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金木犀の記憶  作者: みずたまりこ
2/5

奪う

「すまない」

 眞野は、咲来が差し出したケーキ箱を見て、申し訳なさそうに言った。

「甘いものは食べられないんだ」

「そしたら」

 咲来は引き下がらなかった。

「ご家族の方に。金曜日は、私のせいで先生の帰りが遅くなっちゃって、ご迷惑をおかけしたので。この部屋、冷蔵庫ありますか?」

「ああ、あるけど……」

 眞野がチラッと振り向いた先に小型冷蔵庫を見つけて、咲来はその中にケーキ箱をしまった。


「シュークリームが二つ入ってます。賞味期限、明日です。忘れないで持って帰ってくださいね」

 咲来に念押しされて、眞野は困ったようにこめかみを掻いた。

「忘れそうだな」

「じゃあ、ちょっと待っててください」

 咲来は、研究室に戻ってピンク色のポストイットとボールペンを持ってくると、

『シュークリーム、忘れずに持って帰ってくださいね! 大政咲来』

と書いて眞野に渡した。

「これを、帰る時に絶対に目に入るところに、貼っておいてください」

「分かった」

 眞野は、少し迷った後、それをノートパソコンに繋いだモニターの右下に貼り付けた。

 それを見て、咲来はとても満足して眞野の元を後にした。


 咲来の計画通りだった。

 眞野がシュークリームをその場で食べるようだったら、一緒に呼ばれるつもりだった。そのために、敢えておやつ時に持ってきたのだ。

 後で食べると言われたら、食べる時に呼んでください、と言うつもりだった。

 持って帰るとか甘いものがダメと言われたら、今みたいに家族で食べてほしいと伝えるつもりだった。

 ポストイットを渡すことも計算の内だった。ポストイットを見る度に自分のことを思い出してもらえることを期待した。

 パソコン作業が中心の眞野が、モニターという一番見るところにポストイットを貼ったから、咲来はとても満足したのだった。


 咲来には、眞野とどうこうなる気はなかった。

 ただ、肩身の狭い研究室生活の中に、ほんの少しの癒しと刺激を求めただけだった。



 咲来が雑用を片付けて研究室の自分の席に戻ると、デスクの上にA4サイズの用紙が置かれていた。

 それはMC溶液の調製記録だった。金曜日に朦朧とする意識でプリントアウトだけして、どこかに落としていたのらしい。

 用紙の左上に、緑色のポストイットが貼られていて、『遅くまでお疲れさま』と書かれていた。


 周りを見回したけど、他の研究生はそれぞれに実験やデスクワークに没頭していて、誰がこの紙を持ってきたのか教えてくれそうな人はいなかった。

 咲来は再びそのポストイットに目を落とした。

 咲来が遅くまで実験していたのを知っている人。名前を書いていないのに、この調製記録を見て咲来のものだと分かった人。

 心当たりは、一人しかいなかった。


 咲来は、眞野のところに行こうとして、思いとどまった。

 今日は一日、あのシュークリームで自分のことを思い出してもらえるはずだ。だから、お礼を伝えるのは明日以降にしよう。

 そう考えた。


 そのポストイットを見て、咲来は思い出したことがあった。

 東西ファーマの最終面接の前日だった。実験しながらその企業に提出したエントリーシートを見返していた咲来は、それをどこかに落としてきてしまった。

 落としたことに気づかないまま研究室に戻ると、デスクの上にエントリーシートが置かれていた。そこに、『がんばれ!!』と書かれたポストイットが貼られていた。

 その時は、エントリーシートを見られたことが恥ずかしくて、ポストイットをすぐに捨ててしまったけど、おぼろげな記憶の中の字は、この調製記録に貼られている字と、筆跡が似ていたように咲来は思った。


 咲来の胸の中で、ドクドクと心臓が音を立てて動いていた。



 翌日の昼過ぎに、咲来は准教授の居室をノックした。

「これ拾ってくださったの、先生ですか?」

 パソコンで作業していた眞野に調製記録を見せて尋ねた。貼られていたポストイットは、剥がして手帳に保管してある。

「いや……」

 眞野は、落ち着かない様子で否定した。

 咲来はその様子を見て、照れているのだと解釈した。

「ふふ、ありがとうございます」

 笑いを含んだ声でお礼を述べた。

 いつもよりも短いスカートを履いているせいで太ももがスースーするのを感じながら、踵を返そうとした。

「あ、大政さん」

 呼び止められて、咲来は期待を込めて振り向いた。昼食に誘ってもらいたくて、この時間に来たのだった。

「シュークリーム、ありがとうね」

「ああ」

 小さな落胆を隠して、咲来はにっこりした。

「奥さん、喜んでましたか?」

「娘が喜んでたよ」

 眞野に子供がいる可能性を想定していなかった咲来は、一瞬フリーズした。

「娘さん、おいくつなんですか?」

 慌てて会話を繋げた。

「小学一年生」

「そうなんですね。じゃあ、先生、パパなんだ」

「いやまあ、はは」

 照れたように笑う眞野を見て、咲来の心の古傷が、ぱっくりと開いた。

「あ、採血に行かなきゃ」

 嘘をついて、咲来はその場を立ち去った。

 廊下を歩きながら、開いた傷からどす黒いものが、とめどなくあふれ出すのを感じていた。


 咲来の七歳の誕生日だった。

 いつも咲来が寝た後にしか帰ってこない父親は、その日は早く帰ると約束した。

 でも、21時になっても、22時になっても、父親は帰ってこなかった。

 母親に寝るように言われて、自分の部屋のベッドで横になったけど、悲しくてどうしても寝付けなかった。

 ベッドの上で永遠にも感じるほどの時間を過ごした咲来は、日付が変わってしばらく経った頃、父親が帰ってくる音を聞いた。

 誕生日おめでとう。それだけでも言ってほしくて一階に降りると、母親が父親に詰め寄っていた。

『咲来よりもその女の方が大事なの?』

 母親は、確かにそう言った。

 パパには、私よりも大事な人がいるんだ。

 子供心にそれだけは分かって、自分の部屋に戻った咲来は、ベッドの中で声を押し殺して泣いた。



 眞野に娘がいることを知ってから、咲来は夕方の時間を狙って准教授の居室を訪れるようになった。


「えー、目分量でメタノール入れるとか無茶苦茶じゃないですか。ちゃんと転写できてたんですか?」

 眞野の留学先での話を、咲来はどこまでも掘り下げて聞いた。

 眞野の方も、聞かれるままに饒舌に語った。


 それでも、20時になると眞野は必ず、

「もう遅いから帰りなさい」

と言って、自分もいそいそと帰り支度を始めるのだった。


 ーーズルい。


 咲来は、顔も知らない眞野の娘に、嫉妬していた。



 大型の台風が近づいていて、早く帰らなきゃと思いながらも、咲来はデータ解析をやめられなかった。

 胸がドキドキしていた。膨大なデータ量だから、グラフにしてみるまでは確かなことが分からないけど、咲来の直感が正しければ、その被験物質は強力な薬効を示していた。

 はやる気持ちを抑えながら、エクセル上でデータを整列させて、計算式を打ちこんで、値を算出した。各群の平均値とばらつきを求めて、棒グラフを作成した。

 果たして、咲来の直感の通りに、実験動物を使って何ヶ月も評価してきたその被験物質は、慢性腎臓病に対して素晴らしい薬効を発揮していた。


「中田さん」

 咲来は先輩のところにその結果を見せにいった。

 咲来が所属しているラボでは、学部生は先輩の下に付いて研究の指導を受けることになっている。中田は、咲来が付いている先輩だった。


「確かに効いてるけど」

 中田は興味なさそうに言った。

「マウスのモデルで効いただけで、ヒトに効くとは限らないよね」

 咲来が見せたデータを、中田はろくに見もしなかった。

「大政さんは、慢性腎臓病の動物モデルで薬効が報告されている化合物のうち、どれくらいが薬になるか知ってる?」

 冷たい声で、中田は咲来に向かってそう尋ねた。

「いえ……、知らないです。どれくらいですか?」

 咲来が萎縮しながら返すと、中田は小さくため息をついた。

「いや、俺も知らないけど」

 近くで聞いていた中田の同期の安村が、「知らないんかい」とツッコミを入れた。

「まあでも、気持ちはわかるよ?大政さんもさ、空気読みな?中田が行き詰まってんの知ってるっしょ?」

 台風やばいからもう帰ろうぜ、と彼は中田の肩を叩いた。

 パソコンを持って立ち尽くす咲来を置いて、二人は本当に帰っていった。


 

 パソコンを置いて、投与のために飼育室に向かった咲来は、前から来た男と目が合った。

 その男の顔に見覚えがあった。彼が纏う懐かしいような匂いにも。でも、どこで会ったのか、咲来は思い出すことができなかった。


「今から投与ですか?」

 明らかに年上に見えるのに、男は咲来に丁寧語で話しかけた。

「え、あ、はあ……」

 思い出せないことを隠したくて、咲来は曖昧な返事を返した。

「手伝いましょうか?台風ひどくなりそうだし」

「え、いえ、大丈夫です」

 慌てて断った咲来に、男は何回か食い下がったけど、咲来の意志が強いのを見て、諦めたように甘い匂いを残して通り過ぎていった。


 何とかやり過ごせたことに安心しながら飼育室に入って、咲来は実験マウスに薬液を投与し始めた。

 薬効がみられたのとは別の被験物質だ。これを、濃度を変えて50匹以上のマウスに投与する。

 咲来の脳裏に中田の言葉がちらついた。


『マウスのモデルで効いただけで、ヒトに効くとは限らないよね』


 確かに、動物モデルとヒトとでは、病気になる仕組みも、薬の吸収や代謝のされ方も、何もかもが違う。だから、マウスで薬効が出たところで、薬になる可能性は極めて低い。

 そんなことは咲来にも分かっていた。それでも、一縷の望みにかけて、こうして研究を進めてきたのだ。


 慢性腎臓病を再現するために、実験マウスの腎臓の大部分を切除した。マウスの背中には、痛々しい傷跡が残っている。投与するためにつかみ上げると、マウスは咲来の手の中でバタバタと暴れた。


 自分は何のためにたくさんの命を犠牲にしてきたのだろう。


 黙々と投与を続けながら、咲来は泣きそうになった。



「投与に行ってたのか」

 研究室に戻った咲来を、帰り支度を整えた眞野が待ち受けていた。

「君が最後だな。風が出ているから、車で送ろう」

 眞野の顔を見た途端、咲来の目から涙がポロポロとあふれた。

「なっ、どうした」

「すみません……」

 背中を向けて泣き顔を隠す咲来の肩に、眞野がそっと触れた。

「何があった?」

 優しい声だった。

 眞野のそんな声を、咲来は聞いたことがなかった。


「すごい薬効が出たんです」

 嗚咽の合間にようやくそれだけ言うと、咲来は中腰でパソコンを操作して、解析結果を眞野に見せた。

「すごいじゃないか」

「でも」

 涙で声が潰れた。そんな咲来の背中を、眞野が優しくさすった。

「でも、薬にできない可能性の方がずっと高くて、そう考えたら、何のためにマウスを痛めつけてきたのか、分からなくなって」

「薬にならなくたって、科学には貢献できるだろう」

 しゃくり上げながら涙の理由を説明した咲来に、眞野はすぐに言った。

「大政さんが出した研究データによって、腎臓病の発症メカニズムの解明が飛躍的に進むかもしれないし、それ自体は薬にならなくても、間接的に画期的な新薬の創出に貢献できるかもしれない」

 だから泣くな、と眞野は咲来の耳元で囁いた。


「それにしてもすごい効いてるな。主要なパラメーターを解析したら、すぐに論文作成に取りかかれ。他のテーマは止めていいから。まあ今日のところは帰ってーー」

「先生」

 咲来の後ろからパソコンの画面を覗きこんで興奮したように捲したてる眞野を、咲来は振り向いて遮った。

 鼻と鼻が触れそうになって、眞野が少し身を引いた。

「もうちょっと、ここにいてください」

 涙がポタポタと咲来の胸元に落ちて、白いシャツに透明な染みを作っていく。

「見たでしょ、私のママ。気圧の変化のせいなのか、今朝はいつもよりももっとひどくて。私、あんなところに、帰りたくない」

 家を出る時、咲来は母親に『一人にしないで』とすがりつかれた。咲来の腕には、母親に掴まれた跡が、アザになって残っている。


「俺でいいのか」

 咲来は頷いた。何度も頷いた。

「先生にいてほしい。先生が好き。先生が欲しい」


 眞野を帰したくなかった。帰りを待っているだろう、眞野の娘の元に。

 咲来の父親は、咲来の元に帰ってこなかった。

 だから今度は自分が、奪う番だと思った。


「そうか」

 眞野は肩に提げていたビジネスバッグをゆっくりと床に下ろした。

 そして、咲来の顔を両手で引き寄せて、押しつけるようにキスをした。

 数秒ほど唇を重ねたのち、思いがけない事態に固まる咲来を、強く抱きしめた。


「すまない」

 咲来の耳元で、眞野は囁くように謝った。

「今日はこれで許してくれ。娘が一人で待ってるんだ」

 眞野の腕の中で、咲来は弾かれたように何度も頷いた。

 咲来の胸の中で、心臓が早鐘を打ち始めていた。



 眞野の車の助手席で、咲来はひと言も喋らなかった。フロントガラスに打ち付ける大粒の雨と、せわしなく動くワイパーを、ぼんやりと眺めていた。


 家の前でシートベルトを外した咲来を、眞野は肩を掴んで引き留めた。

「そのスカートは、ラボにはあまり履いてこない方がいい」

 眞野を意識するようになってから咲来がよく履くようになったスカートを、目で指して言った。

「そんなに足を出したら、男は欲情する」

 そして、咲来の方に身を乗り出して、その首筋に口づけた。

 ピリッと痛みが走って、小さく肩を跳ねさせた咲来を、眞野は満足そうに見た。

「お母さんに何か言われたら俺を思い出せ。つらいなら、お母さんとは距離を置けばいい」

 そんな眞野の言葉に、首振り人形になってしまったみたいに、咲来は何度も首を縦に振った。


 車を降りて、咲来は横殴りの雨の中を傘も差さずに、家までの数歩の距離をゆっくりと歩いた。

 玄関に出てきた母親が、悲鳴のような声で心配するのを、全部スルーして、ずぶ濡れのまま自分の部屋に向かった。


 部屋に入ってドアを閉めた咲来は、その場に崩れ落ちた。

 ひどく現実味のない心地の中で、ずっと欲しかったものがついに手に入ったのだと、咲来はそう自分に言い聞かせ続けていた。

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