閑話.舞台は再び元の場所へ
――――どうしてこうなった
そう呟き、足に嵌められた鉄の枷を見下ろす。
もう随分と自由に歩き回るなんてことも許されず、ただ決まった道を往復するだけ。
元々常人よりもよっぽど目つきが悪いのが、劣悪な環境下に置かれて更に落ち窪んで拍車をかけている。犯罪奴隷という身分上肉体を酷使する為、辛うじて体だけは当時のままを維持できていると思われた。それも随分と昔の話で、定かではないが。
「何をしている457番、立ち止まっている暇なんかは無いぞ! 足を動かせ!」
鎖帷子に全身を包み、鞭を所構わず叩きつける看守が呼んでいるのが自分だと気付いて、再び手に持った岩を抱えて歩き出す。
ここでは決まった時間以外に休む事は許されない、どんなに疲れていようがなんだろうが。奴隷とはそういうものであり、五年前の男もそうだと思っていた。だが、実際になってみると分かるが、休めないとはとんでもない事だ。
金気の薄い足枷が碌に舗装もされていない地面に擦れ、ジャリジャリと音を立てる。
隣を歩いている誰かがいやに掠れた呼吸を繰り返し、その直後に倒れた。
「おい! 265番! 立て、休むんじゃない!」
そう言われても、これはもう駄目だろうと思った。先程までの荒い呼吸が無かったかのように、目の前で倒れ伏せた男は静かになっている。
鞭に打たれ、何本も蚯蚓腫れが走ったその背中はもう上下すらしていない。
死んだのだ、今ここで。
最後の抵抗とばかりに割れた爪が地面を食い立てられ、目の前で死んだ男の無念を物語っていた。彼は457番――――新参者であるこの男にグリュミネ鉱山で働く上での様々な事を教えてくれた、いわば奴隷の先輩的存在だった。
――――ああ、また一人逝ったか
だが、そんな先輩の死を前にしても、男の心にはなんの感情も浮かび上がってこない。
ただただ、昨日死んだ五人という数よりも今日は少ないな、と思うだけである。そしてまた、新たに奴隷が補充され、今度は自分が彼らにここのルールを教えるのだと。
そんな、少し先に待っている雑事に辟易としながら、死体を乗り越えて切り崩した岩を背負って歩いていく。
『ここに明日はあるが、未来はない』
奴隷の誰が言ったか、そんな言葉を耳にした事がある。
そして、次は男が新参にこういう番だ。
「――――ようこそ、人生の終着点。この世の終わりへ」
ここは、アルトロンド王国ウェンハンス伯爵領グリュミネ鉱山。
絶望の檻、謂れなき者達が連れて来られた地獄。
奴隷番号457番、ジン・シールダーは今日もこの鉱山で人生の終わりが来る日をただ、待ち続ける。
***
「……それで、何の沙汰もなく消えてしまったと」
「ああ、正直俺も信じられないよ、まだ礼の一つもしていないのに」
王都にあるメルティア伯爵邸にて。
ラインハルト子爵家の次男であり騎士のアルバート・フォン・ラインハルトはエイベルにそう言うと、優雅な所作で紅茶の入ったカップを口へ添えた。
「転移系魔法なら、魔力の痕跡を追えたのではないかい?」
「……それが出来ていれば、今ここでお前とお茶なんかしてないさ」
「どういう事だ、詳細を聞きたいな」
貴族の中でも眉目秀麗と密やかに噂される二人の談話に、部屋の奥に控える女給たちは憧れの眼差しで彼らを見やる。だがその実、方や婚期など知った事ではないと文字通り独身貴族を貫く男と、方や今一度剣に人生の全てを捧げんとする剣術オタクの男である事を彼女たちは知らない。
「勿論女王様が急いで宮廷魔術師に探らせたさ、けど結果は御覧の通り。痕跡どころか一週間経った今でも、彼らが何処へ行ったのか皆目見当もつかない有様だ」
「痕跡の無い転移魔法などあり得るのか?」
「それが、女王様によれば見たことも無い、"黒い魔法"だったと」
「まさか……!?」
その言葉にエイベルは目を細めて対面の騎士を見ると、アルバートも無言で頷いて小さく息を吐いた。
「先日の会議で、恐らくあれは"闇属性"だったと、結論が付いた」
「表の歴史には絶対に載らない、"魔女"の隠匿する闇属性魔法……まさか実在したとは」
「だがしかし……おかしなことにそれを使ったであろう当人は、自らの事を確かに"聖人"と名乗ったんだよ」
「聖人……!? ちょっと待て、一度に色々と情報が多すぎるぞ……」
実在すら疑われた二つの存在について口にしたアルバート自身、半信半疑である事を示すように瞑目してお手上げのポーズを取る。
エイベルに関しては一度に処理しきれない程の情報を耳に入れてしまい、最早頭を抱えてしまっていた。
「……そういうのは前置きしてから言ってくれ、これは国家保安に関わる案件だぞ」
「すまん、俺も早く誰かにこの事を話してしまいたかったんだ。あの城内で抱えておくには重すぎる」
そう言って嗜めるアルバートだが、エイベルは不機嫌そうに眉を顰める。
こうなると厄介で、普段は公私混同の愚痴を聞かされるところなのだが……
「まあいい、ルフレ・ウィステリアは無事なんだろう?」
「恐らく……な。一度下している以上、負ける事はあり得ないだろうし、もしかするとすぐにでもあの聖人を連れて戻ってくるかもしれない」
アルバートは彼の邪悪の権化のような少女の襟首を掴んで、引き摺って歩くルフレの姿を想像し、苦笑しながらそう言った。
そして、話はルフレの事へと段々移っていき――――
「それほどまでに強いのか……実際戦っている所を見たことは無いから知らなんだ。しかし、私も元は騎士の端くれ、今度手合わせ願いたいものだ」
「やめておけ、アレと俺達では次元が違う。自信を喪失するだけだぞ」
「……それは経験談か?」
「経験談だ」
「そ、そうか」
「そうだ」
いつになく真剣なアルバートの顔にエイベルは並々ならぬ何かを感じ、大人しく引き下がったのだった。




