第二十九話 筋肉令嬢と笑顔の波
数日後。アドリアナは完成した著書『少女でも無理なく鍛えられる日常運動法』を持って、マティアスとともに王都の孤児院を訪れていた。
石造りの簡素な建物に辿り着くと、子どもたちがわらわらと駆け寄ってきた。そして年長の少年が代表して元気に挨拶する。
「こんにちは! アドリアナ様! 今日は何を持ってきてくれたんですか?」
その期待に満ちた瞳に、アドリアナは柔らかく笑みを返した。
「新しい本です。身体を丈夫にするための運動をまとめました。難しいものではありません。誰でもできますのよ」
彼女が本を掲げると、子どもたちは『運動の本?』と不思議そうに首を傾げた。だがページを開き、分かりやすい挿絵と簡潔な動作解説が目に入るや否や、興味津々に身を乗り出した。
「うわ! 棒人間みたいなのが運動してる!」
「ほら見て! 片足で立ってバランスを取るんだって!」
「これなら遊んでるみたいだね!」
子どもたちが口々に感想を述べる姿に、アドリアナは胸を撫で下ろした。
「よければ一緒にやってみない?」
その一言に、場は一気に活気づいた。庭に集まった子どもたちが並び、アドリアナの号令に合わせて腕を曲げ伸ばす。
「いち、に! いち、に!」
初めは笑いながらふざけていた子どもたちも、次第に真剣な顔つきになっていく。汗を滲ませながらも『できた!』と声を上げる小さな姿に、アドリアナは心の底から嬉しさを覚えた。
それを見ていた孤児院の院長も感慨深げに頷いた。
「これは素晴らしい本ですね。子どもたちの健康づくりに役立つだけでなく、生活の規律も育ててくれそうです」
「ありがとうございます、院長様。健康であれば、未来に向かって歩む力も養えますから」
院長の言葉に応じながら、アドリアナの瞳はきらきらと輝いていた。
筋肉はただの力ではない。誰かの人生を支える基盤になり得る。それを実感した瞬間だった。
***
寄贈は孤児院だけに留まらなかった。学園の図書室、王都や領内の図書館、さらには読み書き学校にも本は届けられた。
やがて、街角の広場ではこんな光景が見られるようになる。
子どもたちが本を片手に、楽しげに屈伸運動をしている。市場の空き地では、若い労働者が昼休みに腕立て合戦を始める。学園の生徒たちですら『健康維持の一環だ』と言いながら、授業の合間に軽いストレッチをする姿が増えていった。
その広がりは、社交界にも届いた。
『ドラクロワ家は武勇だけでなく、文化面にも寄与している』と評判になり、父アルマンの元へは賛辞の手紙が相次いだ。
「おお、アディよ。いつの間にか立派な文化人になったなぁ」
これぞ筋肉と文化の融合だと、書斎で報告を受けた父アルマンは涙ぐんでいた。娘の功績を誇らしく思う一方で、あまりに話が大きくなっていくのを少し心配しているようでもあった。
そんな父の思いをよそに、アドリアナは街を歩けばすぐに噂の渦に巻き込まれる。
「見ろよ、あれが本を書いた筋肉令嬢だ!」
「あんな立派な淑女が腕立てのやり方を? 信じられない!」
「子どもたちが夢中になってるらしいぞ」
ひそひそ声は街角のどこでも聞こえてきた。しかし彼女は周囲が自分の筋肉に見惚れているのだと勘違いし、噂話も気にしないのである。
そうして足を止めた広場では、小さな女の子が嬉しそうに両手を広げて駆け寄ってきた。
「アドリアナさま! わたし、毎日かかと上げしてるの!」
「まあ、素晴らしいですわね! どうです、身体が軽くなったでしょう?」
「うん! 走るのが速くなったの!」
無邪気な笑顔に、アドリアナも自然と頬を緩める。名声よりも何よりも、この笑顔こそが最高の報酬だった。
「筋肉は、誰かの未来を支える力になる」
戦場で生かすだけでなく、文化として人々の暮らしに根ざす筋肉の力。その広がりが、アドリアナに新しい誇りを与えていた。
(みなさんが無意識に筋肉を鍛え、健やかになっていく。そうして一人一人の生活基盤が出来上がっていけば、この国は今よりも豊かになるはず)
次はもっと幅広い世代に、筋肉と健康の大切さを伝えていこう。アドリアナの夢は、こうしてまた広がっていくのであった。




