89.勇者、敗北ス
メイビスがルフレの前へと姿を現す少し前。
第三区でも慌ただしく動き回る兵士たちの様子は、奴隷たちに動揺をもたらしていた。
「――何? なら、もう此方へ向かって」
「――――だ、早くしろ。ここも時期に」
今日ばかりは普通に仕事をしている者は少なく、そんな兵士たちを伺うようにして耳をそばだててている。
そして、その大半は表情に不安の色を浮かべているが、ジンは違った。
焦ったように交わされる会話を正しく聞き取り、事態を理解し、そして次にするべきことも分かっている。ギュッと握った拳から熱が伝わって、得も言われぬ高揚感が薄っすらと背筋を這い上がって来て仕方がない。
「……ようやくだ」
「ジン?」
――――今日、この鉱山は終わりを迎える。
誰かが外部に漏らした情報で、侯爵が動き、そして勇者を差し向けた。絶対的正義の象徴である勇者がやって来る。それは、ウェンハンス伯爵の悪事が明るみに出て、裁かれると言う事だ。
奴隷たちは解放され、自由に、再び太陽の下へ出る事が出来る。
どれだけ待ち望んだか分からないような熱望が、成就する。ジンにとって苦しみに満ちたここでの六年間は、自らに課された罪だと考えていた。道を間違い、選択肢を誤った己に、神が罰を下したのだと。
……だがしかし、それすらも間違いだった。
どれだけ苦痛に苛まれようとも、罪の意識が消える事は無く、救われもしない。償う事すら叶わず、一生をここで過ごす羽目になるとそう思っていた矢先に、己の罪過を示す存在が現れてくれた。
今まで行って来た事は全て無意味であり、真に何をすればいいかをそこでようやく――――
「……ジン、なんか聞こえる」
ピクピクと耳を震わせ、アカネがそう言った直後、遠くで爆発のような音が木霊した。
「――――ッ!?」
そして、それは段々と大きくなり、こちらへ近づいてくる。
腹の底から震えるような地響きを携え、鉱山全体が衝撃に大きく震えた。激しい揺れが起き、立っているのがやっとの状態で、更に天井が崩落し始める。
「来いっ!」
「ひゃ!?」
ジンはアカネを胸へ掻き抱くと、そのままうつ伏せに体を丸め、揺れが収まるのをジッと耐える。
だが、揺れは鎮まるどころかどんどん大きくなっていき、一際大きな地響きが鉱山内に響き渡った後、ジンのいる場所とは反対側の壁が突如爆発した。砕けた岩壁が辺りに飛び散り、土煙がもうもうと立ち込める。
一体何が起きたのかと、悲鳴と怒号が飛び交うこの空間で、唯一ジンだけがその『姿』を目視していた。
まるで金縛りにあったかのように体の自由が利かず、視線がある一点に釘付けになる。
「な、んだ……ありゃ……」
頭に巻かれた包帯の隙間から錆色の髪が垂れた猫背の男。
その手には、火のように明るい橙色の糸束を掴んでいるように見える。だが、煙が晴れて行くとそれが糸では無く誰かの髪の毛で、更には壊れた人形のように項垂れる少女の頭を鷲掴みにしているのが分かり、ジンはその惨憺たる姿に目を剥いた。
十中八九、あの男がやったに違い無いが、いきなりすぎて状況を呑み込む事すら難しい。
この場にいる全員が呆気に取られる中、包帯の男はボタボタと頭から血を流す少女をまるでゴミでも捨てるかの如く放り投げると、ゆっくりと辺りを睥睨した。
「あ、れ? お、かしいぞ、奴隷が、ちゃんと働いてないなぁ」
そして、別々の音声を繋ぎ合わせたような言葉を発し、こてんと首を傾げる。
「グラディン様!? こ、これは一体……!?」
「ね、ぇ、奴隷、仕事、してないけ、ど?」
ようやく硬直が解けた兵士の一人が走り寄ると、グラディンと呼ばれた男は奴隷たちを指差してそう訊ねた。
「えっ、いや、それは……」
「な、んで? ぼく、ちゃんと働かせろって、言った、よね?」
「し、失礼ながらグラディン様が、壁を突き破って現れたので……」
冷や汗を流しつつ返事をした兵士をグラディンはジッと見つめ、
「え? ひ、とのせいにするの? それって、よくない、ことだよ。ね、ちゃんと奴隷が、働かな、いのはちゃん、ときみらが動か、さないから、だよ。自分で考えて、動、く道具なんて、無いんだしね」
「――――」
そう言い放った。
「あれ? 僕、ただしい、こと、いっ、たよね? なんで黙るの? 返事は、ちゃんとしない、と駄目だよ?」
グラディンはさも正論を言ったかのように不思議がり、狂気じみた瞳で兵士を見る。ジンは全く状況が掴めずただ茫然とそれを眺めるだけだが、この光景には少し見覚えがあった。
「ほら、その口は、なん、の為についてるの? ちゃ、んと、お返事、しよう、ね?」
「あがっ――――」
兵士の口を手で鷲掴みにすると、グラディンは無理やりこじ開けようと下顎を引っ張り――――直後に兵士の顔が上下に裂けた。
「う゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁぁっ!?!?!?」
筋繊維が千切れる音と骨の砕ける音が木霊し、ビチャビチャと地面へ血が迸る。余りの激痛に兵士は耐え切れずに白目を剥くと、そのすぐ後に絶命した。
「う、わ、汚い、なあ。そ、こまで、しろって、ぼく、言ってな、い、よ」
失禁した兵士を嫌そうに放り投げると、グラディンは次に近くにいた兵士に目を付け、歩み寄る。
「ね、え、君。あ、の人寝ちゃった、から、代わりに責、任とってね?」
「……は? え?」
「奴隷を、ちゃん、と、働かせ、なかった、責任。失敗、した、らごめんなさい、しないと、だよ」
そして、まるで子供が使うような言葉でそう言い、兵士に謝罪を要求した。
「ほ、ら、早く。ごめんなさい、は?」
「ご、ごめんなさい……」
「は、い、よくできまし、た」
素直に兵士が謝ると、その不気味な程に大きな目と口を喜々と歪め――――
「……あ?」
兵士の腹部へ腕を突き立て、肉を突き破った。
グチュグチュと耳障りな水音が鳴り、呆然と掻き回される自分の腹を見下ろしていた兵士は、腸が引き摺りだされた時にようやく起きている事態を理解する。
「い、が、やめて、やべて……ごぼっ! が、いだい、痛いっ! あべ、いだ……ぶぐっ……」
抵抗らしい抵抗も出来ず、ただ棒立ちしながら内臓を握り潰され、引き摺りだされ、泣きながら自分が壊されて行くのを見ていた兵士は数秒後に死んだ。壮絶な死を迎えた兵士が口から血の泡を吹いて事切れても、余りの光景に場は静寂を保ったまま。
ふと、ジンは抱えた少女を見下ろすと、顔を蒼白にして震えるアカネの横顔が視界に映った。歯の根が合わず、カチカチと音を立てながら眦一杯に涙を溜める姿に、喉元まで酸っぱい液体が込み上げてくる。
命を命とも思わない行い。
ジンは、やはりこの光景に見覚えがあった。
「……あん時と同じだ」
聖人を名乗る悪魔が現れ、密かに憧れていた英雄を殺し、自らの行いを考え直させるきっかけを与えてくれた少女を深く傷つけた、あの時と同じ。
「ほ、ら、お前たちは、早く働け? どうし、たの、働かない、と、お仕置き、する、よ?」
グラディンが一番近くにいた奴隷に向かってそう言うが、固まったまま動かない。
否、恐怖で足が竦んで、歩く事すらままならない状態だった。
訝しむように奴隷の顔を覗き込み、先程兵士にしたように手をその体へ伸ばす。先程の惨劇がまた起きるかと思われ、ジンは咄嗟にアカネの目を塞ごうとした時、グラディンの真横から橙色が翻った。
「な、に?」
顔を鮮血に染め、眦を裂ける程に開いた少女が、その手に持った赤白に輝く剣を打ち下ろす。
だが、鬼神の如く振るわれた一刀をグラディンはまるで何でもない事のように避けると、バランスを崩した少女は剣の重さに引っ張られて倒れ込んだ。
「きみ、弱いから、もういいよ、勇者って言っ、ても大した、事無かったし」
浅い呼吸を繰り返す少女にグラディンはそう言い、興味を失ったように視線を外す。しかし『勇者』と、そう言ったのをジンは聞き逃す筈も無く、愕然とした表情で倒れ込む少女を見やった。
――――あれが勇者? なら、負けたのか? 勇者が、加護を持った勇者が?
今も尚、立ち上がろうと剣を支えに体を起こす少女。
その手の甲には炎を象った痣のようなものが浮き出ており、淡く発光している。それこそが加護を受けた証であり、魔を滅する最強の戦士たる証の筈だった。だが、ジンの目には地に這い蹲り、立ち上がる事すら出来ない程に打ちのめされた少女が一人映るだけ。
「……どうなってやがんだ」
胸中に絶望が押し寄せて来て、ジンは自分の手が震えているのを見て、今更ながらに恐怖している事を理解する。
「駄……目であります、これ以上は、やらせない……」
喉奥から無理やり絞り出したような声でそう言って、勇者が立ち上がった。満身創痍で、立っているのがやっとの状態である事は誰の目にも明らか。
「お前が……お前らが、何をやっていたのかは、"ある人"が教えてくれたであります……これ以上の悪事は、自分が許さ――――」
肉切り包丁が脇腹の肉を抉り、堅い岩壁に突き刺さる。
それを投げたのはグラディンである事は確かだが、余りの速度にジンも一瞬理解が追い付かなかった。まるで飛んでくる過程を省略したような速さ。
「悪いのは、そっち、でしょ? いきなり現れ、て、斬りかかって来、たのは、あり、えないよね、話し合、いとか出来ないの?」
腰に提げたもう一本の包丁を手に取ると、グラディンは再び投擲の姿勢に入った。
「そ、んな、人と、話す事は、なに、も、ないよ」
いつの間にかグラディンの手を離れた包丁は、真っすぐに勇者を目掛けて飛んでいく。
このまま行けば、確実に直撃して死は免れないだろう軌道で飛来するそれに反応出来る程の余力は勇者には無く、それを止められる程の猛者もここにはいない。
「"黒影雲隠"」
――――ここに"いない筈"の、たった二人を除いては。