縫合
「外国でさ、山で滑落した人のニュースを見たことがあるんだよ」
おろおろとする少女と自分を落ち着かせるために話し掛けながら、ベランダの窓にもたれて、ポーチの中身を床にひっくり返すと、はさみと針山、糸車が転がる。傷口にウォッカを振りかけると、思わずあえいでしまって、少女が不安そうな表情を見せる。
「崖から落ちて、大怪我をして動けなかったんだってさ。助けが来るまで何日もかかりそうなんだけど、血が止まらなくってさ。その人、どうしたと思う?」
可能な限り平静を装うが、声が震えている。ライターで縫い針をあぶると変色して、痛む左手も使いつつ、糸を通して準備が出来る。ため息を一つ、二つ吐いて、腕に巻いたシャツの袖を折り重ねて口にくわえる。
「諦めたんじゃ、ないですか」
「ん、う」
皮膚の浅い部分だけを通すように針を刺す。これくらいならと思ったが、痛い。圧倒的に痛い。一針通しただけでもう鼻水とよだれ、涙をこらえられない。呼吸は荒く、シャツを噛み過ぎてあごまで痛む。いったん血を流すためにウォッカを傷口と糸に振りかけると、気が遠くなって視界がぼやける。
「わかった。自分で手術したんじゃないですか」
それも正答じゃない。どんな状況であれ、素人があり合わせの器具で自分に施す治療を、とても手術なんて呼べない。
「ちょっと、縫った、だけだよ」
と、シャツを咥えたままうめく。だらだらやるから辛いんだと、一気に一針、次の一針と通すが吐き気がこみ上げ、三針目を終えたところでもう諦めた。無理だ。血は止まらないし、傷の周りが赤く腫れて、喉から出た変な液体を飲み込み、涙を流しながらノットを結んで留める。
「もしかして、自分を縫ってるんですか? それで痛くて、泣いていますか?」
「君んちの家訓で、うう、リビングで自分の腕を縫うなかれって決めてるわけか。う、だったら中止するよ」
「はあ。え、何で怒ってるんですか」
「怒って、ないね。全て俺が悪いんだ。君に怒る理由なんてない」
「そうじゃなくって私は、針を刺したら痛いから、他のやり方がいいかなって思って」
「……何で急に、フレンドリーに、なるわけ」
「だって何か情けないっていうか、あんまり怖い人じゃなかったから。あの、それで私が思い付いたのは、セロテープか接着剤ならどうかなって。ホッチキスもあるかも。持ってきましょうか?」
「……そうしてもらえると、助かるよ。いや、できればホッチキス以外で」
「待ってて」と言って、彼女はまた腕を伸ばす歩き方で壁伝いに行って、結局五分くらいかかったが、寝室から接着剤だけ持って出て来た。
「セロテープ、見付かりませんでした」
悪びれる必要はなくて、瞬間接着剤ならむしろ好都合かもしれない。あとは運任せみたいなものだと、ウォッカで洗った傷口に接着剤を塗り、軽い力で肉を摘まんで寄せる。はあはあと汗をかきながら一分待って、そっと指を離すとあっけなく傷口は閉じて、流血も止まっていた。
ふー。
とりあえずの処置は終わって、一息ついた途端に吐き気をもよおして、トイレに急ぐ余力はなかったので、網戸を開けてベランダに嘔吐した。
「私に入れ墨を彫ってくれませんか?」
背後に立った少女がそう言った。このタイミングで、何てわけのわからない事を言うのだろう。
「いれ……、何?」
「体を針で縫えるんなら、同じように出来ませんか?」
「出来ません」
「そうですか。入れ墨、格好いいのに。あとあの、今おえおえ言ってたけど、ゲロ吐いてないですよね」
月に照らされた姿を改めて観察してみると、やっぱりずい分痩せていて、前髪から覗く小さな顔はまるで病人みたいに青白く、サエセンに似ている所は見当たらない。
「大丈夫だよ。ところで、結局サエセンはどこへ行ったの」
「おっさんですか。外国。仕事でしばらく行ったきりになるって。あの、何でサエセンていうんですか」
「佐伯先生だからだろ。学校で生徒からそういうあだ名で呼ばれてるんだけど、……外国?」
「あの人、学校の先生だったんですか。私にはCIAのスパイだって言ってたのに。くそ、嘘吐かれた」
もう何がどうだかわからない。こんなひどい痛みを抱えて、それ以上の眠気にまた襲われて、不良教師の破天荒に付き合っていられない。もう何でも構わないから、頼むから眠らせてくれ。
「あの、それで、あなたは誰なんですか?」
重いまぶたの隙間に、神妙な顔つきが見える。どう名乗ればいい。逃亡犯で、服魔で、君にとっては得体の知れない不法侵入者で、パンツも履かないで床に転がった十六歳の男子高校生だ。
「透明人間だよ」
そう言ったか言わないかで目をつむり、あのまどろみに身を投じる。でもね、部長。俺は腕を縫いましたよ。三針だけだって、わけのわからん少女に包丁で切られた傷を、涙流してゲロを吐きながら、自分の手で縫い付けてやりましたよ。あなたに出来るか。