元サラリーマン、日本空母を検討する(1)
私の名は市ヶ谷岩雄、かつてはただのしがないアラフォーサラリーマンをしていたが、今は違う。
今はその生涯に幕を閉じ、転生後の新たな人生を歩むための一歩を踏み出している。
その一歩とはつまり、転生後の異世界に連れて行く現代空母を選ぶ事だ。
とはいえ考慮の末にアメリカ海軍のワスプ級強襲揚陸艦がベストではないか? との結論にいたったが、まだ結論を早急に出す時ではない。
アメリカ以外の国の空母も検討すべきであろう。
そんなわけでこれまで数多くの国の空母を検討してきたが、いよいよ最後の国の空母を検討してみようと思う。
その最後の国は言うまでもなく、我らが母国、日本だ。
とはいえ、日本は戦前・戦中は言わずと知れた空母大国であったが、敗戦後に空母はすべて失われ、現在日本に空母は存在しない、当然だ。
何せ日本国憲法において日本は自衛の場合を除く戦力の保有を禁止、もしくは制限されているからである。
憲法の制約で空母が保有できない日本であるが、しかし空母という言葉の意味合いは戦後、幅広くなり曖昧となっている。
これまでも多くの国で検討してきた強襲揚陸艦にヘリコプター揚陸艦などがその例だが、そこで日本では憲法の制約で保有できない空母を攻撃型空母(CVA)と呼んでいる。
攻撃型空母(CVA)という言葉は1950年代から70年代にかけて、対潜水艦空母(CVS)との対比として使われた言葉であるが、ようは固定翼機の戦闘機を運用する空母全般を憲法で制約されているため保有できないとしてきたのだ。
ではその逆は保有できるのか? という話になるが防御型空母などという言葉は当然ながら存在しない。
だからこそ、戦後長らく日本は空母を保有できないでいた。
しかし、一方でこの制約には抜け道がある。
攻撃型空母(CVA)という言葉は対潜水艦空母(CVS)との対比としての言葉であり、こちらは言わばヘリ空母だ。
ヘリ空母は文字通り、回転翼機であるヘリコプターを運用する空母であり、その任務は洋上でヘリを飛ばし敵潜水艦を発見する事。
つまりは日本を見えない脅威から守る自衛なのだ。
日本国憲法は他国を侵略する軍隊の保有を放棄しているが、最低限の自衛戦力を保持する事は認めている。
だからこそ、対潜水艦空母は護衛空母であり問題はない。
こういった事から海上自衛隊はヘリ空母を数隻保有しているのだ。
もっとも、その護衛空母、もしくは対潜水艦ヘリ空母ですら、国内外の反発を恐れてヘリ空母とは呼ばずヘリコプター搭載護衛艦と呼んでいるのだが……
そして護衛艦とは世界では駆逐艦という意味合いであり、日本の言い回しは世界的にみれば見た目は空母なのに駆逐艦という歪な形となっている。
これはヘリ空母に限った話ではないのだが、戦後の日本は多くの国民によるミリタリーアレルギーが強く、自衛隊を旧日本軍と結びつけられる事を恐れ、階級の名称など様々な言い回しを軍から変更している。
例えば歩兵は普通科で砲兵は特科、工兵は施設科となっており、現在は戦車とそのままで呼称しているが、かつては戦車を特車と呼んでいた。
海上自衛隊の艦艇が護衛艦とすべて呼称されるのもそういった流れなのだ。
そんな海上自衛隊であるが、実は空母再保有論は戦後の再軍備がはじまった当初から幾度となく議論になっているのだ。
1951年、日本は西側諸国とサンフランシスコ平和条約を結び主権を回復すると翌52年、海上保安庁内に海上自衛隊の前身である海上警備隊が創設される。
連合軍による占領が終わると同時に日米安全保障条約が締結され、米軍は引き続き日本に駐留する事になったが、同時にアメリカは日本にフリゲート艦10隻、上陸支援艇50隻を貸与している。
それらの艦艇を使って海上警備隊を創設する際、Y委員会というものが組織されたが、この組織において「新日本海軍再建案」が作成され、その再建案の中に国産艦艇の建造に着手し、引揚船「興案丸」をヘリ空母に改造しようとう案があったのだ。
とはいえ、当時はまだ日本は戦後復興の真っ只中。
引き揚げ船としての役目は終えていた船とはいえ、ヘリ空母への改造に国家予算を回す余裕はなかった。
そのため、興案丸ヘリ空母改造案は実現する事はなかった。
興案丸ヘリ空母改造案以外ではアメリカから護衛空母を4隻から8隻貸与してもらう案もあり、実際海自幹部が渡米した際、モスボール中の空母に案内され日本に貸与予定の艦だと説明されたという。
これの取得に関しては防衛庁部内で検討もされたが時期尚早と断っている。
結局のところ、戦後の復興期に空母を含めた大規模海軍を再建する余裕が日本にあるわけがなかったのだ。
そんな戦後日本で次に空母建造計画が浮上したのは1961年。
第2次防衛力整備計画においてヘリ空母「CVH」建造計画が海幕内で立案され、技術研究所で検討資料としてCVHの図面が草案されたのだ。
その内容は基準排水量8000トン、満水排水量14000トン、全長166.5m、幅22mでHSS-2哨戒ヘリを18機搭載できるという。
このCVHはかなり具体的に検討がなされながらも時期尚早との判断から計画は立ち消えとなった。
これには当時の海自と防衛庁における第1次、第2次防衛力整備計画での組織の進むべきあり方について、意見の衝突があったことが少なからず絡んでいるだろう。
つまりは海自をどういった組織にしたいか? といった問題だ。
海自を「国土防衛に特化した沿岸警備隊」とするのか、それとも「海上交通の保護を目的とする外洋指向組織」とするのか。
どちらを取るかで当然ながら調達する装備も作戦もまるっきり変わってくる。
防衛庁としては憲法の制約下で自衛に徹するなら本土防衛以外は実施する必然性はなく、米ソが核兵器で衝突する可能性がある国際情勢下では世界大戦が発生しても早期に終結し、海上交通保護を実施する暇はないだろうという見解であり、海自の海上交通の保護を主任務とし対潜戦を最重視するという防衛構想は聞き入れられなかったのだ。
とはいえ、防衛庁の考え方はあくまで防衛出動後の有事を前提としており、海自は平時から24時間、365日洋上で活動する事を前提としていたため、防衛庁と海自の構想上の溝は深く、事あるごとに対立する事となってしまう。
ゆえに第3次防衛力整備計画においてもCVH建造の計画案は立ち上がったが実現する事はなかった。
とはいえ、この時海自は船団の直衛に必要な護衛艦隻数を8隻、効果的な対潜攻撃を実施するために展開する必要のあるヘリの数を4機、これを常時展開可能な状態におくために必要な機数を6機とする、いわゆる8艦6機体制の構想が採択され、当時の世界的に見ても異例であったヘリコプター3機を搭載する事ができる4700トン型の護衛艦(DDH)を2隻建造する。
それが1973年に就役した「はるな型」護衛艦である。
はるな型護衛艦は「はるな」と「ひえい」の2隻が建造され艦隊航空の中枢として、また護衛隊群の旗艦として「はるな」は2009年まで、「ひえい」は2011年まで活躍した。
一方、第4次防衛力整備計画では再び8000トン型のヘリ空母を、DDHはるな型の建造実績から大型ヘリ護衛艦(DLH)の名称で2隻建造する構想が立案された。
これは哨戒ヘリ6機を運用する想定であったが、のちにハリアーを搭載しVTOL空母へと改装する腹づもりでもあったようだが、時代がそれを許さなかった。
そう第1次オイルショックである。
この影響により予算が確保できなくなったDLHは従来の計画よりも規模を縮小型へと変更し建造数も1隻へと減らしたが焼け石に水であり、結局DLHは断念となった。
しかし、その穴埋めとして「はるな型」護衛艦の拡大改良型である5200トン型DDHが2隻、建造される。
それが1980年に就役した「しらね型」護衛艦。
当時、海自最大の艦艇であり、2017年に退役するまで長く海上自衛隊の顔を務めた艦艇である。
しらね型は「しらね」と「くらま」の2隻が建造されたが、これの登場によって海自は8艦6機体制から8艦8機体制へと移行する。
はるな型としらね型のDDH4隻体制を確立した海自であるが、それでも空母の保有を海自は諦めてはいなかった。
1982年にフォークランド紛争が勃発しイギリスのインヴィンシブル級空母の活躍が世界で注目されると海自も小型空母の建造計画の立案に再び乗り出す。
84年~85年の中期業務計画においてハリアー搭載の小型空母の建造が検討されるが、しかしGNP1%の枠内では無理となり、これは結局立ち消えとなった。
とはいえ、空母の建造は毎度立ち消えとなるものの、空母の必要性については誰もが認めていたのだ。
何せ日本の海上交通路の確保には横須賀基地を母港とするアメリカ第7艦隊の空母に頼るしかないのが現状であるが、しかし、アメリカ空母を日本の都合で拘束はできず、その不在時には国防上、重大な穴が空くと認識されていたからだ。
つまりはアメリカ空母が不在の際には日本独自の空母は必須というわけなのである。
そうした中、日本に空母がない事に対する懸念はより強くなっていく。
80年代に入り、ソ連のミサイルの射程はドンドンと伸び、新たな爆撃機や電子戦機が次々と登場し沿岸州に配備されだしたのだ。
こうした事から洋上防空体制の強化が急務となりイージス艦とともに航空機搭載護衛艦(DDV)構想が立ち上がる。
しかしDDVはハリアーを搭載した防空用とはいえ事実上の空母であり、それを日本が保有する事は国内外から強い反発がある事は火を見るより明らかであった。
そのため政治的配慮が働き、防衛庁の内局を中心に強い反対意見が巻き起こった。
そして問題はそれだけに留まらない。
DDVを建造するとなれば、搭載するハリアーの購入も同時に行わなければならないが、そもそもハリアーの能力自体が限定的で差し迫った脅威であるソ連機に対して対抗手段になり得ないのではないか? との懐疑的な意見が出始める。
さらにDDVのような小型空母では早期警戒機E-2Cを運用できず、遠距離の索敵ができないためソ連機への対処には向かないという問題も浮上した。
そしてトドメとばかりに国産護衛空母を建造した場合、海自の護衛艦隊はその直衛に回されるため、米機動部隊との共同作戦に支障をきたすとアメリカ海軍に難色を示され、国産護衛空母よりも連携が取りやすいイージス艦の建造をとアメリカ側から反対されたのだ。
こうした事からDDV計画は政治判断によって見送られてしまうが、しかし80年代までの流れから打って変わって90年代からは変化の兆しが見え始める。
そのはじまりは平成3年度(1991年4月)~平成7年度(1996年3月)における中期防衛力整備計画、いわゆる03中期防において盛り込まれたある輸送艦だ。
それこそが8900トン型LST、戦後初の全通飛行甲板を有した空母型の姿の艦艇となった「おおすみ型」輸送艦である。
1998年にネームシップの「おおすみ」が、2002年に2番艦の「しもきた」、2003年に3番艦の「くにさき」が就役するが、この3隻が戦後の日本空母史に何をもたらしたのか?
まずはその中身を見ていこう。
特にオチもない短い連載作品になるかと思いますが、気が向いたら☆評価なりブクマなり感想ください