堕ちる
翌朝は、昨夜までの荒天が嘘のように、秋晴れの空が広がった。
タートルネックにジーンズという露出の少ない格好で研究室に行った咲来は、眞野が休みだと知って、少しホッとした。
首筋のキスマークを見る度に落ち着かない気持ちになった。眞野にどんな顔で会えばいいか分からなくて、緊張していたのだった。
眞野は三日連続で研究室を休んだ。
そんなことは、彼が咲来のいるラボに赴任して以来、初めてのことだった。
「私、眞野康博の妻ですが」
眞野が来なくなって三日目の昼過ぎに、咲来がアイスボックスを手に提げて研究室に戻ってくると、そんな声が聞こえた。
見ると、教授室の入り口に女が一人立っていた。
「大政咲来という人に会いたいのですが」
「大政さん?」
中から教授が出てきて、廊下に立っている咲来に気づいた。
「ああ、彼女が大政ですが、眞野先生の奥様がどのようなご用件で?」
咲来を指差して、教授は女にそう尋ねた。
女は、それには答えずに、咲来の元にツカツカと近寄って、彼女の頬をいきなり平手で打った。
鈍い音がして、咲来は頬を押さえて後ずさった。
「人の旦那を誑かして、よく平気な顔で実験してられるわね。恥を知りなさい」
「え、あの、奥さん?」
教授が、間に入るべきか迷うように、所在なさげに手を宙に浮かせる。
研究室の中から、何事かというように研究生がゾロゾロと出てきた。
「康博が何を言ったか知らないけど、あんたなんか若いだけなんだからね。それだけのことで選ばれて満足?あんただって十年もすれば価値が下がるのよ。一時の気の迷いだけで旦那を奪られたら、こっちはたまったもんじゃないわよ。娘もまだ小さいんだから」
野次馬の存在などものともせずに、女はそう喚きたてた。
咲来の先輩たちが、好奇心に満ちた目で、ひそひそと囁き合っている。
「あの、こんなところでは、ちょっと、やめていただきたい」
教授が女に向かって遠慮がちに言った。
「大政さんも、もし奥さんがおっしゃるようなことをしたのだとしたら大問題だ。研究室を出て行ってもらうからね」
「え」
困惑していた咲来は、教授の言葉に一気に頭の中が真っ白になった。
研究室を追い出されるということは、卒業単位が取れないということだ。
苦労して取った内定が、取り消しになる。
「サオリ、やめろ」
そこに当の眞野が現れた。
「ラボにまで乗りこんで、何を考えてるんだ」
「それはこっちのセリフよ。こんな若い女にうつつ抜かして、別れてくれって、何のつもりなのよ」
「だから、本気だって言ってるだろ。本気で好きになってしまったんだ」
「それをうつつを抜かしていると言うの。あなたがシュークリームを持って帰ってきた時からおかしいと思ってたわよ。何なの、あのポストイット。人の旦那にちょっかいかけてるようにしか見えなかったわ」
「大政さんは関係ない。俺がーー」
「眞野先生、ちょっと、よそでやってくれないか」
教授が声を荒げて制止すると、眞野はハッとしたように口を閉じた。
そして、咲来の方に歩き寄った。
「迷惑をかけてすまない。君の悪いようにはしないから」
そう言って、咲来の肩を一つ撫でた。
ジンジンと熱を持つ頬を押さえて、咲来は、急速に気持ちが冷めていくのを感じていた。
「ポストイットといえば」
咲来の後ろで安村が呟いた。
「大政さんって、後藤さんと付き合ってんじゃなかったの?」
「……ゴトウさん?」
その名前に全く心当たりがなくて、咲来が聞き返すと、安村は意外そうに眉を上げた。
「違うの?久保先生んとこの後藤智也さん。今、ドクターの二年生かな?こないだも大政さんの調製記録を届けに来てくれたじゃん」
そこまで言われてもピンとこない咲来を見て、安村は話を終わらせようとした。
「あっ、え?あれってその人が?」
咲来はやっと、『遅くまでお疲れさま』のポストイットが付いた調製記録のことを思い出した。咲来はそれを、眞野が届けてくれたのかと思っていた。
「こないだもって、他にも何か?」
前のめりになって尋ねる咲来に、安村は面倒くさそうに背を向けた。
「エントリーシートだっけ?ずっと前にも届けてくれたじゃん。大政さんって、後藤さんからお馬さんって呼ばれてんだね」
どうでもいいけど、というように、安村は研究室の中に戻っていった。
後藤智也ーーゴトウトモヤ
廊下に一人取り残された咲来は、不意に彼のことを思い出した。
MCの使用記録表に記された名前。
一度だけ、咲来は秤量室で後藤に会ったことがあった。
その日咲来は、飲み会の帰りに研究室に寄った。
酔うと人に絡みたくなる咲来は、秤量室で後藤に声をかけた。
『これ、何の匂いでしたっけ』
そんな風に。
彼から懐かしいような匂いがしたのだ。秤量室に行くと、彼の残り香なのか、時々その匂いがした。
『金木犀だよ』
後藤は、オレンジ色の小さな花の名前を口にした。
秋になると、咲来の家の前で、甘い匂いを放つ花の名前を。
『本当は、飼育室に入る人間は、香水とか付けない方がいいんだろうけどね』
彼はそう言って、苦笑いしたのだった。
その追憶の後で、咲来は気づいた。
台風の日に投与を手伝おうかと言ってくれた男が、後藤であることに。
彼の纏う、甘い金木犀の香りとともに。
「後藤さんなら、お昼を食べにいったと思うけど」
白衣も脱がずに久保教授の研究室を訪ねた咲来に、学部の同期がそう教えてくれた。
研究室を追い出される前に、後藤にひと言お礼を伝えたかった。
エントリーシートに付いていた『がんばれ!!』と書かれたポストイットを、捨ててしまったことをずっと後悔していた。孤独な就職活動中、一人でも応援してくれる人がいたことが、どれだけ心強かったか。
あの日咲来の心を温めてくれたのは、眞野ではなく、後藤だったのだ。
後藤が不在で肩透かしをくらった咲来は、同期と少し言葉を交わした後、研究室を後にしようとした。
その時。
風とともに、金木犀の匂いを感じた。
「あ、ちょうど戻ってきた」
同期は、咲来の背後を指差すと、研究室の中に戻っていった。
「オウマさん?」
安村の言う通り、後藤は咲来のことを、オウマともオオマともつかない発音で呼んだ。
そんなあだ名を付けられるほどの間柄ではないはずだーー、そう不思議に思った咲来は、彼が自分の名前を、カタカナでしか認識していないことに気づいた。
『オオマササラ』
確かに、カタカナだと苗字と名前の切れ目が分からない。
「俺に、何か用事ですか?」
戸惑ったように訊いてくる彼に、咲来は訂正しなかった。
咲来は、オオマササラという名前があまり好きではなかった。
大政さんと呼ばれるのが、いつもしっくりこなかった。
でも、『オウマさん』と呼ばれるのは、なんだか新鮮で、悪くなかった。
「あの、お礼が言いたくて」
咲来は、本来の目的を思い出して頭を下げた。
「調製記録、届けてくれてありがとうございました。後藤さんが持ってきてくれたの知らなくて、お礼が遅くなってしまってすみませんでした」
咲来が頭を上げると、後藤は人差し指で頬をかいていた。
「やはは、そんなご丁寧に。むしろ申し訳ないです。引きませんでしたか?」
「何がですか?」
「いや、その、ポストイットが……」
後藤はそこまで言うと、恥ずかしそうに目を伏せた。
そんな彼を、咲来は可愛いと思ってしまった。
「嬉しかったです。エントリーシートも、すごく励まされました。就職はダメになっちゃうかもしれないけど、それでも、がんばれたのは後藤さんのおかげです」
咲来の言葉に、後藤は顔をかいていたのをやめて、目を上げた。
「ダメになっちゃうかもって、どういうことですか?」
咲来が答えに詰まると、後藤はためらいながら口を開いた。
「も、もし良かったら、ちょっと外で、話しませんか……?」
キャンパスの片隅にある研究棟の、駐輪場の脇にあるベンチで、咲来がぽつりぽつりと眞野の話をするのを、後藤は黙って聞いていた。
「それは大変でしたね」
後藤は、咲来のことを被害者として受け止めた。それが、咲来には心苦しかった。
「私が悪いんです。奥さんの言う通り、私が思わせぶりなことをしたから……」
咲来は、父親が浮気をする度に、母親が傷つく姿を見てきた。父親が他の女と生きていくことを選んだ時、母親の心が壊れていくのを見てきた。
同じことを自分がしてしまったのが、苦しくてたまらなかった。
「思わせぶりというか、オウマさんは本気で好きだったんでしょ?」
庇うように尋ねる眞野に、咲来はかぶりを振った。
「好きだったけど、それだけじゃないです。私、先生の時間を、娘さんから奪いたかった。自分が子供の頃に、父親を奪われたように」
そっか。そう相槌を打った後藤に、咲来は言い訳をするみたいに続けた。
「でも私、本気で奪うつもりなんかなかった。奥さんを傷つけるつもりなんて、なかったんです」
ベンチに並んで座る二人の視線が、束の間、絡み合った。
先に目を逸らしたのは後藤だった。彼は、咲来の方に向けていた身体を、前に戻して座り直した。
軽蔑された。そう思って心が破れそうになった咲来に向かって、後藤はゆっくりと言葉を発した。
「オウマさんは、ずっと一人でがんばっていましたね」
優しい秋風が、後藤のサラサラな黒髪をなびかせて、甘い花の香りを遠くまで運んだ。
「優秀だから、先輩や同期にやっかまれて、孤立して。東西ファーマは普通、学部卒は取らないですからね」
東西ファーマとは、咲来が内定をもらった企業だ。
なぜ知っているのかと驚く咲来を見て、後藤は寂しそうに微笑んだ。
「お礼を言いたいのは俺の方です。出口の見えない研究生活の中で、オウマさんのがんばる姿を見て、いつもエネルギーをもらっていました」
もらうばかりで、俺は何もしてあげられませんでしたね。そう、後藤は悔やむように呟いた。
「俺には、一人でがんばってきたオウマさんが、先生と過ごす時間に癒しを見出したことの、何が悪いのか分かりません。悪いのは、既婚者なのに半端なことをした先生の方でしょう。それとも、オウマさんの方からキスをしたり誘ったりしましたか?」
咲来が首を横に振って否定すると、後藤は再び小さく微笑んで立ち上がった。
「オウマさんは、どうしたいですか?」
後藤は、咲来の前に立ってそう問いかけた。
「先生と一緒になりたいんですか?」
強い風が吹いて、後藤の白衣をはためかせた。
咲来は小さく首を横に振った。
「ちゃんと卒業して、東西ファーマに就職したいです」
ざわざわと葉の擦り合う音の中で、咲来は小さな声で、でもしっかりとした口調で、その望みだけを口にした。
後藤は、吹き付ける風に白衣を取られないように、ポケットに手を入れて、咲来に優しい目を向けた。
「それなら、俺にも力になれるかもしれません」
「え?」
どういうことかと問おうとした咲来は、自分のポケットの中で震えだした携帯電話に妨げられた。
「あ、すみません」
市外局番から始まる番号の下に、咲来の家の近くの県立病院の名前が表示されていた。
「じゃあ」
踵を返した後藤の背中を少しの間見送った後、咲来はその電話に出た。
『大政由美様のご家族の方でしょうか』
電話の主は、大学病院の看護師だった。
「はい。娘です」
そう答えながら、咲来は嫌な予感がした。
『娘さんですか。他にご家族の方はいらっしゃいますか?お父様とか』
「いえ、家族は私だけです」
『そうですか。それでは、落ち着いて聞いていただきたいのですが、お母様が怪我をなさって現在治療しているところです。こちらにお越しいただくことはできますか?』
急いで病院に向かった咲来は、そこで母親が自殺未遂をしたことを知らされた。
命に別状はないものの、しばらく入院することになることを、精神科のかかりつけ医は、咲来に説明した。
それを聞きながら、咲来はずっと自分のことを責め続けていた。
このところ、眞野のことで頭がいっぱいで、母親の話に耳を傾けていなかった。
それだけではない。眞野が『お母さんとは距離を置けばいい』と言ったから、無意識のうちに邪険に扱っていたかもしれなかった。
私がママを追い詰めたんだーー。
眠る母親の頭に巻かれた痛々しい包帯を見ながら、咲来はそう思った。