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第四十話 筋肉令嬢と禁じられた小瓶


 ある日、アドリアナは一人、侍女を連れて街に出ていた。


 王都の大通りは活気に溢れ、行商人の呼び声や子どもたちの笑い声が響いている。外交の場での華やぎから一歩離れたこの雑踏の中で、彼女は市井の息遣いを感じるのが好きだった。華やかな宮廷にはない、生活の温もりがここにはある。


 だがその日、普段と違う影が視界をかすめた。


(ん? あれは……)


 人混みの中に、不自然に肩をすくめて歩く男がいた。目は泳ぎ、袖口をいじり、周囲をやたら気にしている。アドリアナの鍛え抜かれた観察眼は、その挙動不審を見逃さなかった。


(……あの様子、ただの旅人ではありませんわね)


「お、お嬢様!? どちらへ!?」


「あなたは少しここで待っていなさい」


 彼女は裾をさばき、そっと男のあとを追った。筋肉を鍛えた身体は重さを感じさせない動きで群衆を抜け、やがて裏路地に差し掛かる。


「お待ちなさい」


 背後からかけられた澄んだ声に、男はびくりと肩を震わせた。振り返るなり、アドリアナの真剣な眼差しに射抜かれる。


「な、なんだよ、急に。 お、オレは急いでるんだ」


「でしたら少々、お荷物を見せていただけます? どうも胸騒ぎがしますの」


 アドリアナが一歩近寄ると、男は顔を青くして駆け出した。


「待ちなさいと言っているでしょう!」


 彼女はため息をつきつつも、全力で追いかける。鍛えた脚は瞬く間に距離を詰め、男は焦って路地を曲がる拍子に何かを落とした。小瓶が石畳に転がり、太陽の光を反射してきらりと輝く。


 アドリアナはそれを拾い上げた。薄緑色の液体が揺れ、鼻を近づけるとどこか甘ったるい、しかし不自然な香りが漂った。


「……薬?」


 逃げる男を追うこともできたが、アドリアナはまず小瓶を見つめた。その直感は告げていた。これはただの薬ではない。もっと危険な、禁じられたものだと。


***


 その日の夕刻。ドラクロワ邸の書斎で、父アルマンに小瓶を差し出したアドリアナは事の顛末を報告していた。


「街で不審な男を見つけ、追いかけたところ……これを落としましたの」


 父は眉をひそめ、慎重に小瓶を光にかざす。


「……噂には聞いていたが…最近、街の裏で妙な薬が広まっていると。飲めば一時的に力が増すが、理性を失い、やがて身体を蝕むとか」


「まあ…! それは人を破滅させる毒そのものではありませんか!」


 アドリアナは目を見開いた。筋肉を鍛えるのは己を高め、人を守るためである。だがこの薬は、力を歪め、心を壊す。筋肉令嬢にとって、それは断じて許しがたいものだった。


「アドリアナ。この件は王城にも報告せねばならん。ただ、敵がどれほど根を張っているのか、まだ分からないのだ」


 父の声には慎重さが滲む。それにアドリアナは力強く頷いた。


「承知しましたわ。でも、私も見過ごせません。筋肉を歪めるような薬が蔓延すれば、人々は不幸になります。お父様、どうか調査をお許しくださいませ」


「………」


「危険なのは承知しております。無理はしないと約束しますわ」


 アルマンは一瞬黙り、娘の真剣な瞳を見つめた。娘を巻き込みたくはない。しかし、真っ直ぐな眼差しを前にすれば、止める言葉は出てこなくなった。


「……分かった。ただし、決して独断では動くな。家の名を背負う以上、すべては正しい筋を通せ」


「はい。筋肉と同じく、正しき道を歩みます」


 アドリアナは微笑んだ。その瞳の奥には、固い決意が宿っていた。


(筋肉は人を強くするもの。けれど、この薬は人を弱くする。……ならば、この手で止めてみせますわ)


 鍛えた筋肉は、戦場だけでなく、街の闇を正すためにもある。


 こうしてアドリアナの新たな戦い――禁じられた薬を巡る陰謀との戦いが、静かに幕を開けたのだった。


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