音楽と生活
接客業をしていると、世の中には色々な人間が居るんだなと改めて思い知らされる。
特に俺の働いているドラッグストアは都心部に近く、その為他の店舗と比べ多くのお客様の来店がある。その分、個性的な人に出会う確率も必然的に上がってくるのだ。
今日も今日とて、一癖も二癖もあるお客様の接客に励んでいる。
それでも、心は常に穏やかだ。
それもこれも、俺の中の悪魔が天使に恋しているからだ。
【やっぱりあんな客に丁寧な言葉なんて掛ける必要なかったんじゃないの!?】
クロナは数時間前の事を思い出しながら、腕を組み声を荒らげている。
〖そんな事ないですよ。それに、クロナさんだって同意してくれたじゃないですか〗
マシロはいつもの如く、穏やかにクロナを宥めている。
【そ、そうだけど…でも!あぁー、やっぱムカつく!!あのイヤホンを握り潰してやりたかったわ!!!】
クロナがイラついている相手とは、数時間前に俺が接客したお客様の事だった。
会計中もずっとイヤホンで音楽を聴きながらで、こちらの問いかけに全く応答しなかった。なのに会計が済んだ後になってレジ袋を付けろだの、クーポンを持っていただの、付けた箸の本数が足りないだの色々と文句を言ってきたのだ。
全て会計前に聞いていた事だったのに。
***
【何こいつ!会計の時くらい音楽止めろっつーの!そんなに音楽聴いてないとダメなの!?NO MUSIC NO LIFEなの!?ってゆーか、なに後になって文句言ってきてるのよ!!】
〖まあまぁ、クロナさん落ち着いて下さい。日本の音楽はどれも素敵じゃありませんか〗
【そうゆう事を言ってるんじゃないの!!自分から外界との交流を遮断してたくせに、後になって文句言ってきてる事に怒ってるの!こんな奴の言う事なんて聞くことないわ!箸もレジ袋も付ける必要ないし、クーポンだって無視しちゃいなさい!】
クロナは勢い良く、そう言い切った。
その言葉にマシロは眉尻を下げながら応えた。
〖そんな、可哀想ですよ。お箸がないと買ったお弁当食べられませんよ〗
【そんなの手で食べればいいじゃない!】
〖それにレジ袋に入れないと、この量は持ちきれないですよ〗
【手で持てない分は口でも使えば!】
〖クーポンだってせっかく持って来てくれたのに、使わないと勿体ないです〗
【こいつに使われるクーポンが哀れだわ!】
〖そんなぁ…〗
マシロの眉尻が更に下がるのを見て、クロナは少し焦った様子で【ただ、日本の音楽は、私だって好きよ…】そう言った。
その言葉を聞くとマシロは嬉しそうに〖そうですよね。良かったです〗と言いながら微笑んだ。
天使の微笑みに、クロナは少し仰け反った。
【んんんっ、でも!今は音楽の話なんてどーでもいいの!】
〖だけど、素敵な音楽を聴いているのに夢中でイヤホンを外すの忘れていただけかもしれませんよ〗
【イヤホン外すの忘れるくらいなら、クーポンとかレジ袋の事も忘れていなさいよ】
〖あはは。それは忘れられなかったみたいですね〗
【もー!笑い事じゃなくて!】
クロナは頬を膨らませながら地団駄を踏んでいる。
その足音にマシロは〖クロナさんはリズム感が良いですね〗と、少し間の抜けた応えを返した。
だが褒められたクロナは満更でも無さそうに【えっ!そ、そうかな…】と照れている。
〖クロナさんは好きな音楽とかありますか?〗
【好きな音楽!?あー、えっと、最近陸がよく聴いてる映画の主題歌は好きだけど…】
それは俺が先週の休みの日に観に行った映画の主題歌で、歌詞が泣けると話題のバラードだった。
クロナはロックやノリのいい曲が好きだと思っていたのに、少し意外な選曲だった。
〖その歌なら僕も好きです。歌詞も素敵だし、落ち着いた歌声も聴きやすくて良い歌ですよね〗
その言葉にクロナが食い付いた。
【そう!歌声が素敵なの……あの声、なんかマシロに少し似てる】
俺は、あぁそうゆう事か。と、納得した。
〖僕に似ていましたか?でも僕、クロナさんの前で歌った事ないですよね〗
【いや、だから、あくまでイメージってゆうか…マシロが歌ったらこんな感じなのかな、みたいな…】
〖えっと…。僕の歌、聴きたいですか?〗
マシロのこの提案に、クロナが食い気味に飛び付いてきた。
【聴きたい!!歌ってくれるの!?】
〖あはは。そんな勢いよく〗
【だって…】
クロナは恥ずかしそうに、口籠った。
だいぶ話が逸れている感じだが、どうやらマシロは本題を忘れているわけではなかった。
〖もし僕が歌っていたとして、何か作業をしないといけなくなったら聴くのをやめちゃいますか?〗
【そんなの、マシロの歌が終わるまで作業はしないわ!】
〖ありがとうございます。なら、このお客様の事もあまり怒らないであげて下さい〗
いきなり持ち出された本題に【ぐぬぬっ】とクロナは少し唸ったが、マシロの純粋な笑顔の前では【分かった…】と納得する他なさそうだった。
どうやら今回も、マシロに軍配が上がったようだ。
「お待たせ致しました。お箸を三膳、レジ袋の中に一緒に入れさせて頂きます。こちらのクーポンも適用させて頂きました。ありがとうございました、またお越し下さいませ」
俺は穏やかな気持ちで一礼して、お客様を見送った。
隣にいた橘さんは何か言いたそうだったが、次のお客様がレジに並んでしまい話す事は出来なかった。
***
昼休憩になり、やっと一息つくことが出来た。
それまで大人しかったクロナが、いきなり怒り出したのはこの時だった。
イヤホンを握り潰してやりたいと言いながら、右手で握り潰すマイムをしている。
さすが悪魔なだけあり、顔が本気だ。それでも隣にいるマシロは穏やかに微笑んだままだ。こちらも、さすが天使と言えよう。
〖ところでクロナさん。僕はいつ歌えばいいですか?〗
マシロのその問いに、怒っていたクロナの顔が一気に破顔した。
【本当に歌ってくれるの!?】
〖ええ、もちろん〗
【なら、今聴きたい!…ダメかしら?】
〖良いですよ〗
クロナは【やったぁ!】と、両手を上げて飛び跳ねた。
こうしてみていると、まるで兄妹みたいだ。
〖どんな歌が聴きたいですか?〗
【えっと、じゃあ、あの映画の主題歌がいいわ】
〖声が僕に似ていると言っていたやつですね。なんか聴き比べられるみたいで恥ずかしいですけど、分かりました。あまり自信ないので、笑わないで下さいね〗
頬をかきながら恥ずかしそうなマシロに【そんな事ないわ!マシロなら大丈夫よ!】と、さっきまでの悪魔っぷりが嘘のようにクロナが応援している。
〖ありがとうございます。それじゃあ…〗
そう言って歌い始めたマシロの歌声は、本当に映画の主題歌を歌っている歌手に似ていた。
寧ろ、もっと柔からさや優しさがプラスされていて、これが天使の歌声かと感嘆してしまった。
クロナも同じ気持ちらしく、うっとりとした顔で歌声に聴き入っていた。
「よし、頑張るか」
昼休憩が終わる頃には、俺の心は更に穏やかになっていた。
悪魔をも魅了する天使の歌声、凄まじき。
こんなに穏やかでいられるのも、全ては俺の中の悪魔が天使に恋しているおかげだ。