第二十三話 筋肉令嬢と廊下の決闘
戦場での遠征を終えてからしばらく。王立学園は、今日も穏やかな空気をしていた。磨き上げられた大理石の床と窓から射し込む陽光が、廊下を明るく照らしている。そんな廊下を歩くアドリアナの背筋は、いつもに増して真っ直ぐだった。
「……筋肉令嬢だ…」
「今日も立ち振る舞いがお綺麗ね…」
遠征の経験は、彼女の立ち振る舞いに自然と重みを加えていた。筋肉と判断力は実戦で鍛えられ、それが日常の所作にも反映されていたのである。通りすがる生徒たちが、無意識に彼女へ道を譲るほどの威圧感すらあった。
「ドラクロワ嬢!」
高らかな声とともに廊下の向こうから駆けてくる青年がいた。黄金の毛を風に揺らし、どこか誇らしげに胸を張っている。それは第二王子のシャルルだった。
「聞いてくれ! 実は俺も鍛錬を始めたのだ! 見てくれ、この腕を!」
シャルルは袖をまくり上げ、細いながらも確かに引き締まった上腕をアドリアナの前に突き出した。普段は王族らしい態度を取る彼が、少年のように目を輝かせて筋肉を自慢する姿に、アドリアナは思わず微笑んでしまう。
「まだ細いですが、確かに以前より張りがありますね。努力の跡が見えます」
「だろう!? やはり王族たるもの、学問だけでなく身体も鍛えねばと気づいたのだ。ドラクロワ嬢の戦場での活躍を聞いて、俺も負けられないと思ってな!」
シャルルは満面の笑みで胸を張る。前世のアドリアナが見たかった彼の笑顔が、今はこんなに簡単に目にすることができる。それも筋肉のおかげだと、アドリアナは感謝した。
「基礎を怠らなければ、筋肉は裏切りません。体幹を意識して、毎日積み重ねることが大切ですわ」
「体幹…? なるほど、学問のように基礎が大事なのか!」
シャルルが感心して頷いたそのとき。
「まあ、なんてこと。学園の廊下で筋肉の話ですって?」
冷ややかな声が差し込んできた。振り返ると、華やかな巻き髪のエリザベッタが立っていた。彼女は扇を軽やかに広げ、薄く笑みを浮かべる。その眼差しは、明らかにアドリアナを牽制していた。
「殿方が筋肉を誇るのはまだ愛嬌がありますけれど……令嬢まで同じ調子とは、少々下品ではなくて?」
周囲の生徒たちが息を呑む。エリザベッタの言葉は、貴族社会の常識を盾にしたあからさまな挑発だった。シャルルは慌てて彼女とアドリアナの間に視線をさまよわせる。
「モ、モンティス嬢、これはその……」
言い淀むシャルルを制し、アドリアナは一歩前に出た。彼女の姿勢は崩れず、声は穏やかだがはっきりと響いた。
「筋肉も礼儀も、どちらも磨くべきものですわ。強さは粗野とは違います。己を律し、正しく扱えばこそ、美しさに繋がるのです」
その堂々たる返しに、廊下にいた生徒たちから小さなざわめきが起こる。誰もが心の中で『なるほど』と頷いていた。筋肉という言葉を優雅に語れる者など、これまでいなかったからだ。
エリザベッタは一瞬、言葉を失った。しかしすぐに扇を閉じ、笑顔を作る。
「ふふ、強気なお考えですこと。ですがシャルル様、あまりお近づきになりすぎませんように。筋肉のお話で盛り上がるのは、舞踏会では浮いてしまいますわ」
そういう彼女の声には、嫉妬を押し隠した微かな震えが混じっていた。シャルルの視線がアドリアナに向けられていることが、どうしようもなく癪に障るのだ。
そして彼女は意味深に微笑み、軽やかな足取りで去って行った。残されたシャルルは、板挟みのように額を押さえ、困ったように笑う。
「はあ…。やはり婚約候補同士の女性は、言葉の剣を交わすものなのだな…」
「婚約? 私はシャルル様と婚約はしませんわ。筋肉が全然足りませんもの」
「ぐっ…!」
意図せぬところで改めて振られてしまったシャルル。そんな二人の様子に、先ほどまでピリッとしていた空気は緩み、周囲の生徒たちにも笑顔が戻った。だが彼の中には、小声で囁き合う者もいた。
「……ただの筋肉自慢かと思ってたけど」
「礼儀や言葉まで備わっているなんてすごいわ」
アドリアナはそんな声に気づかず、涼やかな足取りで廊下を進んでいく。その背中に、生徒たちの視線が自然と集まっていた。




