82.殴殺天使ルフレちゃん
『なあおい、聞いたか? 例の噂』
『ああ、"殴殺の天使"の話だろ?』
一区の食堂で交わされる奴隷たちの話は、ここ数日ある一つの噂で持ち切りだった。
「ああ、俺も間近で見たんだが、ありゃとんでもねえな」
「とんでもねぇって、何がだよ」
「そりゃ決まってんだろ、鬼強いって事だよ。あんな細い脚で地面を蹴って割っちまうんだぜ、ブルっちまう」
「ああ、あの白くてすべすべで柔らかそうな足でな……」
「あの生足で首絞められた奴もいるんだぜ、羨ましいよなぁ……」
――――殴殺の天使
天使のように可憐な容貌とは裏腹に、容赦なく相手を殴り飛ばし、ひれ伏させる事から付いた二つ名。一区の奴隷闘技場の新顔の筈が既に連勝を重ね、倍率は脅威の1.2倍という安牌と化している。そして、彼女の試合になると貴族達はこぞって大金を賭けるとか。
その本意は、早く鉱山から解放して彼らの奴隷として買い戻す為らしい。
「でもよ、やっぱ一番はアレだ、足を振り上げた時にチラっと見える太腿が好きだ」
「お前変態かよ……まあ分からんでも無いが、俺的にはあの控えめな横乳だな。服がボロいから激しく動くと結構見えるんだよ」
「いや、お前の方がヤバくね? まあ分からんでもないけど、因みに俺はあの人をゴミのように見下してる時の目がイイ」
「あー……そっち系ね、俺も勢いで踏まれたことあるけどあれはヤバイ。男とか道端の石と思ってそうだよな、だがそれがイイ!」
「「「分かる!」」」
と、こんな風にとんでもなく噂が広まっている。
俺的にはあんまり嬉しくないと言うか、そういう話するからゴミを見るような目になってるんだけどな。
「数日の内に、随分と有名人だな」
「……こっちは割と迷惑してるんだけどね?」
食堂の奥の席で顔をしかめながらパンを齧っていると、ジェイドがそう声を掛けて座った。その顔は心なしか険が取れて、穏やかになっている気がしないでもない。
「まあそう言うな、奴らも悪気があって言っているんじゃない」
「いや、あれもう完全に邪な思考の極地だよね?」
「生きる希望と言う奴だ。ここで生き抜くのは厳しい、何でもいいから縋っていたいんだろう」
う~ん、そういうもんかね。
それにしても、人をエロい目で見て生きる希望を見出すのはちょっとアレだが。性的欲求と言うものは、やはりモチベーションに直結するのかな?
「なら、逆の立場で考えてみると言い」
「逆の?」
俺が普通に男で、生きる希望も見い出せ無いようなこの生活の中、突然常識外れな強さを持ったそこそこ可愛い女の子が現れたらどうするか……。まあ、順当に行けばアイドル化は確実だよなぁ、むさい男の中に女一人放り込めばそうなるか。
多分前世の俺なら萌え豚と化してる事は間違いない。
「まあ、分からんでもない……か?」
良し悪しはともかくとして、他の奴隷たちの気を紛らす話のネタにはなってるようだし……有名税だと思って多少は目を瞑る事にしよう。
「だが、この様子だともうすぐにでもお前は此処を出て行くことになりそうだ」
そう言って、ジェイドは俺を見つめる。
奴隷闘技場の開催は週に一度土の日となっており、残りの六日は普通に働かされた。そして、二回目を終えて俺は既に自分を買い戻すのに十分な額、金貨八枚を稼いでいる。
何人もの貴族から身柄を買い取ると言う打診もあったらしく、今すぐ鉱山から抜け出す事は出来るが、そもそもそんな理由で俺はここに来たわけではない。
「いや、まだ出て行かないよ」
「何故だ? 上位貴族の奴隷になれば食うに困らないだろうし、お前であれば冒険者としても大成するだろう?」
「ちょっと助けたい人がいるんだ」
「…………成程」
第一区で稼いだ金は自分を買い戻し、解放奴隷とする以外にも実は、他者の身柄を自由にすることが可能だ。正直一か八かだったが、労働奴隷のモチベーションを維持する為の仕組みとして存在してくれた。
胸糞悪い話になるが、元々この闘技場は奴隷堕ちした者を救う為に、親族や恋人が金を稼ぐ"闇の賭博場"である事から説明しなければならない。
ウェンハンス伯爵が攫って来た奴隷たちには、当然だが家族や恋人がいる。そして、攫われた彼彼女らを黙って見捨てる者は早々いない。何をどうしても救い出したいと思う奴だっているだろうし、ウミノがいい例だ。
だが、表立って貴族の伯爵位に逆らえばどうなるかは誰でも分かるだろう。
そんな者に対し、悪辣な伯爵が用意したのがこの奴隷闘技場。最愛の人を助ける為に、自らもその身を奴隷に堕として金を稼ぐ為の場所なのだ。上手く拐かし、恋人の解放と言う餌をちらつかせ、貴族たちの玩具にする。
――――悪意を煮詰めたような、腐った権力者の欲望の蜜壺。
ジンが『力のあるやつは最初から第一区行きが決まってる』と言ったのは、つまりはこういう事。『力があるから一区に連れていかれる』のでは無く『大事な人を救う為に力を付けて一区に行く』が正しいだろう。
勿論こんな事は伯爵と繋がりのある貴族達と、此処にいる奴らしか知らない。
表向きここは只の採掘資源がある鉱山で、奴隷を使った賭博をやっているなど表の住人は露も知らない筈だ。俺だって、情報通のアキトでさえ知らなかったものだ、この領地でも普通に生きていれば知らずいてもおかしくはない。
「で、かく言うお前もその口なんだろ?」
「……分かってしまうか」
「ここにいる奴は大体強いし、大半はそうだと思ってるけど」
そして、ジェイドを含めた此処にいるおよそ八割の者は、そのデスゲームの被害者だ。マジで帝愛何某も真っ青の黒々しさ……俺的には鉄骨渡りの方が怖いけど。
「俺には妹がいる」
「お前も妹か……」
「……お前"も"?」
「いや、何でもない。続けて、どうぞ」
「妹と言っても、血は繋がっていないがな。俺は元々流浪の民族、人魔族なんだ、妹は妖猫族で、旅の途中行き倒れているのを拾った」
妖猫族……? んん?
あのジンと居た女の子、確か猫耳の亜人だったよな。
「だが、一年程前か……訪れたこの国で彼女が攫われた。当然後を追ったが、裏には貴族の影がちらつき……奴の、伯爵の甘言に乗る以外に選択肢が無く……」
「それで、ここに来たって訳か」
血の繋がりの無い、義妹の為に奴隷堕ちまでして助ける、か。
お兄ちゃんとしては百点満点だが――――
「で、妹を助けた後お前はどうするんだ?」
「それは、その時に考える」
「あのなぁ……」
「最悪、アイツだけでも外の世界で自由に生きられるのならばそれでいい」
自分はどうなってもいいから、妹には幸せになって欲しいと。本当にここには馬鹿しかいないな、全く……。ウミノにも似たような事聞いたけど、同じ返事が返って来たし。
「もう少し後先考えて動けよな、妹ちゃんだってお前と一緒に居たいに決まってんだろ」
「む……」
多分、あの子の目が死んで無かったのは、ジェイドが助けにきてくれると信じていたからだろう。そして実際にジェイドは妹を助けるべくこうして頑張っている。けど、それで助けられた側はどうする?
いつ出て来れるかも分からない場所に残った兄を置いて、何処かへ行くことが出来るのか?
十年待っても出て来ず、死んでしまった事を知ったら?
残された側と言うのは、残して逝った奴よりも多くの"もの"を抱えてその先を生きなければならない。それがどれだけ辛いか、曲がりなりにも俺は理解しているつもりだ。
「自己犠牲の果てにある自由は、幸せなんかじゃない」
「……なら、お前はどうなんだ?」
「私は死なない、何があっても、誰かを残して死ぬなんて事は絶対にしない」
イミアと笑い合って過ごす未来の為に、俺は"生きて"全部守る。誰かを庇って死ぬなんてカッコイイ事態は、二度も起きなくていい。
そんな俺の言葉に呆気に取られたのか、ジェイドはポカンとした顔でこちらを見る。
「……お前は、小さいのに強いな」
「ああ、強くいなければ誰も守れない。後小さいは余計だ、馬鹿め」
「いなければ、か」
「お前も兄ちゃんなら、妹の為に強くいろよな」
「……分かった、善処しよう」
そう言ったジェイドは、確かな意志を持って頷いた。
俺だって強い訳じゃない、強くいなきゃいけないからそうあろうとしている。なら、誰にだってそれは出来る筈だし、ジェイドはきっと強い。なんたって兄貴なんだからな、妹を守る為に兄貴って言うのは強く生まれてくる生き物だ。
「ところで、先程お前も妹がいるような事を言っていたが……」
「ああ、うん。いるけど、別にここにいる訳じゃない。ずっと遠くにいて会えないって意味じゃ似たようなもんだけど」
「そうか、余計な詮索をしてすまない」
「いいよ別に、悲しいって訳じゃないし」
そうか、そう思うと、妹はいるけどもう会えないんだな。
元気にしてるだろうか、両親も健在だと嬉しいけど。多分もう二度と会う事は無いんだろうと、そう考えると少しだけ寂しい気もする。
――――我が最愛の妹へ。兄ちゃん、引きこもりニートで最終学歴中卒だけど、今は女の子に転生して頑張って奴隷やってます。そちらでは今夏なのか冬なのか、もしくは春なのか秋なのかは分かりませんが、沢山の人と支え合い、そしてどうぞご自愛ください。