辺境の武人の結婚
下品なシーンがございます。
燭台の炎がゆらりと揺れる。
まるで俺の心情を表すかのように。
何か気を利かせようとした使用人の仕業なのか、サイドテーブルに置かれていた灯りは、明るく安定した光を放つオイルランプではなく不安定に揺らめく蝋燭で、いつもの寝室をどこか妖しげな、酷く落ち着かない雰囲気へと変える。
そんな妙な空気に満たされた寝室の、大きな寝台の上で、この世のものとは思えぬ程に美しい乙女と向き合って。
俺はただ、白目を剥いて魂をどこか遠くへ飛ばしていた。
「アレックス、縁談を持ってきたぞ」
「懲りませんね父上」
いかつい顔をほくほくと綻ばせながら帰宅した父親に、俺はソファに座したままうんざりとした視線を投げた。
一週間ほど前、所用があって王都へ行くと領地を発っていた父だったが……所用ってそういう用件だったのか。押し付けるように渡された釣書らしき封書はそのままぽいとローテーブルに放る。
「そううんざりという顔をするな」
「うんざりもするでしょう。結婚などまだ良いと言っているのに性懲りもなく同じ話を。いい迷惑だ」
「顔合わせで三度ほど逃げられたくらいで傷つくなんてお前は繊細にも程がある。武人として情けないぞ」
ぴくっ。一瞬自分の頬が引き攣ったのを自覚するが、知らぬふりを装って父を睨む。
「俺が傷つく傷つかないの話じゃなくてですね、先方の気持ちも考え差し上げろって言ってるんです。どこのご令嬢が好き好んで、こんな辺境の地の、熊の如き大男に嫁ぎたいと思うのですか。毎度毎度騙すように連れて来られて可哀想に」
俺自身が一切傷ついていないと言ったら嘘になるのでそこについては敢えて明言は避け、俺はまさしく猛る熊の如く、犬歯を剥き出した。
――アレキサンダー・マキシミリアン。二十五歳。
貴族の末席に身を置いてはいるがその実態は、この過酷な辺境地域にて、国境防衛や魔獣との戦いに長年明け暮れてきた、自他とも認める武骨者である。
幼少から鍛錬を重ねてきた身体ははち切れんばかりに大きく育ち切り、硬い筋肉にみっちりと鎧われている。図体から視線を上に持ち上げて見れば、いかにも武人らしく短く刈り込んだ黒髪に魔獣をも怯ませる野生の目付き、角張った頬には刻まれた大きな古傷と、威圧感特盛のいかつい顔が乗っている。
ともなれば、煌びやかな社交界で蝶よ花よと愛でられてきた淑女たちが一目見て卒倒するのも致し方なし。自身が受けた心理外傷よりも同情の念が上回る。
そういう被害女性を性懲りもなくまた出す気ですかアンタ、という軽蔑の視線を隠しもせずに父に向けると、父は俺がそのまま年齢を重ねたような粗野な顔に苦笑を浮かべ、テーブルに投げた釣書を目で指した。
「まあ安心しろ。今度のご令嬢はお前の顔を見た程度で逃げ出したりはせんだろう。何せ、かのアームストロング将軍の末のお嬢様だからな」
「な、なるほど……?」
熊は熊でも、自分がツキノワグマだとしたらアームストロング将軍はヒグマのような方だ。筋肉の鎧どころか塊そのものと言い換えてもいい。
なるほどあの方のご息女となれば俺如きの容貌に怖気づいたりはしないだろう――と王国騎士団を束ねる猛将の姿を脳裏に描きつつ一瞬納得しかけ。別個の大問題にはたと気づいて俺は悲鳴を上げた。
「って、いやいやいやいや!? それって我が国が誇る武神アームストロング家の! 公爵閣下のっ、ご息女っ! 公女様って事じゃないですか!?」
「うむ。儂が息子の嫁取り問題で嘆いておったら巡り巡って閣下のお耳に入ったそうでな。恐れ多くも閣下が御自ら、そういう事ならうちの娘はどうかとお声がけくださったのだ」
「それ断れない奴!」
公爵閣下から直接っておい一体どういうことなのか。一地方領主の息子でしかない俺から見たら公爵家とか雲の上の存在的なヤツだから!!
「ちょ、ちょっといいんですか!? 恐れ多くも王家の血統たる公爵家の末姫様を、こここんな辺境の地に追いやるなんて!? 何と可哀想なことを! それって政治的な問題に発展したりはしないのですか!?」
「別に大丈夫じゃろ、辺境は辺境でも辺境伯領、家格も物凄く釣り合わんって程でもないし」
「物凄くではなくてもやっぱり釣り合ってはいないって事じゃないですか!」
「えーいお前はでかい図体をして細かいことをごちゃごちゃと。お前の言う通り基本的には断れない縁談だし、無理して断る理由もこちらには全くない。家長命令だ、有り難く姫君を頂戴しろ!」
びしぃと指を突き付けられて命じられ、俺は天を仰ぐことしか出来なかった。
リコッタ・アームストロング嬢。十八歳。
釣書に添えられていた姿絵を見て再度俺は嘆息を漏らした。
全体的に淡い色合いをした金髪碧眼の、いかにも清楚で儚げな、少女然とした可憐な女性が描かれている。今迄この手の令嬢ばかりを三人も出合い頭にぶっ倒してきたってのに何でまたこういう系統を選んでくるのかなあの馬鹿親父は。
……まあ、所詮は絵であって、どこまで真実を描き出しているかは分からない訳だが。
しかも血筋を考えると……アレからコレが本当に出て来るか?と首を傾げたくなるくらい、ご尊父の面影がない――と、俺は将軍の、ずももももと聳え立つ岩壁の如き容貌を思い起こしつつその絵と重ね合わせようと試みる。
…………。
…………うん無理。目や鼻や口の数くらいしか重ならない。
絵との共通点は髪や目の色くらいの、アームストロング家に相応しい偉躯の女性がやって来ても別に驚きはしない。むしろその方が自然ですらある。
アームストロング将軍閣下ご自身はとても気持ちの良い、尊敬出来る方である。俺自身との直接の接点は、何年も前に王都の士官学校で学んでいた頃、幾度かご挨拶させて頂く機会があったという程度だが、公爵というその身分に見合った、いやある意味それ以上にず抜けた貫禄と威厳を持ちつつも、それを鼻にかけて横柄な振る舞いをする事などは決してなさらない人格者である事は存じている。
そのような方のご息女であるのだから、どのような雰囲気の容姿であれ、きっと素晴らしい心根を持った女性に違いなかろう。
ただの見合いのみとはいえご足労頂くだけで恐れ多いわ……
釣書を、今度は丁寧に畳んでテーブルに置き直して、俺は幾度目かとも知れない溜息をついた。
一週間後。
公爵家の紋章を頂く馬車に乗って我が家にやってきたのは、真っ白な雪の精霊だった。
全体的に淡い色合いは姿絵の通りであったのだが、なんだろう、その鮮やかさは、姿絵からの想像とも血筋からの想像とも全く様相を異としていた。
否、基本的な造形は姿絵のそれにまことに近しかった。
ゆるく波打つ金の髪も、宝石のような青い瞳も、白皙の肌も、ほの赤く染まる頬も、どこもかしこも迸る程の輝きと透明感に満ち満ちており、小柄でほっそりとした身体つきも相まって、うっかりと触れてしまったら溶け消えてしまいそうな儚さである。……だというのに、そのたおやかな全身は瑞々しい生気に満ち溢れていて、気圧されるような力感すら帯びている。――なるほど、並大抵の画家の筆ではこれを描き表わすには到底足りぬと、違和感の理由に俺はなんとなく思い至った。
そんな奇跡のような姿の乙女が、純白のドレスに身を包み、馬車から降りて来るさまを、俺はただぽかんと阿呆面を晒して眺めていた。
地に降り立った精霊は、まずは隣に立つ俺の父親に一礼し、すぐに俺に向き直って、硝子で作った花みたいに綺麗な微笑を向けた。
「お初にお目にかかります。花嫁として参りましたリコッタと申します。どうぞ宜しくお願い致します、アレキサンダー様」
「…………待って花嫁?」
声もまた天上で鳴らされる鈴の音の如しで頭がどうにかなりそうだったがちょっと待て。俺の耳は辛うじて、聞き逃してはいけない情報を捉えた。
花嫁って言った今?
見合い相手とか、婚約者ですらなく?
いや格好。そういえば格好。あまりにも中身に似合い過ぎていて、この真っ白なドレスの意味が頭からすこんと抜け落ちていた。
頭には慎ましやかなヴェール。引きずる程に長い裳。純白の絹地に煌びやかな金の糸で丁寧な刺繡をくまなく施された、どこからどう見ても最高級の、紛うことなきウエディングドレスである。
ぐぎぎぎと、錆び付いたような動きで傍らの父に首を向けると、父は腕組みして胸筋を逸らし、呵々大笑した。
「お前の釣書をお渡ししたら姫も大層乗り気になられたそうでな。もう婚約とかウダウダやってないで結婚しちまえばいいんじゃね?と閣下の快いご賛同も頂き、早速嫁入り支度を整えてお越し頂いた次第だ。言ってなかったっけ」
「言ってなかったっけじゃねーーーーーーーーーよこのクソ親父ィィィィ!!!!?」
どういう事だそりゃああ!?
想像力の限界に挑みかかる展開に、普段はどうにか被っている貴族の嫡男としての仮面がうっかり剥がれてすっ飛んだ。親父の胸ぐらをガッと掴んで締め上げる俺に親父はニヤニヤとムカつく笑顔を向けてきた。
「新妻の目の前でいきなり家庭内暴力とは頂けないなアレックス。姫が今後の生活に不安を感じてしまうじゃないか」
ぐっ…………!!?
息を呑むのと同時に、俺は視線をかたわらへと向ける。そこにいる姫君は大の男の突然の掴み合いにも動じた様子なくおっとりとした笑顔を浮かべたままでいた。
「おっ……お見苦しい所をお見せ致しました」
今更取り繕っても何もかもが遅いとは思いつつも、それでもどうにか姫に向き合う。
もしかしたら笑顔で立ち尽くしたまま気絶しているのでは、と、一瞬考えてしまった。今迄出会った令嬢ならきっとそうであったので。
けれどもアームストロング家の末姫様は、正しくその家柄に恥じぬ胆力をお持ちの方であった。
「いえ。親子仲がおよろしくていらっしゃるのですね。実家の父や兄たちの姿が目に浮かぶような和やかなやりとりに、寧ろマキシミリアン家がより一層身近に感じられました」
和やかて……。
アームストロング家どんなんだよ、という驚嘆も覚えつつ、いまだかつてまみえた事のなかった胆力の令嬢に、俺は計らずしも胸が高鳴るという心持ちを覚えてしまったことは否定できなかった。
そしてそのまま俺と姫君は、城内の小さなチャペルに連行され式を挙げた。
言葉通り、比喩でもなく、旅の垢を落とす時間も無しに、直行で、だ。
戦地から帰還した軍人じゃあるまいしそんな強行軍を公爵家の姫君にさせるとか何事だ。女性には身支度を整える時間が必要だろうと喚いたのは俺だけだった。姫側からはドレスは流石に公爵領から着てきたわけでなく、最寄りの村にて身支度を改めたので心配なくと丁重に断られ、親父の方はそりゃそうだろ公爵領からここまで何日かかると思ってるんだ常識的に考えろよと突っ込んで来たがてめえに常識諭される筋合いはねえクソ親父。
しかし血みどろの親子喧嘩は再開する隙もなく、あれよあれよという間に婚姻の儀式は滞りなく交わされ、知らぬは当事者ばかりなりという風情で、てっきり姫君の歓迎の為に準備されていたのだと思っていた宴席は披露宴となり――
今、ここに至る。
じりじりと蝋燭の芯が燃える微かな音を耳が拾い、俺は回想の世界から現実へと意識を戻した。いつまでも現実から目を背けて過去を振り返っている場合ではない。今まさに妻となる女性と初夜の寝台の上にいるというこの時に。
初夜の……
寝台……
に、いるよ月の精霊があああ……!
頭を抱えて蹲り悶えるという情けないリアクションは脳内のみで実行するに留め、現実の俺は唯々ひたすら目の前の美しい女性を睨むように見つめていた。
……さっきは雪の精霊とか表現していたかも知れない。しかし今は式も終えて純白のウェディングドレスを脱ぎ、代わりにミルク色の薄く柔らかそうな夜着に身を包んでウェーブのかかった金の髪を背に流しているその姿は、蝋燭の灯の所為もあって雪よりも温かみのある光を纏って神々しく輝いていて……
あああ語彙力。圧倒的に語彙力が足りない己が恨めしい。いや足りないのは語彙力だけではないかもしれない。人生経験的な何かがきっとそもそも足りてない。
一言で言ってこの状況、もうどうしたらいいかさっぱり分からない。
「あの、アレキサンダー様」
不意に、鈴の鳴るような声で呼びかけられて、俺は飛び上がらんばかりに背筋を伸ばした。
目の前の精霊、もとい、リコッタ姫が、おずおずといった風情で小首を傾げ、俺を見ている。その姿の愛らしさたるや、ああもう本当に語彙力。うっかり自分の知性の稚拙さへの呪詛を再開しかけるが、その前ギリギリで、俺は自分の失態にはたと気づいた。
寝台で向き合ったまま、俺は脳内では過去に遡ったり悶絶していたりと忙しなくしていたものの、実際には何も行動を起こしていなかったのだ。いかつい大男にむっつりと黙りこくられたまま睨みつけられている状況の居心地など最悪以外の何物でもなかろう。
しかも、相手は自分よりも七も年下の御令嬢である。そんな女性に気を遣わせてしまった事実に気付いて、今更ながらに冷や汗が瀑布の如く溢れ出す。悠長に白目剥いて気絶してる場合ではなかった!
俺はそのまま寝台上でがばっと平伏し、焦りに焦った口下手な者特有の早口で告げた。
「っ大変申し訳ございません姫! 考え事を致しておりました! ほっ本日は、色々と慌ただしいことの連続で、さぞお疲れになった事でしょう、どうぞ今宵はゆっくりとお休みくださいっ」
額をベッドシーツにめり込むほどに押し付ける俺を、姫はしばらくの間そのまま見つめていたようだった。当たり前だが、その表情は見えない。怒っておいでなのか、呆れておいでなのか。どちらであっても全く当然のことである。遠路はるばるやってきて初めて顔を合わせた夫となる者がこんなにも情けない男であったら失望するのも当たり前でどのような罵声を投げかけられようとも一切の申し開きのしようもなく、
「お顔を、お上げくださいまし」
脳内で繰り広げられていた言い訳を断ち切ったのは、予想よりも遥かに間近から聞こえてきた声だった。
具体的には、吐息が耳朶を撫でる程の耳元から。
「……………………ッ!?!?」
咄嗟に、土下座の姿勢そのまま斜め後ろ方向に飛び退る。と、俺が元いた場所の真横のあたりに、俺が直前まで取っていた体勢とそっくりな、前屈みになって縮こまるような格好で、顔だけをこちらに向けていた姫の姿が目に入った。
「あっ、申し訳ございません。武人の方に軽々しく近づくのは失礼でしたね」
「いっ……いえいえいえいえっ! 失礼な事など全くありませんっ!」
むしろ失礼レベルなんか絶賛俺が限界突破中である!
全く恥ずべき事実だが、どうせ共に暮らして行くのであれば俺の情けなさなどすぐに露呈する事である。俺は恥をかなぐり捨て、リコッタ姫に真実を告白する臍を固めた。
「も、申し訳ありません。俺、いえ私は、恥ずかしながら、女性の気持ちに関しましては甚だ不案内でございましてっ……! 何せ、このような女人にはいかにも恐ろしかろう見てくれでございますゆえ、恥ずかしながら女性と親しく言葉を交わした経験すらない体たらくで……」
この歳で女性との交際経験ゼロなのです、という、部下や同僚に指差されてゲラゲラ笑われる事実を白状すると、リコッタ姫は少し驚いたように愛らしい眼を見開いてから、何やら合点がいったように深々と頷いて見せた。
「なるほど。アレキサンダー様ほどの美男子でしたらさぞや豊かな恋愛経験をお積みと思っておりましたが、逆に苦労なさってこられた口であられるのですね」
……はて?
今、何か生まれてこの方聞いたこともないような単語を聞いたような?
「びなんし?」
言葉の意味を理解出来ずに問い返す幼児のようなたどたどしさで、耳が拾った不思議な単語を口にする俺をよそに、リコッタ姫の鈴の声が続く。
「確かに正直な所、恐ろしいといえば大変恐ろしゅうございますわ。アレキサンダー様の類稀なる美貌の眩さにわたくしの目は今にも潰れてしまいそうですもの」
「びぼう」
「……ああ、はしたないと笑わないでくださいませね。わたくし、姿絵を一目拝見したその瞬間から、アレキサンダー様の余りにも素敵なご容姿に心を奪われてしまったのです。けれども所詮は絵、こんな素敵な殿方が現実に存在するだなんて有り得るわけがないと思いつつも、あの父が手放しで誉める人柄と武勇に心をときめかせつつこの日を待ち侘びておりました。
そうしてこの度まかり越しまして、本日ようやくお顔を合わせた現実のアレキサンダー様が想像していたよりも尚お美しくて……」
「おうつくしい」
「わたくし生まれてこの方、父や兄達のような巨岩の如く膨れ上がった筋肉こそが最も男性的魅力に優れていると信じて疑っていなかったのですが、アレキサンダー様と出会った事でそれがいかに狭い世界しか見てこなかったが故の思い込みであったのかを思い知りました。いえ、父達の肉体も勿論惚れ惚れするものなのですが、アレキサンダー様の、神々しいまでに均整の取れた究極の美を目の当たりにして自分の視野の狭さに恥いるばかりでございました。
ストイックに鍛え上げられ研ぎ澄まされたこの筋肉……特に背筋の美しさには言葉もなく……しなやかかつ繊細、強靭さと優雅さの同居……
父達の肉体を野趣溢れる雄牛の丸焼きとすれば、アレキサンダー様の肉体はあたかも選び抜かれじっくりと熟成された最高級肉の厚切りステーキの如き、丹精にして芳醇な、職人の技術の粋を結集したかのような! いえ寧ろ神の手によるもの如き、いえもはや男神そのものと言っても過言ではない優美さで! これぞまさに、奇跡でございます。ああ実に尊い……」
あ、あー……? うん? えーと、まあ、確かにアームストロング家の面々と並んだら俺如き、優男に分類されるのかもしれない?
「そして眉目の秀麗さもさることながら、そのご性格の何と温厚で慈愛深きことでしょう。父から聞いていた通りでございましたわ。アレキサンダー様は大変に誠実でお優しい紳士であられるので、柔弱な見た目のわたくしに無理を強いることは決してないだろうと」
「……優しいかどうかは分かりませんが、女性に無理を強いたりは決して致しません」
俺はそれにはどうにかして、幼児の鸚鵡返しを脱した言葉で返すことが出来た。
ここまで過分なまでの、勘違いレベルの分不相応な評価を頂戴してきて汗顔の至りではあるが、そこだけは間違いなく心から誓える部分だった。女性を守る気概なくして、妻となる人を大切に出来ずして、武人を名乗る事など出来ようはずもない。
しかし姫は、ドン、と力強く己の胸を叩くと、可愛らしい顔をきりりとさせて訴えてきた。
「大丈夫です、アームストロング家の女は見た目よりもずっと丈夫に出来ているのです! どうぞご遠慮なく無体を働いてくださいませ!」
ごふぁ!?
茶とかを飲んでいる所であったら全力で噴き出している所だった。いやむた、無体を働けって!!
「そう言われましてもっ」
「無理でしょうか!? やはりアレキサンダー様は肉感溢れる豊満な女性の方がお好みだったでしょうか……!?」
「いやっ……見た目の好みという点では姫は俺の理想通りですけれども! 王国の守護者たるべしと育てられた所為か俺はぶっちゃけ姫のようないかにも守ってあげたくなる儚い女性は正直性癖ドンピシャで……っていやいやいやこれは口に出さなくていいな俺!?」
焦り過ぎて独白と台詞をなんか間違えた!
ついうっかり口に出してしまった失言に慌てる俺に、姫はつぶらな瞳を爛々と輝かせ、勢い込んで顔を近づけてきた。
「性癖ドンピシャというのはわたくしでもアレキサンダー様の欲望を喚起する事が出来るという意味で間違いないのですよね! それを聞いて安心致しました!」
欲望を喚起するどころか控えめに言っていつでも行ける状態ですけど今度は言葉を辛うじて飲み込む。紳士だ! 俺は紳士だ!! 義父の期待を決して裏切るな!!
理性を総動員し内心で己を戒め続ける俺に対し、リコッタ姫がふと小鳥のように小首を傾げ、俺を見上げて言った。
「お願いがございますの。ちょっと祈りを捧げて頂けませんか。こう、手を組み合わせて」
「こ、こうでしょうか」
唐突に何を、とは思ったが姫の頼みであれば特に拒否する理由もない。呑気にも思いながら、姫が手本を見せてみた通り、身体の前で祈る形に指を組み合わせる。
と――その瞬間、その組み合わせた手の周りで、閃光の如き速さで何かが踊った。
「…………っ!?」
その、武人として長年鍛錬してきた俺をして見切らせぬほどの速度に、ぎょっとして目を見開く。気付けば、たった一瞬の間に俺の手首は、ロープでがっちりと縛り上げられていた。
「わたくし、筋力においては見た目の通り非力でございますので……護身のために、こういった捕縛術などを少々嗜んでおりまして」
おっとりと微笑みながら、縛り上げた俺の腕をぐいと引き上げる。と、どうも、何らかの力の入れ方のコツがあったようで、か細い女人の力で俺の巨体がいとも簡単にころりと転げた。手首のロープは、ベッドの柵かどこかに結わえ付けられたようだった。腕を頭上に持ち上げた形で固定され、縛められた体勢でベッドの上にあおむけに転がる俺の太腿の上に、リコッタ姫がよいしょとばかりに跨り乗る。
「お義父様からもお聞きしております。『あいつ多分姫様滅茶苦茶好みのタイプだけどヘタレで自分からグイグイは行けないから、姫様さえオッケーでしたらどうぞ好きにしちゃって下さい』と」
親父ィィィィィ!!! なんで知ってるんだよ俺の好みを!? はっ!! だからか! だから今迄の見合い相手が全部守ってあげたいタイプだったのか! 親心のつもりだったのか! 余計なお世話だわ!! 親に女の好み把握されてるとか辛すぎるだろうが!!
「実際に確認するまで本当にわたくし如き貧相な体つきでもお気に召して頂けるものか自信がなかったのですが。大丈夫とのことですので、心置きなく好きにさせて頂きます!」
そして、ずりずりと少しずつ、太腿から腹の方へと這いより近づいてきた、そんな時。
「…………?」
何か……姫は己の尻の下の感触に違和感を覚えたらしく、ちらりと下を、自分が跨る俺の身体を……覗き見た。下穿きを履いた、俺の……下腹部の辺りである。
ゆっくりと、森の中で野生の獣に遭遇した時の対処のような緩慢さで、姫はその位置から腰を上げてそろりと退き、少し手前の腿の辺りに腰を下ろし直す。
や、否や。
一転、今度は獣が獲物に襲い掛かるような電光石火の速さで、がばちょと俺の下履きをずり下げてその中を確認する。途端、姫はさっと顔を蒼白にした。
「いけません! 何か熱を感じると思いましたら……お股の辺りが赤黒く腫れてしまっていますわ!? 骨折でもしてしまったのでしょうか!? わ、わたくしもしかして誤って踏みつけてしまったかしら!?」
即座に赤黒く腫れ上がるブツを検め始める白魚のような手が、その手早さとは裏腹の恐れ慄くようなソフトタッチで表面をさわさわさわと撫で回し、
「ちょっ…………ちょおおおおおおおお待ちくださいリコッタ様あああああ!?」
つい反射的にびくんと顎を逸らして俺は絶叫し、ーー
あっ。
***
翌朝。
朝食の席にリコッタ姫――もとい、妻リコッタを伴って現れた俺を、上座に既に着いていた父の視線が、曰く言い難い……なにやら生暖かい……粘性の微笑ましさというか……平たく言えばすげぇムカつく温度を湛えて眺めまわしているのを、奥歯を噛みしめてどうにか沈黙のうちにやり過ごした。
「昨夜はお楽しみでしたね」
「ぶっ殺すぞ」
……のに、開口一番嫁の前でそんなことを言ってくる父とかただちにぶっ殺しても許されると思う。本当にそういう男社会でのみで許されるような発言を息子の新妻の前でぶちかますとか義父として失格だろと、こんな婚家で申し訳ないと気づかわしく思いながら妻の方を見やると、彼女は手を両頬に添えて恥じらっていた。えーと、うん。女心の斟酌にはいまだ習熟せぬ身ではあるが、口元の緩みを見るに、まんざらでもないという感じであろうか。いいのか。ならば俺もここは飲み込もう。
そう思いながら、妻の椅子を引いたところに、父は同じ熱量の眼差しのまま猥言を重ねた。
「もうちょっとこう、一夜にしてげっそりとやつれた様子で出て来るかなと思って楽しみにしてたんだが。思ったよりしゃんとしとるな。ちゃんと満足させて差し上げられたのかお前?」
「まだ言うか!」
「アレックス様は大変にご立派でございましたわ」
妻の盾にならんと犬歯を剥いたが、どうやら我が妻となったこの女性は守られるばかりの手弱女ではないらしいと、昨晩あの後、たっぷりと時間をかけて交流を重ね、俺もよくよく思い知った所であった。つやつやと潤いすら帯びた笑顔で彼女は、俺を立てつつも庇う言葉を発する。父の笑みの深度が増したような気もするが気にしない。我が新妻の心意気に胸を打たれつつ、着席した妻の隣に俺も座った。
「朝から愚父が本当に申し訳ございません、リコッタ様」
「とんでもない事でございますわ。お義父様のお気遣い、大変嬉しいです」
食堂の大きな硝子窓から差す朝日にも負けない輝きで、彼女は俺に微笑を返す。今の彼女はさながら、陽光の精霊とも言うべき美しさであった。彼女の屈託のない笑顔に慰められ、俺もまた眉尻を下げる。ふふっと愛らしい吐息を漏らした彼女は、ぱちりとひとつまばたきをすると、「それよりも」と薔薇色の唇を拗ねたように尖らせた。
「アレックス様? リコッタ様ではなく」
「ええ、すみません。リコッタ」
「おうおう。辺境にもようやく遅い春が来たのう~」
食前最後のからかいは、口調に変わらぬ粘っこさはあったものの下品な表現ではなかったので、俺は寛恕してやる事にして、食卓のパンを手に取った。