始まった少し先で
咲来が色とりどりのイルミネーションの中に後藤を見つけて駆け寄ると、彼はタブレットから目を上げて微笑んだ。
「大丈夫でした?無理させちゃいましたか?」
タブレットを鞄にしまいながら、後藤は気遣うように尋ねた。
「無理はめっちゃしました。ヘトヘトです」
「え、すみません。俺がわがまま言ったから」
「別に、後藤さんのせいじゃないです」
咲来が後藤の手に指を絡める。
「私だって、今日くらい後藤さんとゆっくり過ごしたかったので」
一ヶ月前から正式に付き合い始めたとはいえ、咲来が実験と卒論と論文作成に追われているせいで、ろくにデートをする時間もなかった。
二人で過ごす時間といえば、学食で夕飯をかきこむ間と、後藤にバイクで送り迎えしてもらう間だけで、ゆっくり話すこともままならなかった。
クリスマスイブは絶対にデートする。
誘ったのは後藤だったけど、咲来の方もそう心に決めていた。
あれから咲来と眞野との間には何もない。好きになる前に戻ったように、必要に応じて指導を受けるし、そうでなければ喋らない。
研究室の先輩や同期は、そんな二人のことを最初のうちは好奇の目で見ていたけど、修論や卒論に追われたり、学部の三年生が新しく入ってきたりで、今ではもう表立って気にする人はいなくなった。
咲来は後藤に、何をしたのかと訊いてみたことがある。
『ちゃんと卒業して、東西ファーマに就職したい』という咲来の望みに、後藤は『それなら力になれるかもしれない』と言って、実際、二週間ぶりに研究室に復帰した咲来は、何不自由なく研究室生活を送れている。噂が広まって内定を取り消されたりもしていない。
後藤は、『大したことはしてませんよ』とはぐらかして、教えてくれなかった。
その後、咲来がラボの先輩から漏れ聞いたところによると、後藤の指導教官である久保教授が、咲来のところの教授に圧力をかけたとかで、そこに後藤が何らかの関与をしたのではないかと咲来は思っている。
「ちょっと、飲む前に聞いてもらえますか?」
お洒落なフレンチレストランで、ワインのグラスに口をつけようとした咲来を、後藤が止めた。
「は、はい」
咲来が素直にワインをテーブルに戻すと、後藤は居住まいを正した。
「薄々お気づきかと思いますが」
そんな前置きをするから、咲来は少し緊張した。
「俺は、ササラちゃんの後輩になります」
かしこまった口調で、後藤はそう言った。
「……はい?こ、後輩?」
予期しない言葉に、咲来は面食らった。
「あれ。気づいてませんでした?」
「気づくも何も、どういうことですか?」
「いや、俺も東西ファーマから内々定もらってて。内密にということだったので言えなかったんですが、おととい解禁になったので……」
固まってしまった咲来の前に、前菜が運ばれてくる。
「大丈夫ですか?ササラちゃん」
後藤に顔の前で手を振られて、咲来はハッと我に返った。
「え、な、え?後輩?東西ファ、え、後藤さんが私の後輩になるんですか?」
「ええ。気づいてるかと思ったんですが。言えない代わりに、丁寧語で話すことで間接的に伝えていたつもりでした」
「き、気づくわけないじゃないですか、そんなの」
「それはすみませんでした」
後藤は申し訳なさそうに謝った。
「え、いつ……いつ内々定が出たんですか?」
少し落ち着きを取り戻して、咲来がそう尋ねると、
「十月の初めです」
と、後藤は軽い調子で答えた。
「なっ。そんな前に?いくら内密にって言われたからって、彼女にまで隠します?」
すみません、と後藤は再び謝った。
「リスクを全て排除しておきたかったんです。せっかくササラちゃんと同じ会社から内々定をもらえたのに、取り消しなんてことになったら、後悔してもしきれないから」
「だからって。え、研究職ですか?」
咲来は開発職だ。同じ会社でも、職種が違えば配属先も異なる。開発職は本社なのに対して、研究職は研究所に配属される。東西ファーマの研究所は、全国に散らばっている。
「いえ。お医者さんとやり取りする仕事なので、配属先はササラちゃんと同じ本社です」
後藤は涼しい顔でそう答えた。
「えっと、私と同じ会社になったのって偶然なんですよね?」
少し怖くなって、咲来は恐る恐るそう尋ねた。
そんな咲来を見て、後藤は少し笑った。
「正直、ササラちゃんと同じ会社に入れたらいいなぁとは思いました。でも、それだけの理由で選んだわけじゃないですよ。東西ファーマだったら、大学で研究してきたことが活かせそうだと思ったので」
その答えを聞いて、咲来はホッとした。
東西ファーマの主要な研究領域は精神疾患だ。確かに後藤の博論テーマとも合致している。
手付かずの前菜の横に、スープが運ばれてきた。
「あの、飲んでいいですか?」
ワイングラスを持ち上げて咲来が許可を求めると、
「あ、いいです。内々定の話だけちゃんと伝えておきたくて」
と、後藤は手で促した。
赤ワインを口に含むと、咲来の口の中に葡萄の香りがふわりと広がった。
「別に、飲みながらだって聞けますよ」
前菜を口に運んで、咲来はモゴモゴと訴えた。
「そうかもしれないですけど、俺、ササラちゃんが酔っ払うと記憶無くすの知ってますから」
「ええ?いつそんなことありました?」
「やっぱり全然覚えてないんですね」
後藤は困ったように苦笑いした。
「五月頃だったかな。ササラちゃん、秤量室で俺に話しかけてきたんですよ」
そう、咲来の記憶を試すように言った。
「俺の香水を、何の匂いでしたっけって」
「あ、それは覚えてます。金木犀の匂いだって教えてくれましたよね」
咲来が応じたら、後藤は安心したように笑った。
「良かった。それすら忘れられてたら俺、ちょっと凹むところでした」
ちゃんと全部覚えてますよ、と咲来は膨れてみせたけど、どうかな、と後藤は信じなかった。
「もともと、綺麗な字だなと思ってたんです。オオマササラって、カタカナで、特にオの横棒と縦棒の角度が……って、ちょっと引いてますか?」
咲来の反応を窺うように、後藤は言葉を切った。
「いや、引いてないですけど、やっぱりマニアックな人だなって」
咲来がそう答えると、後藤は声をあげて笑った。
「どんな子なんだろうって、気になってました。だから、あの日ササラちゃんに話しかけられて、俺、嬉しかったんですよ。思ってた以上に可愛い子だったから」
後藤がさらりと可愛いなんて言うから、咲来は赤面して俯いた。そんな咲来をよそに、後藤は続けた。
「あの時ササラちゃんは、匂いは人間の五感の中で一番記憶とつながりが深いと思うって、タバコのにおいをかぐと未だにパパを思い出して悲しくて寂しくてしょうがなくなるんだって、俺に言ったんですよ。覚えてますか?俺ね、たまにタバコ吸ってましたけど、それ聞いてやめたんです」
そんな話をしたことを、咲来は全く覚えていなかった。
「でもママが傷つくからパパを嫌いなふりをしなきゃいけないんだって、自分がママを守らなきゃいけないんだって、本当は院に進みたかったけどママが働けなくなっちゃったから諦めたんだって。俺、自分が聞いていい話なのかって、ちょっとドキドキしていました。それと同時に、この子はずっと一人でがんばってきたんだなと思って、心の底から応援したくなったんですよ」
咲来は恥ずかしくなった。
それだけベラベラ喋っておいて、何の記憶もないことが。
「俺、ササラちゃんに訊いたんです。匂いが記憶と一番つながりが深いんだったら、これからは、この香水の匂いをかぐ度に俺のことを思い出してくれるかって。冷静に考えれば変態ですね。でも、それだけササラちゃんに惹かれたんです。酔っ払ってるササラちゃんに、どうしても俺のことを覚えていてほしかったんです」
後藤は、ワインを口に含んで、喉を潤した。
「そしたら、言いましたよね、ササラちゃん。香水だけじゃなくて、金木犀の匂いをかぐ度に、俺のことを思い出すって。どうでしたか?この秋、金木犀のそばを通る度に、俺のことを思い出してくれましたか?」
「い、意地悪……」
咲来は真っ赤な顔で呟いた。
「悪趣味、変態。私が覚えてないの分かってて、わざと言ってますよね」
「やっぱり嘘でしたか、あれは」
後藤は、残念そうにうなだれた。
「俺なんて、匂いなんか関係なく、ササラちゃんのことで頭がいっぱいだったのに」
本当に落ちこんでいる様子の後藤を見て、咲来は迷いながら口を開いた。
「そんな話をしたことは覚えてないけど、思い出しはしましたから。金木犀の花のそばを通る度に、後藤さんが近くにいるんじゃないかって、つい探したりしてました」
咲来が恥ずかしそうに打ち明けると、後藤は耳まで真っ赤になった。
「今日は香水つけてないんですか?」
お互いの顔色が落ち着いた頃、咲来はふと尋ねた。
待ち合わせ場所で後藤を見つけた時から、小さな違和感を覚えていた。香水の話で、やっとその正体が分かったのだった。
「本当はあれ、俺の香水じゃないんですよ」
後藤はワインを傾けると、ゆるりと笑った。
「あれは、元カノが置いていった香水です」
「……は?」
咲来は思わず低い声を出した。
「すみません。でも、未練があるとかじゃなくて。いや、ササラちゃんと初めて話した時はまだ少しは未練があって、元カノの香水をつけていたんですけど」
メインディッシュが並べられる間、話を中断して、後藤は再開した。
「ササラちゃんが、金木犀の匂いをかぐ度に俺のことを思い出すなんて言うから、未練がなくなった後もつけるハメになったんです。俺にとってあの香水はもう、元カノの匂いじゃなくて、ササラちゃんの匂いです」
元カノの香水をつけ続けていた理由を、後藤はそう説明した。
「でも、こうして付き合えたし、もうやめてもいいかなって。それよりは、ササラちゃんが好きな匂いがあるならそっちの方がいいなって思って」
「……馬鹿」
「ええ。俺、ササラちゃんが絡むと、自分でもびっくりするくらい馬鹿になります」
咲来の小さな呟きを拾って、後藤は満足そうに笑った。まるで褒められたみたいに。
「どうして別れたんですか?その元カノさんとは」
知りたいような知りたくないような気持ちで、咲来は尋ねた。
「まあ、早い話が、俺が研究にのめりこみすぎてたんでしょうね。一緒にいても論文ばっかり読んでましたから」
その答えを聞いて咲来は、タブレットの画面に集中している後藤の姿を思い出した。咲来が声をかけると、後藤は、咲来が申し訳なく思うくらい、すぐに画面を閉じた。
「私は、後藤さんがタブレットを一生懸命見てる姿も、結構好きですよ」
元カノに対抗心を燃やした咲来に、
「そんなの、好きにならなくていいですよ」
と、後藤は照れたように手を振った。
「ササラちゃんが近くにいると、俺、論文どころじゃなくなりますし」
「……馬鹿」
「だから、そう言ってるでしょう」
デザートまで全部食べ終えて、残ったワインを傾けながら、咲来は不意に疑問を抱いた。
「そういえば、丁寧語って続けるんですか?」
咲来の後輩になることを間接的に伝えるのが目的だったのだとしたら、その必要が無くなった以上、丁寧語をやめてもいいのではないかと思った。
「全然突っこんでくれないから、どうしようかと思ってたよ」
ワインをテーブルに置いて、後藤は独り言のように呟いた。
「いいんですか、やめても。会社に入ったら後輩ですよ、俺」
「い、いいですよ。大学では先輩なわけですし。そもそも、付き合ってるんだから……」
「それだったら、ササラちゃんも丁寧語やめてね」
急にタメ口になった彼に、咲来は何だかドギマギした。
「それとこれとは話が違ーー」
「違わないよ。もうホント、ずっともどかしかった。付き合ってんのに距離がある感じがして」
「それは、後藤さんがーー」
「そうだ、その後藤さん呼びも禁止だから。なんて呼ぶ?ていうか、俺の下の名前知ってる?」
ぐいぐいと距離を詰めてくる後藤に、咲来は逃げ場もなく俯いた。
「し、知ってますよ。と、智也さんでしょ」
「うん。それで?」
「だから、と、智也さん」
咲来の精一杯の呼び方に、
「まあ、今はそれでいいことにするよ」
と、後藤は妥協した。
「それにしても、ササラちゃん全然酔っ払わないね。楽しみにしてたんだけど」
赤ワインを片手に、後藤が残念そうに言った。
「だって、こんな高そうなお店で、酔っ払うほど飲めない……」
「何だ、遠慮してたのか。俺んちで飲み直す?」
なんちゃって、という声が聞こえてきそうなおちゃらけた調子で後藤が言うのを、
「うん」
と、咲来が応じたから、彼は動揺して赤ワインをこぼした。白いセーターに赤い染みが広がっていく。
「ちょ、セーターが、洗わないと」
咲来が慌てて立ち上がると、後藤も立ち上がった。
「うん。俺んち行こう」
外に出ると、冷たい風が吹き付けて、咲来は後藤の腕に抱きついた。
「ねえ、ササラちゃん。すっごいベタなこと言ってもいい?」
歩き出しながら後藤が言う。
「何ですか?」
丁寧語が抜けない咲来に、後藤は甘い声で囁きかけた。
「今夜は、帰したくない」
完