また始まる
お母様とお話ししてあげてください。
看護師にそう言われても、咲来は母親の病室の前で足がすくんで、どうしてもドアを開けることができなかった。
家の前の金木犀の花が開いて、病院までの至るところで甘い匂いがし始めても、咲来は病院の待合室に行くまでが精一杯で、そこから先に進むことができなかった。
研究室もずっと休んでいた。
教授から、『大政さんに非がないことが分かったからラボに来ていい』というメールが送られてきたけど、もう全てがどうでもいい気分だった。
金木犀の花が散る頃、病院の待合室で椅子に座りこんでいた咲来は、唐突に甘い匂いをかいだ。
つと顔を上げて、自分の前を通り過ぎた白衣姿の男を、咲来は目で追った。
気づいて。
気づかないで。
咲来の心は、その背中に向かって叫んだ。
振り向いて。振り向かないで。
助けて。助けて。
でも、声にならないまま、遠ざかっていく彼の後ろ姿を見送っていた。
受付から患者を呼ぶスタッフの声。
診察室からのアナウンス。
大きな声で話している老人たち。
子供の泣き声。
パタパタと走る看護師の足音。
たくさんの人が行き来する通路の中で、彼は不意に咲来の方を振り向いた。
ほんの刹那、後藤と咲来の間を遮るものがなくなって、彼は咲来に気づいた。
後藤の目が、驚きに見開かれていく。
「ま、待って」
身を翻して逃げ出した咲来を、後藤は追いかけた。
助けて。助けて。
私を見て。私を見ないで。
病院の建物を出て、ロータリーを駆け抜けて、大通りに出たところで、咲来は腕を掴まれた。
後藤は強引に立ち止まらせようとしなかったから、咲来はしばらく抵抗して走り続けたけど、交差点の横断歩道の赤信号でようやく足を止めた。
「走るの、速いね」
息を整えながら、後藤がやっとのことで言った。
「どこか、悪いの?そんな走って大丈夫なの?」
気遣うように、咲来の腕から手を離した。
「今日は、」
肩で息をつきながら、咲来は言った。
「丁寧語じゃ、ないんですね」
あ、と後藤が小さく声をあげる。
「いや、別に、いいっていうか、後藤さん、ドクターですよね。なんで、私に丁寧語なんか」
「いや、そこはまあ。今はスルーしておいていただけると」
早くも呼吸を立て直して、後藤はボソボソとごまかした。
「それより、身体を壊したわけじゃないんですね?大学に来てないからずっと心配してて。まさかこんなところで見かけるとは思わなくて、心臓が止まるかと思いました」
そんなことで心臓を止められても困る、と咲来は思った。
「後藤さんこそ、何でこんなところに?」
「俺?あ、やば。先生置いてきちゃっ……いや、何でもないです」
白衣のポケットから携帯電話を取り出しかけて、後藤は引き攣った顔で作り笑いをした。
その様子がおかしくて、咲来はもう少しで吹き出すところだった。
「何でもなくないでしょ。戻りましょう」
「え、でも、オウマさんは」
「私も、戻らなきゃいけないんで」
自分自身に言い聞かせるように、咲来はそう返した。
「病院の先生と打ち合わせですか?」
並んで歩きながら尋ねると、後藤は肯定した。
「神経症について聞きたいことがあって。久保先生と仲良しのお医者さんがいるから、よく話を聞きに来るんです」
「へえ。お医者さんに話を聞きにいくとか、すごいですね」
「大したことじゃないですよ。教授のコネを使っているだけなんで」
後藤は、照れを隠すように、白衣のポケットに手を入れた。
「そういう時って、白衣着ていくものなんですか?」
咲来が素朴な疑問を口にすると、「え?」と、後藤は思ってもみないことを聞かれたみたいにたじろいだ。
「へ、変ですかね?」
「変っていうか、一瞬お医者さんに見えたので」
「うわ、考えたことなかったな。脱ごう」
ゴソゴソと白衣を脱ぎ始めた後藤を見て、今度こそ咲来は吹き出した。
「わ、笑わないでくださいよ……」
携帯を尻ポケットにしまいながら、後藤は恥ずかしそうに俯いた。
「母が、自殺未遂をして、入院してるんです」
咲来は、荷物を下ろすように、そう打ち明けた。
「私のせいかもって、もっと傷つけたらどうしようって思ったら、会うのが怖くて。それで、待合室から動けずにいたんです」
病院にいた理由をそう説明した。
「どうして君は」
声を震わせる後藤の頬を涙が伝ったのを見て、咲来は動揺した。
「いつもそうやって、一人で……」
そこで言葉を失ったように、後藤はそれっきり黙ってしまった。
病院の建物に入ると、咲来の母親のかかりつけ医がエントランスに立っていた。
「後藤くん、どこ行っちゃったかと……あれ?大政さんのところの、咲来さん?」
本間という名の医者は、後藤と咲来という組み合わせに驚いたように、二人の顔を交互に見た。
「あ、大学の先輩で」
本間が後藤の訪問相手だったのだと、いち早く把握した咲来は、後藤を指して説明した。
「ああ、そうだったの。お母様、今日はだいぶ落ち着いてるよ」
「そうですか。会いに行きます」
咲来が本間と和やかに話していると、
「さ、サラさん……?」
と、後藤が呟いた。
「はい?」
「お、俺、オウマさんかと。ササラさんかと思ってて……」
「知ってます」
「なっ。何で、教えてくれなかったの?」
丁寧語を忘れている後藤を見て、咲来は笑った。
「案外、そう呼ばれるの、気に入ってたんで」
大政という苗字も、そう悪くないと思えたのだ。
咲来が病室のドアをノックすると、「はい」と返事が返ってきた。
思ったよりも元気そうな声で、咲来は少し安心した。
「咲来ちゃん!」
ドアを開けた咲来を見て、母親はベッドから転げ落ちんばかりに喜んだ。
「落ち着いて、ママ」
そう声をかけてそばの椅子に座ろうとした咲来を、母親はぎゅっと抱きしめた。
「ごめんね、ごめんね。どうかしてたわ。咲来ちゃんを置いていこうとするなんて」
咲来は抱きしめられた不安定な体勢で、ふるふると首を横に振った。
「私の方こそごめん。ずっとお見舞いに来れなくて」
「やあねぇ。悪いのはママなんだから、咲来ちゃんは何にも謝ることないのよ。咲来ちゃんは良い子。本当に、ママにはもったいないくらい、良い子なんだから」
娘の髪を何度も撫でながら、咲来の母親は何度もそう繰り返した。
咲来は、その腕からそっと抜け出して、椅子に腰掛けた。
「私、良い子なんかじゃないよ」
「何言ってるの。咲来ちゃんはーー」
「奥さんがいる人のことを好きになったの」
咲来が被せるように言ったら、母親はようやく口を閉じた。
「奪うつもりなんてなかった。でも結局、奥さんと子供のことを傷つけた。私、パパを奪ってママを傷つけた人と変わらない。どれだけ悲しくて惨めな思いをさせるか知ってたのに、ごめんなさい。ごめんなさい……」
さめざめと泣く娘に向かって、母親は手を伸ばした。
打たれることを覚悟していた咲来の頬を、母親が優しく撫でた。
「怒らないの?」
そう尋ねた娘のことを、母親は愛おしそうに見つめた。
「ごめんね。パパとうまくいかなくて、咲来ちゃんのこと傷つけちゃって。やっぱり私は悪いママね」
「そんな、ママは何も悪くない」
「夫婦の間で、片方だけが悪いなんてことはないのよ。咲来ちゃんも、いつか結婚したら分かるわ」
そう言われては反論のしようがなくて、咲来は消化不良のまま口をつぐんだ。
「咲来ちゃん、その人とはどうなったの?」
「会ってない。どうこうなるつもりもない。もう、好きじゃない」
「そう」
咲来の母親は、娘の答えにホッとしたように微笑んだ。
「ねえ、咲来ちゃん。もうそんなことしちゃダメよ」
「しないよ。向こうの奥さんに申し訳ない……」
「そうじゃない。そうじゃないのよ」
咲来の手を取って、子供に言い聞かせるように咲来の母親は言った。
「そうじゃないの。あなたが、不幸になるでしょう」
予想外の言葉に呆気に取られた咲来の目から、またひとつ新しい涙がこぼれ落ちた。
「ちゃんとあなたのことを全身で大事にしてくれる人と恋をして、咲来ちゃんはちゃんと、幸せにならないとダメよ。大丈夫。ママがちゃんと、見ててあげるから」
また来るねと言い残して病室を後にした咲来は、廊下の長椅子に後藤が座っているのに気づいた。
タブレットの画面を真剣な目で凝視している。白衣を床に落としているのにも気付いていない様子だ。
悪戯心を起こして、彼がいるのと反対側に歩き出そうとした咲来は、自分のお腹が鳴る音にびっくりした。
「あ、オウマさん」
後藤が気づいて呼びかけた。
「あれ?エレベーターこっちですよ。もしかして方向音痴ですか?」
「ち、違います。それより、白衣落ちてますよ」
「本当だ」
白衣を拾い上げて、後藤が立ち上がる。
「お腹空いてるんですか?」
咲来のお腹が再び鳴ったのを聞きつけて、後藤が尋ねる。
「す、空いてないです。こんなとこで何してるんですか?」
「いや、本間先生が何か勘違いしたのかここまで送ってくれて。それはいいけど、良かったら何か食べに行きます?俺もお腹空いてきました」
「い、行きません」
またお腹が鳴って、咲来の顔が真っ赤になる。
「そ、そうですよね。すみません、馴れ馴れしくして。じゃあ病院の前まで一緒に行きましょう」
「そうじゃなくて」
落ちこんだ様子の後藤の誤解を解くために、咲来は彼の方に歩み寄った。
「そうじゃなくて、お財布、持ってきてないんです」
病院まで自転車で来た咲来は、家の鍵しか持っていなかった。
「何だ。だったら奢らせてくださいよ。めっちゃお腹鳴ってるじゃないですか」
「い、言わないでください。デリカシーないんですか」
「え、あ、すみません。俺、あんま気を遣えなくて、女の子からヒンシュク買うことが多くて……、うわ、すみません」
「別に、そこまで謝らなくても」
ググー、とまた鳴って、後藤はパッと顔を背けた。肩が震えている。
「わ、笑ってます?」
「ごめん。すみません」
後藤はひとしきり忍び笑いを漏らした後、笑みの残る顔を咲来に向けた。
「何食べたいですか?オウマさん」
「……ササラ」
「え?」
「どうせなら、ササラって呼んでください」
気に入っていたと言ったばかりだけど、『オウマさん』と呼ばれると何だかたくさん食べる馬みたいな気分になる、と咲来は思った。
それから、後藤が『ササラさん』と呼ぼうとするのを、『さが多すぎて嫌』と咲来が言って、病院を出る頃には『ササラちゃん』で何となく定着していた。