元サラリーマン、ロシア空母を検討する(2)
キエフ級はイギリスのインヴィンシブル級空母と並ぶ冷戦期の代表的な軽空母である。
とはいえ、その内容はイギリスのそれとは大きくかけ離れている。
キエフ級の艦種が空母ではなく航空巡洋艦という事からもわかる通り、その性能は空母と巡洋艦の両方を取ったようなものとなっている。
これには当時のソ連海軍のドクトリンが多少なりとも反映されているのもさることながら、空母がボスフォラス海峡を通過する事を禁止しているモントルー条約の抜け道的な要素も強い。
だが、一番の要因はソ連海軍内の潜水艦派閥や空母に軍のリソースを奪われる事を懸念する陸軍に配慮した結果だろう。
完全な空母ではなく、巡洋艦としての役割も与えられる艦艇であるならば彼らも口うるさく反対はできないというわけだ。
とはいえ結果、純粋な空母としては中途半端な性能になった事は否めない。
当初は純粋な形での原子力空母も検討されたが、結局は全通飛行甲板にアングルド・デッキを備えた空母のベースをアングルデッキのみ飛行甲板とし、艦首など残りの甲板には巡洋艦としての性質を持つ兵装が搭載された形となった。
艦載機数は最大で30機ほどだが、これは戦闘機とヘリを両方足しての数だ。
Yak-38については十数機ほどであったと言われる。
ただし、これについてはキエフ級内の艦艇によって差異が発生する。
キエフ級は全部で4隻建造されたが、1番艦キエフ以降の2番艦ミンスク、3番艦ノヴォロシースク、4番艦バクーそれぞれが改良を受けており、何かしらの能力が新たに付与されている。
そのためキエフ級共通での航空能力を推し量るのは難しい。
何より艦載機のYak-38は当時のSSBN脅威論による結果、対潜哨戒機としての性質が高く、航空戦を行い、航空優勢を確保する戦闘機とは言い難かった。
そのためソ連はYak-38の後継機であるYak-141の開発を進めるが、これはソ連の崩壊によって開発が中止されている。
またYak-44E艦上早期警戒機の開発も中止されたため、早期警戒機も搭載しておらず、キエフ級空母は完遂した空母とは言える状態ではなかったのだ。
しかし、一方でその武器システムは空母の中ではずば抜けた火力を有していた。
これは航空巡洋艦という艦種が物語っているように、保有兵装はM-11シュトルム連装発射機2基にRPK-1ヴィフリ対潜ミサイル連装発射機やRBU-6000スメルチ2対潜ロケット砲に4K33オサーM個艦防空ミサイル連装発射機と充実しているうえに、メインの兵装としてP-500バザーリト艦対艦ミサイルを発射するミサイルランチャーを8基を前甲板に装備していたのだ。
また艦砲もAK-726 76mm連装速射砲を装備と空母としては異常な戦闘能力を有している。
とはいえ、これはあくまで航空巡洋艦の「巡洋艦」の話だ。
空母という意味合いではキエフ級は70年代~80年代を代表する軽空母であるが、宿敵であるアメリカの機動部隊と張り合える艦艇ではない。
そこでキエフ級4番艦のバクーには大幅な改良が行われた。
実際バクーは1143.4型とも言われ、電子兵装の大幅な改良が行われている。
特に新型のフェーズドアレイレーダーを装備した艦橋構造物は大幅に変化した。
また前甲板に装備していたP-500バザーリト艦対艦ミサイルを発射するミサイルランチャーを8基から12基と増強し、航空兵力もYak-141を搭載する事を前提として飛行甲板の面積は拡大した。
とはいえYak-141は開発中の各種テストをバクー艦上で行っていたが、1991年、バクー艦上での試作2号機が事故により大破。
さきほど述べた通り、Yak-141はソ連崩壊後のロシアの財政難により開発は中止となっている。
そしてYak-38は1992年に退役、搭載する戦闘機がなくなったバクーはヘリ空母となり、岸壁に係留され活動も不活発となる。
就役して数年であるにも関わらずバクーがこうなった理由はソ連の崩壊とその直後に訪れたロシア経済の混乱が原因だ。
そう、東西冷戦の終結とソ連の崩壊……これはキエフ級の運命を大きく左右する。
バクーの就役は1987年と冷戦末期であり、さらに各種改良が加えられ、従来のキエフ級より大型化し、後継空母のテスト艦も兼ねていたが、キエフ、ミンスク、ノヴォロシースクの3隻はそうではない。
冷戦の終結によりソ連海軍の戦略が変化した事に加え、ソ連崩壊後はロシア経済の混迷の煽りを受け、ロシア海軍は財政不足となる。
当然、キエフ級は整備不足によって次々と退役に追い込まれていく。
とはいえ、キエフ級はそもそも2番艦ミンスクが太平洋艦隊に配備されるも極東地区に空母を修理できる造船所をソ連は有しておらず、修理を行うにはウクライナの造船所まで回航する必要があった。
そのため、ソ連海軍はミンスクの修理を行う事はせず、多くの故障や不具合が蓄積したままソ連崩壊を向かえ、1992年退役となったのだ。
そう、元よりソ連時代から完璧なコンディションであったわけではないのだ。
その点では4番艦バクーは幸運であるといえる。
バクーはソ連崩壊によって艦名をアドミラル・ゴルシコフへと改名している。
理由はバクーという名はアゼルバイジャンの首都からとっており、ソ連崩壊によってアゼルバイジャンが独立したため、ロシア海軍からすれば「外国の首都」の名前を艦名しているのはおかしいとなったからだ。
そのバクー改めアドミラル・ゴルシコフは1992年から1995年までは岸壁に係留されて活動していない状態であったが、1994年、ボイラー室が大爆発を起こす火災事故が発生する。
これを財政難であったロシアは退役した他のエキフ級から部品を剥ぎ取り修理を試みるが、根本的な解決にはいたらなかった。
1995年には一様の復帰を果たし、その年のロシア海軍の観艦式には参加するが、これが最後の勇姿となる。
そしてアドミラル・ゴルシコフはインドへと売却される事が決まった。
これはロシアがインドへアドミラル・ゴルシコフの船体を無償で提供する代りに、インドが求めていた完全な空母としての全通飛行甲板への改装に電子機器、新型機関への換装工事、また搭載する艦載機を有償で提供するというものだった。
言うなれば、財政難のロシアにかわってインドのお金でアドミラル・ゴルシコフを近代化改装し、完璧な空母として完成させるというわけだ。
1997年、アドミラル・ゴルシコフはロシア海軍から除籍され、翌年からロシアとインドの交渉がスタートし、幾多のトラブルと延期を経て2013年、アドミラル・ゴルシコフは完成された空母の姿となりその名をヴィクラマーディティヤへと改めてインド海軍に引き渡された。
完成された空母となったヴィクラマーディティヤについては今はこれ以上は触れないでおこう。
何にしてもヴィクラマーディティヤ以外のキエフ級は退役したわけだが、その姿がもう見れないわけではない。
1番艦キエフは中国に売却されたが、天津にあるロシア文化のテーマパーク「天津泰達航母主題公園」にて一般公開されている。
これは買い取ったキエフを港に停泊させ、それを中心とした軍事、ロシア文化のテーマパークなのだが、キエフ艦内にも当然乗艦し、写真も撮ることができるという。
さらに野外には中国軍の兵器も展示されており、さらに時季によっては港に併設展示されている潜水艦や駆逐艦も見学できるというから、ミリオタにはたまらない場所であろう。
話は逸れたが、中国の彼の地で今でもキエフはその姿を見ることができる。
そして2番艦ミンスクと3番艦ノヴォロシースクは韓国にスクラップとして売却されたがミンスクは中国へと転売され深圳にて「ミンスク・ワールド」というテーマパークになった。
この「ミンスク・ワールド」は上記の天津泰達航母主題公園同様に軍事テーマパークであり、ミンスクは一般公開され艦内も見学する事ができたのだが、経営会社の倒産によりミンスク・ワールドは閉鎖。
ミンスクは今、揚子江に回航されて係留されているという。
というのも、中国は南通市にミンスクを展示する新たな空母テーマパークを建設するらしいのだが、計画は遅延しているらしい。
とはいえ、数年以内には再び中国にてミンスクの姿を見られる日が来るだろう。
そんな末路を辿ったソ連初の空母であるキエフ級であるが、これに続いて建造されたのが11435型重航空巡洋艦である。
そう、これこそが現在ロシア海軍が唯一保有する空母であり、ソ連最後の空母となったアドミラル・クズネツォフだ。
アドミラル・クズネツォフの登場には紆余曲折があった。
当初は原子力空母としてMiG-29KやSu-25Kをカタパルトで運用するCATOBAR空母を検討するも政治的対立が続き、実現にはこぎ着けなかった。
そこでCATOBAR空母ではなく、STOVL方式とCATOBAR方式を同時に行う11435型案が提案される。
しかし、1143.4型のバクーの建造が進められていた当時、1143.4型を更に発展させた11434-2型が承認されていた。
この11434-2型は1143.4型より大型化しており、内容は11435型に近いものがあった。
ならばと11434-2型と11435型は合流し、11435型が正式な次期空母プロジェクトとなる。
こうして1982年、11435型であるアドミラル・クズネツォフは起工する。
とはいえ、11434-2型の頃はサヴィエツキー・サユースという名であった。
そして11435型となった際にリガと改名され、最終的にレオニード・ブレジネフという名で進水式を迎える。
その後1987年に再びトビリシという名に改名されるが、1990年就役の際にソ連海軍総司令官を長らく務めた元帥の名を取りアドミラル・クズネツォフとなった。
また1985年にはこれを改良した11436型のリガが起工。
このプロジェクトはアドミラル・クズネツォフ級2番艦として1990年にヴァリャーグと改名される。
そして、アドミラル・クズネツォフの起工後、当時のソ連における反原子力空母建造の急先鋒がいなくなった事により、原子力空母建造の機運はグッと高まる。
そして1988年、ソ連としては初の蒸気カタパルト2基を備えた原子力空母の1番艦が起工された。
それが11437型、ウリヤノフスク級原子力空母である。
アメリカの原子力空母に匹敵する規模を持つこの空母は4番艦までを予定していた。
80年代、ソ連はようやく本格的な複数空母運用の道を歩み出したかに見えた。
しかし、そこに至るにはあまりに遅すぎたのだ……
冷戦の終結とソ連の崩壊はロシアに経済的大混乱をもたらした。
結果、ウリヤノフスク級、アドミラル・クズネツォフ級、そして近代化改装を行ったキエフ級空母を中核としたソ連艦隊の世界展開という夢は潰えてしまう。
上記に述べた通りキエフ級は90年代初頭にロシア海軍から姿を消し、ウリヤノフスク級は黒海の造船所で建造していたため、権限はロシアではなくウクライナに移ってしまう。
そして当然ながらロシア同様、ウクライナの経済もソ連崩壊後混迷していた。
建造資金は途絶え、ウリヤノフスク級は船体がある程度完成していたにもかかわらず解体となる。
この時、アドミラル・クズネツォフ級2番艦ヴァリャーグも船体は完成し、機関が残りわずかといったところまできていたが建造が中止される。
しかしヴァリャーグは解体される事なく、その後中国に売却されるのだが、今はその話は置いておこう。
何にせよ、滑り込みのような形でソ連崩壊の前に就役したアドミラル・クズネツォフであるが、ソ連崩壊とその後の旧ソ連圏諸国の内戦への対処、ロシア経済の大混乱の影響によって活動は低調なものとなる。
艦載機の搭載も1993年に入ってからと就役初期のアドミラル・クズネツォフは時代に翻弄された悲運の空母であったのだ。
そんなアドミラル・クズネツォフが活動を活発化させ、その存在感を世界に知らしめるには2000年に誕生する、かの政権の「強いロシア」政策を待たなければならないのだが、その話はここでは置いておこう。
さて、そんなアドミラル・クズネツォフであるが、まずはその内容を見ていこう。
特にオチもない短い連載作品になるかと思いますが、気が向いたら☆評価なりブクマなり感想ください