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金木犀の記憶  作者: みずたまりこ
3/5

堕ちる

 翌朝は、昨夜までの荒天が嘘のように、秋晴れの空が広がった。

 タートルネックにジーンズという露出の少ない格好で研究室に行った咲来は、眞野が休みだと知って、少しホッとした。

 首筋のキスマークを見る度に落ち着かない気持ちになった。眞野にどんな顔で会えばいいか分からなくて、緊張していたのだった。



 眞野は三日連続で研究室を休んだ。

 そんなことは、彼が咲来のいるラボに赴任して以来、初めてのことだった。



「私、眞野康博の妻ですが」

 眞野が来なくなって三日目の昼過ぎに、咲来がアイスボックスを手に提げて研究室に戻ってくると、そんな声が聞こえた。

 見ると、教授室の入り口に女が一人立っていた。

「大政咲来という人に会いたいのですが」

「大政さん?」

 中から教授が出てきて、廊下に立っている咲来に気づいた。

「ああ、彼女が大政ですが、眞野先生の奥様がどのようなご用件で?」

 咲来を指差して、教授は女にそう尋ねた。


 女は、それには答えずに、咲来の元にツカツカと近寄って、彼女の頬をいきなり平手で打った。

 鈍い音がして、咲来は頬を押さえて後ずさった。

「人の旦那を誑かして、よく平気な顔で実験してられるわね。恥を知りなさい」

「え、あの、奥さん?」

 教授が、間に入るべきか迷うように、所在なさげに手を宙に浮かせる。

 研究室の中から、何事かというように研究生がゾロゾロと出てきた。


「康博が何を言ったか知らないけど、あんたなんか若いだけなんだからね。それだけのことで選ばれて満足?あんただって十年もすれば価値が下がるのよ。一時の気の迷いだけで旦那を奪られたら、こっちはたまったもんじゃないわよ。娘もまだ小さいんだから」

 野次馬の存在などものともせずに、女はそう喚きたてた。

 咲来の先輩たちが、好奇心に満ちた目で、ひそひそと囁き合っている。


「あの、こんなところでは、ちょっと、やめていただきたい」

 教授が女に向かって遠慮がちに言った。

「大政さんも、もし奥さんがおっしゃるようなことをしたのだとしたら大問題だ。研究室を出て行ってもらうからね」

「え」

 困惑していた咲来は、教授の言葉に一気に頭の中が真っ白になった。

 研究室を追い出されるということは、卒業単位が取れないということだ。

 苦労して取った内定が、取り消しになる。


「サオリ、やめろ」

 そこに当の眞野が現れた。

「ラボにまで乗りこんで、何を考えてるんだ」

「それはこっちのセリフよ。こんな若い女にうつつ抜かして、別れてくれって、何のつもりなのよ」

「だから、本気だって言ってるだろ。本気で好きになってしまったんだ」

「それをうつつを抜かしていると言うの。あなたがシュークリームを持って帰ってきた時からおかしいと思ってたわよ。何なの、あのポストイット。人の旦那にちょっかいかけてるようにしか見えなかったわ」

「大政さんは関係ない。俺がーー」

「眞野先生、ちょっと、よそでやってくれないか」

 教授が声を荒げて制止すると、眞野はハッとしたように口を閉じた。

 そして、咲来の方に歩き寄った。

「迷惑をかけてすまない。君の悪いようにはしないから」

 そう言って、咲来の肩を一つ撫でた。


 ジンジンと熱を持つ頬を押さえて、咲来は、急速に気持ちが冷めていくのを感じていた。



「ポストイットといえば」

 咲来の後ろで安村が呟いた。

「大政さんって、後藤さんと付き合ってんじゃなかったの?」

「……ゴトウさん?」

 その名前に全く心当たりがなくて、咲来が聞き返すと、安村は意外そうに眉を上げた。

「違うの?久保先生んとこの後藤智也さん。今、ドクターの二年生かな?こないだも大政さんの調製記録を届けに来てくれたじゃん」

 そこまで言われてもピンとこない咲来を見て、安村は話を終わらせようとした。

「あっ、え?あれってその人が?」

 咲来はやっと、『遅くまでお疲れさま』のポストイットが付いた調製記録のことを思い出した。咲来はそれを、眞野が届けてくれたのかと思っていた。

「こないだもって、他にも何か?」

 前のめりになって尋ねる咲来に、安村は面倒くさそうに背を向けた。

「エントリーシートだっけ?ずっと前にも届けてくれたじゃん。大政さんって、後藤さんからお馬さんって呼ばれてんだね」

 どうでもいいけど、というように、安村は研究室の中に戻っていった。



 後藤智也ーーゴトウトモヤ

 廊下に一人取り残された咲来は、不意に彼のことを思い出した。


 MCの使用記録表に記された名前。

 一度だけ、咲来は秤量室で後藤に会ったことがあった。


 その日咲来は、飲み会の帰りに研究室に寄った。

 酔うと人に絡みたくなる咲来は、秤量室で後藤に声をかけた。

『これ、何の匂いでしたっけ』

 そんな風に。

 彼から懐かしいような匂いがしたのだ。秤量室に行くと、彼の残り香なのか、時々その匂いがした。


『金木犀だよ』

 後藤は、オレンジ色の小さな花の名前を口にした。

 秋になると、咲来の家の前で、甘い匂いを放つ花の名前を。

『本当は、飼育室に入る人間は、香水とか付けない方がいいんだろうけどね』

 彼はそう言って、苦笑いしたのだった。

 

 その追憶の後で、咲来は気づいた。

 台風の日に投与を手伝おうかと言ってくれた男が、後藤であることに。

 彼の纏う、甘い金木犀の香りとともに。



「後藤さんなら、お昼を食べにいったと思うけど」

 白衣も脱がずに久保教授の研究室を訪ねた咲来に、学部の同期がそう教えてくれた。


 研究室を追い出される前に、後藤にひと言お礼を伝えたかった。

 エントリーシートに付いていた『がんばれ!!』と書かれたポストイットを、捨ててしまったことをずっと後悔していた。孤独な就職活動中、一人でも応援してくれる人がいたことが、どれだけ心強かったか。

 あの日咲来の心を温めてくれたのは、眞野ではなく、後藤だったのだ。


 後藤が不在で肩透かしをくらった咲来は、同期と少し言葉を交わした後、研究室を後にしようとした。


 その時。

 風とともに、金木犀の匂いを感じた。

「あ、ちょうど戻ってきた」

 同期は、咲来の背後を指差すと、研究室の中に戻っていった。


「オウマさん?」

 安村の言う通り、後藤は咲来のことを、オウマともオオマともつかない発音で呼んだ。

 そんなあだ名を付けられるほどの間柄ではないはずだーー、そう不思議に思った咲来は、彼が自分の名前を、カタカナでしか認識していないことに気づいた。

『オオマササラ』

 確かに、カタカナだと苗字と名前の切れ目が分からない。


「俺に、何か用事ですか?」

 戸惑ったように訊いてくる彼に、咲来は訂正しなかった。


 咲来は、オオマササラという名前があまり好きではなかった。

 大政さんと呼ばれるのが、いつもしっくりこなかった。

 でも、『オウマさん』と呼ばれるのは、なんだか新鮮で、悪くなかった。


「あの、お礼が言いたくて」

 咲来は、本来の目的を思い出して頭を下げた。

「調製記録、届けてくれてありがとうございました。後藤さんが持ってきてくれたの知らなくて、お礼が遅くなってしまってすみませんでした」

 咲来が頭を上げると、後藤は人差し指で頬をかいていた。

「やはは、そんなご丁寧に。むしろ申し訳ないです。引きませんでしたか?」

「何がですか?」

「いや、その、ポストイットが……」

 後藤はそこまで言うと、恥ずかしそうに目を伏せた。

 そんな彼を、咲来は可愛いと思ってしまった。

「嬉しかったです。エントリーシートも、すごく励まされました。就職はダメになっちゃうかもしれないけど、それでも、がんばれたのは後藤さんのおかげです」

 咲来の言葉に、後藤は顔をかいていたのをやめて、目を上げた。

「ダメになっちゃうかもって、どういうことですか?」

 咲来が答えに詰まると、後藤はためらいながら口を開いた。

「も、もし良かったら、ちょっと外で、話しませんか……?」



 キャンパスの片隅にある研究棟の、駐輪場の脇にあるベンチで、咲来がぽつりぽつりと眞野の話をするのを、後藤は黙って聞いていた。


「それは大変でしたね」

 後藤は、咲来のことを被害者として受け止めた。それが、咲来には心苦しかった。

「私が悪いんです。奥さんの言う通り、私が思わせぶりなことをしたから……」


 咲来は、父親が浮気をする度に、母親が傷つく姿を見てきた。父親が他の女と生きていくことを選んだ時、母親の心が壊れていくのを見てきた。

 同じことを自分がしてしまったのが、苦しくてたまらなかった。


「思わせぶりというか、オウマさんは本気で好きだったんでしょ?」

 庇うように尋ねる眞野に、咲来はかぶりを振った。

「好きだったけど、それだけじゃないです。私、先生の時間を、娘さんから奪いたかった。自分が子供の頃に、父親を奪われたように」

 そっか。そう相槌を打った後藤に、咲来は言い訳をするみたいに続けた。

「でも私、本気で奪うつもりなんかなかった。奥さんを傷つけるつもりなんて、なかったんです」


 ベンチに並んで座る二人の視線が、束の間、絡み合った。

 先に目を逸らしたのは後藤だった。彼は、咲来の方に向けていた身体を、前に戻して座り直した。

 軽蔑された。そう思って心が破れそうになった咲来に向かって、後藤はゆっくりと言葉を発した。


「オウマさんは、ずっと一人でがんばっていましたね」

 優しい秋風が、後藤のサラサラな黒髪をなびかせて、甘い花の香りを遠くまで運んだ。

「優秀だから、先輩や同期にやっかまれて、孤立して。東西ファーマは普通、学部卒は取らないですからね」

 東西ファーマとは、咲来が内定をもらった企業だ。

 なぜ知っているのかと驚く咲来を見て、後藤は寂しそうに微笑んだ。

「お礼を言いたいのは俺の方です。出口の見えない研究生活の中で、オウマさんのがんばる姿を見て、いつもエネルギーをもらっていました」

 もらうばかりで、俺は何もしてあげられませんでしたね。そう、後藤は悔やむように呟いた。


「俺には、一人でがんばってきたオウマさんが、先生と過ごす時間に癒しを見出したことの、何が悪いのか分かりません。悪いのは、既婚者なのに半端なことをした先生の方でしょう。それとも、オウマさんの方からキスをしたり誘ったりしましたか?」

 咲来が首を横に振って否定すると、後藤は再び小さく微笑んで立ち上がった。


「オウマさんは、どうしたいですか?」

 後藤は、咲来の前に立ってそう問いかけた。

「先生と一緒になりたいんですか?」

 強い風が吹いて、後藤の白衣をはためかせた。

 咲来は小さく首を横に振った。

「ちゃんと卒業して、東西ファーマに就職したいです」

 ざわざわと葉の擦り合う音の中で、咲来は小さな声で、でもしっかりとした口調で、その望みだけを口にした。


 後藤は、吹き付ける風に白衣を取られないように、ポケットに手を入れて、咲来に優しい目を向けた。

「それなら、俺にも力になれるかもしれません」

「え?」

 どういうことかと問おうとした咲来は、自分のポケットの中で震えだした携帯電話に妨げられた。

「あ、すみません」

 市外局番から始まる番号の下に、咲来の家の近くの県立病院の名前が表示されていた。

「じゃあ」

 踵を返した後藤の背中を少しの間見送った後、咲来はその電話に出た。


『大政由美様のご家族の方でしょうか』

 電話の主は、大学病院の看護師だった。

「はい。娘です」

 そう答えながら、咲来は嫌な予感がした。

『娘さんですか。他にご家族の方はいらっしゃいますか?お父様とか』

「いえ、家族は私だけです」

『そうですか。それでは、落ち着いて聞いていただきたいのですが、お母様が怪我をなさって現在治療しているところです。こちらにお越しいただくことはできますか?』


 急いで病院に向かった咲来は、そこで母親が自殺未遂をしたことを知らされた。

 命に別状はないものの、しばらく入院することになることを、精神科のかかりつけ医は、咲来に説明した。


 それを聞きながら、咲来はずっと自分のことを責め続けていた。

 このところ、眞野のことで頭がいっぱいで、母親の話に耳を傾けていなかった。

 それだけではない。眞野が『お母さんとは距離を置けばいい』と言ったから、無意識のうちに邪険に扱っていたかもしれなかった。


 私がママを追い詰めたんだーー。


 眠る母親の頭に巻かれた痛々しい包帯を見ながら、咲来はそう思った。

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