部長 (回想)
中学二年生の春、放課後の家庭科室で目を奪われていた。上半身だけのマネキンのような何か、それが羽織った白いシャツに手を触れようとしたところで、準備室のドアが開いて一人の女子が入って来た。知らない顔だけど、名札の色で三年生だとわかる。
「消しゴムなくして。調理実習の時に落っことしてないかと思って」
言い訳がましくなったのは、マネキンに伸ばした手のばつが悪かったからだが、彼女は無言でポケットを探って消しゴムを取り出した。それだと頷くと、ひょいっと投げて寄越す。
「貰おうと思ってたのに。でもさ、中学生の男子がリンゴの匂い付き消しゴム使ってるってどうなのよ。懐かしくて笑っちゃったわ」
「いや、掃除してたら昔のが出てきて。あの、これ何ですか。シャツを作ってるんですか」
「そうだよ、被服部だもん。あるの知らなかったでしょ、部員五人だからね。ちなみにこれは私の作です。父の日にさ、ワイシャツ縫ってプレゼントする娘って良くない? めちゃくちゃ良い子っぽいよね。お小遣い貰えないかな。無理か」
よく喋る先輩だ。被服部という存在は確かに知らなかったが、それどころじゃなかった。
「これって、あなたが特別上手なんですか。それか、その被服部の人は皆これくらい作れるのが当たり前なんでしょうか」
彼女は口をぽかんと開けて、何か答える前にドアが開いて、他の部員らしい女子達が入ってきた。
別にお世辞を言ったわけじゃない。驚いたのは服を自分で作るという行為そのものと、あとは品質だ。少なくとも僕の目からは、店で売られているものと同等かそれ以上に見えた。
「何だよ、そんなにナチュラルに褒められた事ないから嬉しいな。そうか。あのね、この子らはニットばっかりで、だから部でミシン使って洋裁やるのは、今は私だけなんだよね。私、一応、部長ね。だから一人で我流でやって来たから、褒められ慣れてなくて。いや、君、ありがとう。自信付いたよ」
「これ、俺でも出来ますか。被服部に入ったら」
そう言うと、静かに活動の準備をしていた部員達もこっちに注目した。一年と二年が二人ずつで、一人は同じクラスの瀬尾だ。部長は困ったように、後頭部をさすっている。
「いやあ、練習したら出来ると思うけど、でも個人的に家でやったら?」
「入れませんか。男子は駄目ですか」
「いやいや、だって私らがよくても、君が恥ずかしい思いする事になるんじゃないかな。ほら、前も新入生相手に部活紹介ってやったけど、皆で壇上に並んで、ああいう時に一人男子だと笑われるよ。私なら笑うし。大体、君、部活入ってないの? 帰宅部?」
「柔道部、二年の先崎泰士です。でも入部させてくれるなら、今から辞めてきます」
「待て待て。何か君、あれだ。何かこう、空回ってないかな。いつもこんな感じなの?」
腕組みをして、首をかしげてうなっている。悩ませるのは申し訳ないが、ここで引き下がるとうやむやにされそうな気がする。
「ちなみに柔道ってどんな感じなの。そんなごつい体じゃないけど、補欠?」
「引き止められるような選手じゃないです。お願いします、雑用も全部やりますから」
向こうではひそひそ声で、瀬尾が部員達に僕の事を話している。女の園に男が一人というのはあまり歓迎されないようだけれど、部長は彼女達に相談はしないで、僕が後ろ手に組んで直立で待つのを渋い顔で見ながら結局、来るものを無理には拒めないからと折れてくれた。
「ミシンなら小物から練習するのがいいね。家の古い服なんかをばらして直してもいいし」
「いや、俺はシャツが作りたいです。その部長のと同じやつ、てらてらした布の」
「シルク」
「これシルクですか、これが。今日中にシャツが出来ますかね」
「出来ない。君はまず落ち着いて話聞くところから始めようか。え、今日からやるつもりなの?」
「迷惑じゃなければ。あ、でもハサミとか針とか、必要な道具って結構ありますか?」
「そういうのは備品があるけどさ、まあ生地だな。いきなりシルクは無謀だから諦めて、コットンあたりか。私も持ってるんだけど、みすみす初心者に進呈したくないんだよね。はっきり言ってうち貧乏だからね」
「自分で買います。そういうの、どこで買うか教えてください」
「近所にはないのよ。マルミツに手芸店が入ってるから、土日にでも行ってくれば」
「今から買ってきます。お金、いくらかかりますか」
「だから落ち着けっての。あのね、服を作るには工程ってものがあるの。デザインしてパターン作って、最後に縫製。そこまで生地は使いません。あんたはまず絵の描き方から覚えなさい、初心者め」
気持ちは逸るが、仕方がない。いったん教室に戻って取って来たノートの空きページに、部長の見本を参考にデザインを考えて描く事にする。ポケットのあるなし、襟の高さ、ボタンの数を考えながら、数枚描いている内に欲が出てきて、胸元にラインを入れたり、格子模様にしてみたりと夢中になって、気が付くと腕組みをした部長が、不機嫌そうにこっちを見下ろしている。
「何か気に障る事が」
「うん。何で柔道部が人体デッサン取れるの?」
「デッサン、ですか。よく知らないけど絵は得意なんです。小学校の時に漫画を真似して描いてたから」
「いや、わかんない。漫画ってそんなの普通は流行ってるキャラの模写とかでしょ。あんた今、パーツごとにあたり取って描いてたじゃん。そんなに綿密に描く必要ないし」
「部長、怒ると眉間にしわが寄りますね」
「うるさいよ。もういいよ、終わり終わり。時間だし。明日来たら採寸とパターン起こし教えてあげるから、片付けな」
いつの間にか窓の外が赤くなっていて、他の部員達も編み物の道具を片付けている。僕も慌てて筆記用具を仕舞って立ち上がり、皆に向かって一礼した。
「これからお世話になります。俺、掃除して鍵かけときますから。お疲れ様でした」
「うん。毎日掃除するシステム取ってないから、あんたも帰るの。それとその運動部の上下関係みたいなのやめてね、すごくやり辛いから。何か変な奴入って来ちゃったなあ」
それでも鍵くらいは返しに行くと主張したけれど、後輩を使うのが好きじゃない人のようで、結局二人で職員室に行って、会話の中で家の方向も近いとわかったので、途中まで一緒に帰る事にした。
僕は部長の自転車を押しながら、洋裁に関しての質問攻めをして、隣を歩く部長は面倒そうな顔をしながらも、結局は細かいところまでわかりやすく教えてくれる。初心者が思い付く疑問を一通り解決し終えると、気になっていた事柄にも触れてみる。
「俺が間に入りましょうか」
部長と部員達の間にはほとんど会話がなかった。その手の機微に敏感な方じゃなくても、同室内に立ち込める不穏な空気くらいは感じられて、これから参加する部がもめているのは嫌だった。
「瀬尾とは同じクラスだし、確執があるんなら、新入りの僕の方が上手く取り持てるかもしれません」
「確執って、そんな大げさなもんじゃないけどね。ちょっと嫌われてるだけ。私が自分勝手な先輩だからね」
「いや、それはおかしい。勝手でも横柄でも、後輩は先輩を立てるべきですよ」
「上下関係好きだなあ。でも私、部費を独り占めしてるんだよ。個人的に作ってる分の素材も全部部費で買って、その分あの子らには自腹を強いてるから、それは部長は勝手で横柄でしょって嫌われてるわけ。それでも味方してくれるかい?」
明るくあっけらかんと言って、反応に困る僕を見てにやける。
「変な奴だよね、先崎くん。中二の男子なんか、一番格好悪い事を嫌がるじゃん。女子だけの部に混じって服を縫うっていうのはさ、クラスでは隠しといた方がいいよ。気持ち悪いとか言われるよ」
「あー。でも俺は何か、そういう格好いいとか悪いとか、あんまりわからないみたいで。私服も、去年の夏にアロハシャツ買ってよく着てたんですけど、結構馬鹿にされました。赤いやつ」
部長は大口を開けて笑う。今さらながら、放課後に女子と並んで下校するなんて初めての事だと思って、少し緊張した。
「でもね、センスが悪いっていうのは、実は悪くないんだよ。センスがないよりはましなの、雑誌のコーディネートそのままとかさ。だからずれた趣味でも胸張ってればいいよ。真っ赤なアロハの人好きよって女子もきっといるさ。私は嫌だけど」
分かれ道の信号の所で、入部のお礼を言って頭を深く下げて嫌がられたあとに、打ち明ける事にした。
「俺、本当は五十五キロ級で県大四回戦まで行ったんです」
「柔道の話? すごいじゃん。あれ、それ辞めたらまずいんじゃないの」
「いえ、引き止められないだろうなっていうのは本当なんです。俺は浮いてるから。うちの部弱くって、団体戦も初戦負けで。でも皆やる気ないから乱取りとかちゃんと出来なくて、そういう苛々がずっと溜まってきてて、結構きつかったんです」
その内に誰かが付いて来るだろうと幻想を持って、毎日一人で朝練と居残りの自主練を続けた。だけど結局一年経っても、格技場の鍵を閉めるのは僕の仕事のままだった。陸上とか水泳とか、一人でも効率よく練習できる競技を選べばよかったなんて考えたりして、部活を休みがちになって、事情を聞きに来た同学年の部員にはぐらかしながら、もう続けられる気はしていなかった。
「辞める口実に、したのかもしれません。他の部に入るっていえば筋は通るから。ごめんなさい。でも、感動したのは本当なんです。あの部長のシャツ見た時、何か俺、服っていうのがあんな、何であんなにきれいな物が作れるんだろうと思って」
「久し振りに長く歩いたせいで、足がむくんだ気がする」
体勢を曲げてふくらはぎを揉んでいる部長は、僕の打ち明け話にはさほど興味がないようだった。
「わりと真面目に話してたんですけどね」
「聞いてたって。私が後ろに乗るから、うちまで漕いでってよ。お礼にいい物あげるからさ。お古のソーイングセット」
「駄目ですよ。二人乗りは禁止でしょう」
部長は信じられないというように眉をひそめた。それでも法律を破るつもりはないが、ソーイングセットは欲しかったので自転車に鞄を載せてもらって、僕は走ってついていく事にした。
夕暮れ時のジョギングのゴールは部長の家で、一軒家の庭の中に、プレハブがぽつんと一つある。それほど貧しい暮らしには見えない。
「前はそこそこ潤ってたんだよ。お父さんの建築会社が近所にあって、その倉庫に使ってたのを、洋裁始めた時にもらったの。ここなら夜でもミシン使えるからよかったんだけどね、ちょっと高いやつだったから売られちゃった」
今でも裁縫関係の物を置いてあるというその中に一歩入って、言葉を失った。スケッチブックや方眼紙の束が積まれた事務机を中心に散らかり放題で、張り巡らされたロープに大量の服と生地が吊られている。
「まあこんな感じでね、部費はほとんど私の生地代に消える、と。部に入ったのもミシンが使えるからだし、細かい物はまあ、よくない方法で手に入れる事もある。裁縫道具はポケットに入るサイズで嬉しいね」
おどけた言い方が冗談かどうか判断する間に、机の引き出しのごちゃごちゃから出して放られたポーチを受け取る。ピンク地に白い水玉模様の布製で、開けると針と糸、変なペンと小さなハサミが入っている。
「ちょっと年季入ってるけど、かわいいでしょ。それはちゃんと買ったやつだよ。お小遣いがもらえてた時代の遺物です」
色合いはともかく、武器を手にしたような気分でとても嬉しかった。小窓の下に足の踏み場がないので、換気のために開けたままの戸口から風が吹き込んで、ロープに吊られた服と生地が揺れて、生乾きの青い布が僕の顔に触れる。
「地直しっていってね、生地を洗って目を正すの。これも基礎だから今度教えてあげる」
「はい。あの、何で子供服ばっかりなんですか?」
「生地が少なくて済むじゃん。数撃った方が上達するでしょ」
申し訳ない気分になったのは、部長をみくびっていたからだ。彼女はきっと、すごい大人になる人だ。
「俺、ここまで出来ません。まだ洋裁始めてもないけど、こんなに全部賭けてやれるようになりません。ごめんなさい」
部長は笑う。「何で謝るんだよ」
「私はね、ミシン掛けてるとほっとするんだわ。嫌な事、考えないで済む。きゃあきゃあニット編んで暇つぶしてるだけの子達に腹立てないでも済むし、家の事ととかもさ。だから精神衛生上、必要っていうか、ただそれだけだよ」
青い布がまた夕風にはためいて、包まれるように僕らは隠された。微笑む彼女に見とれていると、細腕が伸びて、頭をぽんぽんと優しく叩かれる。
「別に口実でもいいと思うよ」
「え」
「居心地悪い所に無理にいなくていい。私は、仲間が出来て嬉しいから」
ハンドメイドのシャツと言葉で、日に二度も僕の時間を止めた。一つ年上で、さばけた喋り方をする女の人は、停滞ムードの漂う家庭科室で一人ロックミシンを掛け続け、下らない理由で折れる事もなかった。きっとそういう姿勢が、僕の何か大事なものに触れたのだと思う。