二. 翁と媼
まだまだ神々の影響力が色濃い神代のことである。農耕にしても漁業にしても、道具も技術も幼稚なままでも生活に困らないような、豊かな時代においては人々の気性は穏やかで優しいものだった。
故に、怪我をし川を流れていくヒルコを捨て置けなかった。見付けた媼も、相談された翁もだ。二人の子供は行商をし、海の物を運んではそれぞれの地の特産品と交換して戻ってくる。ちなみにこの時代はまだ貨幣が無いため物々交換である。
「おお、おお、可哀想に。腕は治るかなあ、目は、もう見えないのだろうか。」
媼から話を聞いて、翁はヒルコを抱えて悲しそうに眉を下げた。
傷の手当は媼がてきぱきと進め、息子の着物を残しておいて良かったわ、と言いながら衣装箱から取り出した着物に着替えさせられた。ここまで甲斐甲斐しく世話をやいてくれたのは、媼が初めてだとヒルコは思っている。翁も気にかけてくれている。すっかり荒んでいたヒルコの心が少し、温かくなった。
「そうだ、ワタツミ様なら怪我を治してくださるだろう。」
「そうね、ヒルコは私たちの子供になるのだもの、治してくださるわね。」
ヒルコの潰された片目と片腕に視線を落としながら、翁と媼は口々に言う。
「僕、治さなくていい。」
ヒルコは思わず口走っていた。
二人が氏神であるワタツミの名を口にしたことにより、ヒルコは自分がどこにいるのかを悟った。海辺の里、海の幸に恵まれた海神を氏神とする、ワタツミの里だ。いよいよ海に呑まれるところだったと知り、ヒルコは恐怖に襲われた。ほんの少し前まで、葦の舟で流されていた時は、憎悪と怨嗟で恐怖も感じなかったというのに。
「なんと、治さなくて良いと言うのか?」
ヒルコの言葉に、翁は目を剝いた。
「うん。今は…神サマには会いたくない。…悲しくなるから。」
言い訳を少し考えて、ヒルコは翁に答える。嘘を吐く疚しさか、神サマなどと呼ばなくてはならないことが気に入らないからか、ヒルコは視線を地に落とした。その姿は、翁と媼の心を打ち、誤解を孕んだまま二人はヒルコの要望を呑むことにした。
その実、この期に及んで氏神だろうと何だろうと、三貴神に連なるものと顔を合わせたくなかっただけである。海の彼方に消えることの無かった自分を、もしかしたら打ち取ろうとするかもしれない。目を潰し、腕を折られた恨みは忘れてはいないが、今となっては敵うはずもない。少なくとも目を合わせなければちょっかい迄は出してこないはずだ、と淡い希望を胸にヒルコは自分を抱き上げている翁の着物の袖をぎゅっと握った。
翁と媼は震えるヒルコを見て、多くを語らないが何か不幸なことがあって両親を失ったのだろうと思い込んだ。熊か山犬かに襲われでもしたのだろう。どうにかヒルコだけを舟に乗せて逃がしたのかもしれない。今はそっとしておいた方がヒルコのためなのかもしれないと、翁と媼は頷き合った。
どうやらワタツミの元へは連れていかれないのだと、翁と媼の雰囲気から悟ったヒルコはほっと一息ついた。恨みつらみは、きっと消えることは無いだろうと思っている。けれど、翁と媼を巻き込むことには抵抗を感じている。どのみち今のままでは、仮に目も腕も治ったところで兄弟神の足元にも及んでいないのだ。神格を剝奪されたわけではないのだから、もしかしたら報復出来るくらいには強くなれるかもしれない。自分もまた、神である。寿命なら腐るほどあるのだ。翁と媼に代わる代わる抱き上げられながら、ヒルコは心の内で復讐の日までできる限りのことをしようと誓ったのだった。




