始まり
メチルセルロース、通称MC溶液はほとんど残っていなかった。
大学四年生の咲来は、卒業研究として、ある被験物質の慢性腎臓病に対する薬効を調べている。
水に溶けない被験物質を実験マウスに経口投与する時、咲来のいるラボでは、MC溶液と呼ばれる媒体に混ぜこんで投与する。このMC溶液は、ラボ内で他の研究生とシェアしているのだが、少なくなった時の補充は、最年少の咲来が暗黙のうちに担うことになっている。
咲来は小さくため息を漏らすと、スーツのジャケットを脱いで白衣を羽織った。
MC溶液の調製には少しだけ手間がかかる。
咲来はまず、メスシリンダーで精製水を500mlはかった。そのうちの一部を耐熱ビーカーに移して、マグネットスターラーで攪拌しながら80℃に加温されるようにヒーターをセットする。残りの精製水が入ったメスシリンダーは、冷室に持っていって冷やしておく。そして、他のラボと共用の秤量室に行って、電子天秤でMC粉末をはかりとった。
【オオマササラ 2.5 g】
MCの使用記録表に、ボールペンでそう記入した。
【ゴトウトモヤ 5.0 g】
すぐ上にはそう書かれている。この使用記録表には、ゴトウという人と咲来のサンドイッチが延々と続いている。
大政咲来ーー。
咲来はまだその苗字に慣れていない。カタカナで書かされると特に、自分の名前ではないような気がしてしまう。
高校生までは谷口咲来だった。高校一年生の時に親が離婚して、大学進学のタイミングで母方の苗字に変更した。
咲来の母親は当初、『咲来が結婚するまでの苗字だから』と言っていたけど、最近になって『ママには咲来しかいないの』と娘にすがるようになった。その母親は、気分の浮き沈みのせいで仕事を続けられなくなった。病院でついた診断名は、統合失調症だった。
母親が離婚時に慰謝料をもらわないことにしたから、収入源を失って、咲来は大学院への進学を諦めた。一生この苗字かもしれないと、覚悟し始めている。
ラボに戻ってきた咲来は、加温していた耐熱ビーカーの精製水の中に、秤量室ではかりとってきたMC粉末を入れた。
溶けずに水面に浮かんだ白い粉は、攪拌の回転スピードを上げると、吸いこまれるように水中に消えていく。
粉が溶けて水が白濁していく様子を、咲来はキャスター付きの丸椅子に座って、ぼんやりと眺めていた。
五分ほど攪拌して粉っぽさが無くなると、咲来はその耐熱ビーカーを冷室に持っていって、全量をメスシリンダー内の精製水に加えた。
くるくる回る攪拌子が、メスシリンダー内にモヤモヤと白濁の渦を作って、やがて均一の溶液にしていく。
咲来は、4℃に設定された冷室の中で小さく身震いをして、メスシリンダーとビーカーを手に冷室を出た。
本当はしばらく攪拌しておいた方が良いのだけど、早くマウスに投与しないと日付が変わってしまうし、深夜の研究棟は何だか薄気味が悪かった。
最低限の照明しか付いていない薄暗い廊下を、足早に歩いていた咲来は、角を曲がったところで人にぶつかりそうになった。
その拍子に、メスシリンダーの中のMC溶液がこぼれて、咲来の顔にかかった。
「す、すみませんっ!」
相手の顔を認識する前に、咲来は慌てて謝った。こんな時間に人に遭遇すると思っていなかった。
「これ、何?」
尖った声とともに、メスシリンダーを持つ手を強い力で掴まれた。咲来は顔を上げて、『げっ』と思った。
それは、咲来が所属するラボの准教授だった。
「すす、すみません、服にかかりましたよね」
咲来はその男のことが苦手だった。
30代後半くらいの、眞野という名の准教授は、アメリカの大学から今年戻ってきたばかりで、研究生への指導に熱が入っている。
咲来も、研究の進め方を相談しに行くと、必ず理詰めでやりこめられた。院生や大学院に進学する同期と違って、大学さえ卒業できればいいと考えている咲来には、それが憂鬱だった。
「これは何だと訊いてるんだ」
睨みつけるように見下ろされて、咲来はますます萎縮した。その様子を見て、眞野は咲来の手首を掴む手を緩めた。
「責めてるわけじゃない。顔にかかっても害のないものなのかが知りたくて訊いてるんだ」
その軟化した口調に、咲来は落ち着きを取り戻した。
「あ、これは、MC溶液です……」
咲来の答えを聞いて、眞野は小さく息をついた。ポケットからタオルハンカチを取り出して、咲来の顔を拭いた。そのハンカチは、ほのかに石鹸の匂いがした。
「今から投与に行くのか」
そう問われて、咲来は頷いた。
「そうか。ここは俺がやっておくから行ってこい」
濡れた床を指差す眞野に、咲来は恐縮した。
「いえ、そんな」
「いいから行け。こんな時間に投与するなんて、本当はあり得ないぞ」
咲来が再度謝ると、眞野は何かを考えるように顎に手を当てた。
「帰る前に俺のところに寄れ。しばらくいるつもりだから急ぐ必要はない。遅くなるよりも、慌てて投与してマウスに噛まれたりされる方が困るからな」
分かったか、と射るような目で確認されて、咲来はこくこくと頷いた。
咲来が重い足取りで准教授の居室に行った時、すでに日付が変わっていた。
もう帰っているのではないか、という淡い期待は、ドアのすりガラスから漏れる明かりによって打ち砕かれた。
「終わったか」
ノックをした咲来に入るよう促した眞野は、ノートパソコンを閉じて問いかけた。
「はい。あの、さっきはすみませんでした」
「いや、俺の方こそすまなかった。考え事をしていて、前を見ていなかった」
怒られるものだと思っていた咲来は、少し拍子抜けした。
「帰るんだろ?君は実家暮らしだったな。駅まで送って行こう。終電はあるのか」
眞野は帰り支度を進めながらそう尋ねた。
そのために待っていてくれたのだと気づいて、咲来は恐縮した。
「あ、しゅ、終電はもうないので、あの、自転車で帰るので、あの、すみません」
「自転車?家までどのくらいかかるんだ」
「30分もあれば、帰れます」
大きなため息をつかれて、咲来は震え上がった。
「すみませーー」
「車で送っていこう」
鞄を手に立ち上がった眞野の申し出に、咲来は顔と両手をぶんぶんと振った。
「いいです。そんな、いいです」
「こんな時間に若い女を一人で帰せるはずがないだろう」
「いえ、そんな、私は大丈夫ですから」
すると、眞野は突然、咲来の手首を掴んで壁に押しつけた。
「俺のことを振り切れたら、一人で帰してやる」
頭ひとつ分背が高くて、がっしりとした身体つきの男に押さえつけられて、咲来は本能的に恐怖を覚えた。
その状態で数秒間対峙した後、眞野は不意に力を抜いた。
「そんな怯えた顔をするくらいなら最初からおとなしく送らせろ。余計な手間をかけさせるな」
咲来が落としたビジネスバッグを拾い上げると、何事もなかったようにドアに向かった。
その後ろ姿を見ながら、咲来は胸の高まりを感じている自分に気づいた。
眞野の車は、ペーパードライバーの咲来が見てもファミリーカーだと分かるくらい、典型的な四角い形をしていた。
咲来が伝えた住所をカーナビに登録すると、眞野は車をゆっくりと発進させた。
「今日は内定式だったのか」
話しかけられて運転席の方に顔を向けた咲来は、眞野の左手薬指に指輪がはまっているのに気づいた。眞野に関心がなさすぎて、今まで気に留めていなかった。
「未来の同期と飲みにでも行ったか」
続けて訊いてくる眞野に、自分は飲んでいないという断りを入れながら咲来が肯定すると、眞野は口元に微かな笑みを浮かべた。
彼のそんな柔らかい顔を、咲来は見たことがなかった。
「今日の投与くらい、他の奴に頼めなかったのか」
眞野はさらに問いを発した。
研究の話以外はしない人間だと思っていた咲来は、その親しみやすさを意外に感じた。
「前から思ってたんだが、君は一人で抱えこみすぎだ」
赤信号で車を停めて、眞野は咲来の方をちらりと見た。
「院に進まないことに負い目でも感じているのか」
図星を指されて、咲来は小さく頷いた。
「心苦しくて……」
咲来はそう呟いた。
「私、最初は院に進学するつもりで、ラボに入る時も、そう言って取ってもらったのに、入った後になって院に行かないことにしたから……」
咲来の所属するラボは、大学院に進まない人を取らない方針にしている。学部までで出て行かれてしまうと、実質一年間しか研究できなくて、中途半端になってしまうからだ。
だから、ラボの中で院に進まないのは咲来だけだ。教授はそんな咲来をあからさまに疎んじている。
「そんな風に申し訳なさそうにするから、他の奴がつけあがるんだ」
眞野が車を発進させながら言った。
「もっと堂々としていろ。君のこの半年あまりの貢献は、正直、他の学生と比べ物にならないと思っている。就職活動もしながらこれだけの成果を出すのは大変だっただろ」
それは、咲来にとって思いがけない言葉だった。眞野が自分のことを評価しているとは、全く思っていなかった。
街灯が流れていく窓を眺めながら、咲来は泣きそうになった。
15分くらいで咲来の住む街に着いた。
公園のベンチに人影が見えて、咲来は嫌な予感がした。
「ここで、ここで停めてください」
慌てて眞野に告げたけど、車はあっという間に公園を通り過ぎてしまった。
「ここでいいのか?家はもう少し先だろう」
そう言いながらも、眞野は車を路肩に停めた。
「大丈夫です。本当にありがとうございました」
咲来は早口でお礼を述べて、急いで車を降りた。
でも、もう遅かった。
「誰なの?」
助手席のドアを閉めようとした咲来の手を掴んで、咲来の母親が運転席を覗きこんだ。
「咲来ちゃんに何をしたの」
男が座っているのを見て、ヒステリックな声をあげる。
「ママーー」
「咲来ちゃんは何も言わなくていいのよ。警察呼ぶわね。ママ、咲来ちゃんに何かあったら生きていけないんだから」
娘に説明する隙を与えずに、咲来の母親は携帯電話を手にした。
「違うの。聞いて、ママ」
運転席のドアが開いて、眞野が車から出てきた。
それを見て、咲来の母親はますますパニックになった。
「こっちに手を出してみなさい。もう警察に繋がってるんだから、全部聞かれるわよ」
眞野に向けて携帯電話を突きだして、咲来の母親はそんなハッタリをかました。
眞野は両手を上げて、小さく頭を下げた。
「警察にかけていただいて結構なんですが、僕はお嬢さんが通っている大学で准教授をしておりましてーー」
「まあ!」
眞野の言葉に、咲来の母親はいきなり素っ頓狂な声を出した。
「咲来ちゃんの先生だったの。それはまあ、大変な失礼をいたしまして、ごめんなさいね。ごめんね、咲来ちゃん。こんなママを許して。ごめんね。許して……」
咲来にすがりつくように、咲来の母親は何度も謝罪の言葉を口にした。
「いえ、僕の方こそ、大事なお嬢さんをこんなに遅い時間まで大学に拘束してしまい、指導官としてお詫びいたします。今後は重々気をつけますので」
全く非のない眞野が、そう言って深々と頭を下げるのを見た時、咲来は、恋に落ちる音を聞いた。




