42.冒険者アミ・メミット
彼女は、ただひたすらに歩き続けた。
一体、どれだけ歩いたのか分からない。もしかすると、大陸を何周もしてしまう程歩いたかもしれない。擦り減ったブーツを、何度買い替えたかも分からない。
後ろを振り返る度に自分の歩いた距離と、目指す場所の遠さが明確になる気がして、眩暈がした。
彼女は、イミア・クレイエラは今も歩き続けている。
いつか主君と仰ぐべき者の元へ帰るために、いつ終わるとも知れない長い帰路を往く。
***
――――アミ様、どうなされました?
ふと、耳元で囁かれた声に我に返る。
イミアは声の主である少女の顔を見てから、何でもないと首を横に振った。
「もうすぐ、パイが焼き上がりますから、その前に湯浴みでも如何でしょう?」
まだ十歳だと言うのに、従者であるソフラは気立てが良い。
細々としたことにも気が付くし、炊事洗濯などの家事全般も得意だ。しかし、イミアは何よりも個人的な事について、一切聞いてこないのが一番気に入っている部分だった。
「そうさせてもらいます、もし来客があれば、もう遅いので明日にするようにと伝えてください」
「かしこまりました」
そう言って、一度私室へ戻り着替えを手にすると、部屋のすぐ隣にある白ガラスが張られた扉を開く。
むっとするような熱気が全身を覆い、立ち込める煙がしっとりと肌を濡らした。
革で出来た胸当てとベルトを外しインナーを脱ぐと、そのしなやかな肢体が露わになる。
骨の上に薄く張ったような筋肉には無理やり鍛えて作られた不格好さは無く、無駄を削ぎ落した、まるで野生の獣のように柔軟で、一種の芸術品とも呼ぶべき美しさだろう。
イミアは更にもう一枚の戸を潜り、大理石で造られた浴槽に張られた湯の中へ体をゆっくりと沈める。
「ふぅ……」
大陸の北――――ラグミニア公国は周囲を火山に囲まれ、豊富な鉱物資源や温泉などで栄える産業大国だ。採掘された鉱物の殆どはフラスカへと輸出され、代わりに国一帯が岩石地帯のお陰で育てる事の難しい農作物を輸入する事でこの国は成り立っている。
そしてここは公国内の首都、ラグリス。
『ラグリスはどこを掘っても温泉が出る』という言葉もある程で、基本的にどの家も風呂が存在した。
イミアがこの国に身を寄せるようになったのはおよそ一年前。
年中活火山が噴火するような危険で、過酷な環境下に身を置き強くなる為。
また、そんな環境に棲息する凶暴な魔物と戦う為にやって来た。
ルフレの傍に居るには力が足りなさすぎると痛感したあの日。
アルトロンドを飛び出したイミアは名前を変え、冒険者"アミ・メミット"として活動を始めた。
もはや神の存在など信じるに値せず、無用な殺生を禁ずるという教会の教義も破った。
ただ、ひたすらに強くなることだけを求め、放浪する日々を送った。
主に北西の小国群を中心に、なるべく厳しい環境に身を置くようにもしていた。
最初の二年間は教会の追手に気を付けながらの生活だったので、あまり大手を振って活動する事は憚られたが。
三年目に差し掛かる頃、既に追手が来ていない事を理解してからは早かった。
元来その辺の冒険者とは比較するべくもない天賦の才を持つ聖女だ。
直ぐにランクはBまで上がり、昇級試験を経て今はA――――金証保持にまでなっている。
どうやら他の支部で全く同時期にAランクに昇級した者がいたらしく、三十人と言う規定枠からはみ出した為に一か月後の功績点最下位が降格というポイント争いなどもあったりした。
お陰で高難度の依頼を幾つも受けるきっかけにもなり、いい鍛錬になったのだが。
結局降格したのはイミアでもその同期でも無く、ここ数年音信不通になっている老齢の冒険者だった。
だが、Aランク冒険者になってもイミアはまだ納得はしない。
肩書だけの強さなど、所詮偽り。せめて五年前のルフレを越えなければ、彼女の元へ戻る事は出来ないだろう。
だが、着実に強くなっている。
もう少しで、何か掴めそうな気がしていた。
あの日のルフレにあって自分に無い物が――――
***
「あ、そうそう。アミ様の言う通り来客がありましたよ」
「そうですか」
丁寧に焼き上げたパイを皿へ盛りつけ、更には切り分ける作業の最中にソフラはそう言った。
だが、イミアは焼いたジャガイモと蒸しイモのミルフィーユパイを見て、少し嫌そうな顔をすると興味無さげに返事をするのみ。
また芋のパイか、と。
その横には茹卵と、ジャガイモと和えたスクランブルエッグ。
現在食卓では、ここ数日同じメニューが連続していた。
別に金に困っているという訳ではない。
むしろ庭に巨大な露天風呂があるような家を一括払いで買える程度には裕福と言える。
Aランクともなれば依頼の難度も、それに伴う報酬も文字通り桁が一つ跳ね上がるからだ。お陰で各地を転々とするイミアは、滞在する街々に家を持っていた。
ではなぜこんなにも芋と卵しかテーブルには並んでいないのかと言えば、この国の土壌のせいであるとしか言えない。
乾燥した大地に剥き出しの岩々、土のある所も掘ればすぐに硬い岩にぶつかる。とても農耕を出来るような環境では無く、そんなところで農作物が育つわけも無く。
辛うじて芋だけは何処ででも育つので、この国の主食は皆揃って芋。
市場にも芋ばかりが並んでいるし、必然食卓も芋だらけになるという訳だ。後は魔物から取れる食材――――この辺であればコカトリスの卵が有名である。
「えっとそれでですね、その来客と言うのがオーキッド商会の人たちでして」
「……何か言伝は預かっていますか?」
「はい、指名依頼です。貿易都市国家"フラスカ"まで、護衛をして欲しいと」
ソフラの言葉に、イミアは暫く逡巡した後に大きく息を吐いた。フラスカと言えばこの国との繋がりも深い大国だ。幸いにもアース教とは国交を断絶している。
フラスカはこの国へ来る途中で通ったが、ほぼ素通り。きちんと見て周ってはいないので、今度は気分転換がてらにしばらく滞在してみてもいいかもしれない。
「分かりました、私は明日の早朝にでも商業ギルドに行きます。ソフラは旅の支度をしておいてください」
「……っ! はい、アミ様! また旅が出来るんですね!」
それに、この働き者の少女には何かご褒美を与えなければいけないなと、丁度思ってもいた。
ソフラは何故かイミアと旅をするのが好きらしい。と言うよりも、イミアと言う人間を好いていると言う方が正しいか。
そもそも、彼女との出会いからしてそれは割と劇的なものだった。
行商のキャラバンを護衛している最中の事。街道の真ん中で盗賊に襲われている馬車を見つけ、仕事内容に含まれる障害排除を遂行する為に盗賊を駆逐したイミアが、馬車の中から救出したのがこのソフラと言う少女である。
気立てもよく、家事もそつなくこなすソフラの出自は不明だ。
荷運びの商人とは格の違う馬車であったことからやんごとなき身分である可能性は考慮したが、それでも尚イミアは彼女を連れて行く事にした。
だからこそ、彼女もイミアに何も聞かないし、イミアもソフラに何も聞かない。ただ、助けて貰った恩人に対して報いるために従者になったソフラを、イミアは時折懐かしむような目で見ていた。
ルフレもイミアに深い事情がある事を知りながら、余計な詮索を行う事は無かった。ならば、彼女に少しでも近付くために、自分も同じようにすべきだと。
いや、もしかすると当時の二人の関係に近しいものをこの少女に求めているだけなのかもしれないが。
そう結論を付けたイミアは、まだ熱い芋を齧りながら益体のない思考を頭から追い出した。




