九. 気が狂れるのが先か
ヒノキはこの先何があったとしても、ハヅキのあの表情だけは忘れられないだろうと感じた。反魂の業が破られる条件を告げた時の、ハヅキのあの暗い喜びに満ちた笑顔を。
報告を聞いた時に心配はしていた。いくら鬼の子とは言え、頑強なのは身体だけだ。それならば、子供心に将来を誓った相手の死を目の当たりにした心は。せめて病に倒れたというのならまだ慰めようがあったのかもしれない、とヒノキは思う。目の前で、首が刎ねられるとは。別れの言葉も交わせぬままでは、正気であることを手放したとして誰がそれを責められようか。
「最後に、もう一度忠告しておく。業が破られれば、業の使用者も対象者も水と成って果てる。後には何も残らんのだ。それでもハヅキ、君の決心は変わらぬのだね。」
「もちろんです。」
ヒノキの最後の問いに頷くと、もうこれ以上話すことは無いとハヅキは隣に横たえていたホヅミを抱き上げる。
「ハヅキ、最後に一つ。」
ホヅミを抱き、立ち上がろうとしたハヅキにヒノキは声をかけた。
「大変かもしれないが、里から離れた場所に行きなさい。…わたしは君に消えて欲しくないと思っている。これが良いことなのかは… 正直分からないが。」
「…はい。ホヅミさえいてくれるなら、他の誰も必要ない。」
「この里から、神々の山を背にして千里を駆ければ亜人も人どもも住んでいない場所がある。」
「助言、ありがとうございます。」
ハヅキは軽く会釈をして、退室した。その後ろ姿が消えても、ハヅキが去っていった扉を見詰めたままヒノキは溜息を吐く。
果たして、正しい選択だったのか。もう、正気である部分など僅かしか残っていないだろうハヅキを死者と二人きりにする意味を考える。
ヒノキは知っている。これから先、人も亜人も、神々さえも巻き込んで多くの血が流れることを。あの流れ者が生き残ってしまった以上、それが裂けられない未来であることはヒノキを始めとした神々は予想している。
「この里も、わたしも、いつまで永らえることができるだろうか。」
ヒノキは深い深い溜息を吐いた。
ヒノキの館を出ると、そこにはハヅキの両親が居た。
「父さん、母さん…」
「ハヅキ、お前、ホヅミを黄泉返らせるのか?」
どこか困り顔の父親が問う。ハヅキが頷くと母親は静かに涙を流した。
「お別れなのね?」
涙声の母親の問いにもハヅキは頷いた。
「…いっそ、人里から離れた方が巻き込まれなくて良いのかもしれん。とは思っている。だが、それはそれで大変だろう。」
悲し気に父親が言い、母親が続ける。
「数日なら余裕があるから、ホヅミの反魂の準備を手伝わせてちょうだい。最後のお別れが、今、この時なのだけは悲しすぎるもの。」
その言葉に、ハヅキはホヅミの頭に視線を落とした。
「これから必要な素材を集めるのだろう? それくらい手伝わせてくれ。…それに、早くしないと腐り始めてしまうだろう。」
ハヅキの迷いを断ち切るように父親が言い、そうして、素材集めだけだ、と念を押す。
「…よろしく。」
顔を上げてハヅキは答えた。両親の顔に安堵の色が浮かぶ。
ヒノキの館から出てきたハヅキの表情に、二人は肝を冷やした。本当はもしヒノキ様が説得に失敗したのなら、ホヅミのことを諦め丁重に弔うよう再度自分たちで説得するつもりで待っていた。けれど、一目見てそれでは駄目なのだと悟る。不穏な空気の漂う今、それならいっそどこか遠くへ逃げてくれた方が良いのかもしれないと思い直す。
どうにかハヅキを説得して、反魂の準備を手伝うことを認めさせ、ほっと一息吐く。
「里の西の山の中腹に洞がある。そこを反魂の業の拠点にするといい。普段からあまり人が立ち寄らない場所だから、誰かに見られることも無いだろう。」
そう提案すると、ハヅキはどこか虚ろなまま微笑み頷いた。




