で持ち上げれば解決する問題ではありませんわね。けれど、土木と農業の改善策は必ずあるはず…!)


 彼女はにっこりと笑顔を戻し、村長に向き直った。


「ご安心なさい。筋肉は水を呼べませんが、知恵と工夫は、未来を潤しますわ」


 少し気取った台詞に、村人たちは『なんだかよく分からないけど頼もしそうだ!』と笑い出す。


 日が暮れる頃、村の広場はちょっとしたお祭り騒ぎになっていた。子どもたちがアドリアナの腕を取り囲み、『力こぶ!』『もっと!』と叫ぶ。青年たちは『すごい筋肉だ!』と声を上げる。


「筋肉ばかり目が行ってますが、これでも私は淑女(レディ)なのですよ!」


 そう言いながらも、楽しげに二頭の牛を同時に持ち上げてみせるアドリアナ。


 大笑いする村人たちの表情には、信頼の色が滲み始めていた。


「おもしろくて頼もしいお方だ」


「この方なら、きっと領地を良くしてくださる」


 その日の夜。アドリアナは小さな男爵邸の窓辺に立ち、外を見つめた。


「筋肉で笑わせることができても、本当に領民を守るには知恵と計画が要る。――ここからが正念場ですわね」


 広場に残る笑い声を思い出し、彼女の瞳は未来へと鋭く光っていた。


 筋肉男爵の新たな挑戦は、いま始まったばかりである。


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