34.泡沫と泥濘より
第二章の開幕は意外にもこの人から。本日は短めなのを二つ投稿予定です。
――――ここは、どこだろうか
気付けば男は、暗い暗い、光も差さないような水の底に沈んでいた。
泥濘に手も、足も取られて、藻掻く事すら叶わないように思えた。
――――自分は、何をしていたのだろう
思い出せない、否――――体が、記憶を思い出すなと抑え付けているようだ。無理に思い出そうとすれば、思考にノイズが掛かったようにその部分だけが不鮮明になってしまう。
ただ、自分は何か途轍もない罪を犯して、それを誰かに裁いて貰った気がする。
男の脳裏に一瞬可憐な白皙の少女の姿が浮かび、直ぐに記憶の波に攫われて消えて行った。
そこからは覚えの無い罪悪感と、義憤が湧いて出てくる。
膿んだ傷口から滴る苦痛の味が、舌を、鼻を通して脳全体に広がり、負の感情に苛まれる。
今は自分が何処の誰かよりも、自分が一体何をしてしまったのかの方が男には重要であった。だがしかし、その答えは蓋を閉じられた箱の中にある。
黒い瘴気と狂気に縁どられた、パンドラの箱だ。これのせいで、自分の中の何かが狂ってしまった気がしてならなかった。
故に開けれる筈も無い。
開ける勇気も無い。
なら思い出さなくていい。
「――――ぁ――」
目を開けているのか、閉じているのかも分からない漆黒の帳が降りた空間の中、ふと何かの音が響いた。
男が耳を澄ませて聞いてみれば、再びそれは聞こえる。
何度も、何度も繰り返されるその音は、声のようだった。
「――だ――ぃ――――」
不明瞭で、酷くノイズがかった声だ。
一体何を言っているのかは分からないが、男が返事をしようと口を開く。
しかし、こちらから声を発する事は出来ない。
パクパクとただ口を開閉するだけで、意味の無い音を発する事すらも不可能だった。
「お――に―――ぃ――――――」
だが、その直後。
――――え?
体が浮上する感覚に襲われ、急激に意識が覚醒へと誘われる。
泥濘から抜け出すと、海面から差す一条の光が体を暖かく照らし出した。
もうすぐ、もうすぐ息が出来る――――
「――――がはっ!?」
「お兄ちゃん!? おーい!?」
「……は」
ようやく息は吸えた、意識も曖昧な物からしっかりしたものへ変わった。
視界に入った蒼天と日の光が随分と久しぶりのように感じられる。
「よかった、目を覚ました! お兄ちゃんそこで倒れてて、ずっと目を覚まさないから死んだのかと思っちゃった」
「おにい……? ぼ、僕のことか?」
男が上体を起こし、横を見るとそこには水色の髪と目をした少女が座っていた。
手には水に濡らした布を持っており、どうやら男を看病していたのは彼女のようだ。
「お姉ちゃんは? 金髪のお兄ちゃん、ほーじょーていに行ったんでしょ?」
「金髪……?」
「だって、お兄ちゃんの道案内をしたのは、お姉ちゃんで……あれからずっとお姉ちゃん、こっちに来ないから」
「道案内……お姉ちゃん……? 一体何を……と言うか――――」
だがしかし、男には今の状況は全く理解できない。
その理知的な碧い瞳を苦悶に歪め、形のいい唇を噛んで血が滴る。
それも無理は無いだろう。
何せ、
「ぼ、僕は誰だ……? ここは、何処……なんだ?」
ここに至るまでの経緯も、自分が一体何者なのかも、全ての記憶を失った"今の彼"には何も分からないのだから。
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