第二十八話 筋肉令嬢と文化の光
心地よい陽気が校庭を包む。学園の講義が一段落した午後、アドリアナは木陰のベンチに腰を下ろし、膝の上に分厚いノートを広げていた。
そこにびっしりと書き込まれているのは、貴族の教養でも戦闘術でもなく、筋肉についての記録である。
「……腕立て伏せは、一度に無理せず、十回から始めるのが望ましい…」
小さく呟きながら羽ペンを走らせるアドリアナの横顔は真剣そのものだ。可憐な制服に身を包んだ少女が、筋肉論を理路整然と綴っている姿は、周囲から見ればかなり奇妙だろう。
「や、やあ、ドラクロワ嬢」
声をかけてきたのは、二年生のマティアスだ。彼は身体こそひょろひょろであるが、学術や筋肉に造詣が深いことをアドリアナは知っている。
「ご機嫌よう、リュサール先輩」
「ず、随分と熱心ですね。これは……運動法の手引き、ですか?」
マティアスがノートを覗き込むと、アドリアナは自慢げに胸を張った。
「ええ。幼い子でも日々の暮らしの中で取り入れられる、簡単な筋力運動をまとめていますの。身体が健やかであれば、学問も労働もずっとはかどるはずですから」
その理路整然とした言葉に、マティアスは感心して頷いた。
「まるで学者の論文みたいです。こ、これは、まとめて残すべきだと思います」
「残す、といいますと?」
「しょ、書籍にしてみるのはどうでしょう? 運動法を体系的にまとめれば、きっと多くの人に役立つはずです。孤児院の子どもたちや、働き盛りの人々にも」
書籍――その響きに、アドリアナは少し目を見開いた。筋肉を語ることは好きだが、それを本にまとめるなど夢にも思わなかったからだ。
「私が書籍を…? そうすればもっと多くの人に筋肉の楽しさを伝えられる…?」
「そ、そうだね。ドラクロワ嬢の知識と経験は間違いなく価値のあると思います。む、むしろ、それを伝えない方が惜しいくらいです」
そう言って微笑むマティアスに、アドリアナは背中を押されたような気がした。
――筋肉と健康の知恵を、もっと多くの人に伝えられるなら。
アドリアナが、文化を築く営みに足を踏み入れた瞬間だった。
「素敵な提案をありがとうございます、リュサール先輩。私なりに挑戦してみますわ」
「よ、よかった。では早速、題名を考えてみましょうか?」
二人で顔を寄せ合い、案を出し合う。『美しき筋肉の調べ』などと大仰な候補を挙げては笑い、『いや、もっと分かりやすく』と修正を重ねた。
「結局、一番シンプルなものが良さそうですわね」
「う、うん」
最終的に選ばれたのは、『少女でも無理なく鍛えられる日常運動法』という、素直で親しみやすい題名だった。
***
それから日々、アドリアナは講義や鍛錬の合間を縫って原稿を仕上げていった。動作の図解を加えるために、何度も実演しながらマティアスに描いてもらったこともある。
「腕を曲げ伸ばすときは、呼吸を止めてはいけません。吸って――吐いて……ふっ!」
「ちょっ、ちょっと待って! 動きが速すぎてペンが追いつかないです!」
「申し訳ありません、つい本気で…!」
図を描くマティアスが額に汗を浮かべ、アドリアナが慌ててペースを落とす。真面目な作業のはずが、どこか滑稽で温かい光景だった。
やがて一冊の本にまとまったとき、アドリアナは深く息を吐いた。
「――これで、完成です」
「お、おめでとう、ドラクロワ嬢! 立派な本ができたね」
マティアスが心からの祝福を送ると、アドリアナは胸に手を当てて微笑んだ。だが、すぐに表情を引き締める。
「次は、これをどう生かすかです。できれば、学園の図書室や王都の孤児院に寄付を…」
「う、うん。それはすごく良いことだと思う。僕も協力します」
二人の視線は、未来へと向けられていた。筋肉と健康の理念が文化の一端として根付くなら。それは、アドリアナにとって武勇以外の新たな功績になるはずだ。
***
その夜。自室に戻ったアドリアナは、窓辺で月明りを浴びながら本を手に取った。厚みは控えめで、挿絵も素朴なものだ。だが、確かに自分の言葉と実践が詰め込まれている。
「文化を築く、か…」
ぽつりと呟き、彼女は拳を握った。
筋肉を鍛えるのと同じように、人の心にも健康と力を育むことができるのなら。その道を歩むのもまた、自分の運命なのだろう。
(私、まだまだ頑張りますわ!)
アドリアナの筋肉伝は、まだまだ終わりを知らない。




