32.見知らぬ天井
「ッ……ハァッ……ハァ……ァッ」
目を覚ました時、真っ先に視界に映ったのは白い天井。
天窓からは優しい日差しが差し込み、秋特有の涼やかな風がカーテンを揺らしている。
「ここは……?」
そんな穏やかな空間の中で何故か自分が凄まじく荒い呼吸をしている事と、どこかの家のベッドに寝かされている事に気付いたのは、あれが全て夢だったと理解してからだった。
自分と同じ姿をした何者か。
怨嗟の言葉を吐くエイジス。
最後には地獄へ落ちろと、言われた気がする。
余りにもリアル過ぎて、まだ直ぐ近くにあの二人がいるのではないかと思ってしまう。
俺は少し怯えながらもベッドから降り、部屋の入口へと歩いていく。
取り合えず、ここが何処なのか、イミアは何処へ行ったのかを確認したい。
あと、誰でもいいから生きている人間と触れ合いたかった。
ギィ、とドアの軋む音と共に、廊下へ出る。
ここは何処かの家の二階らしい。
立地的に光があまり入らないのか、一階へ続く階段もなんだか不気味な薄暗さがあった。
床は軋むが、それでもなるべく音を立てずに一歩一歩階段を降りて行く。
今にでも暗闇の中から、瞳の無い自分の顔や、エイジスの姿が現れるのではないかと気が気では無かった。そんな考えも杞憂に終わり一階へ辿り着くと、正面から誰かが歩いて来た。まだ光に目が慣れていないのか、薄ぼんやりとしか見えない。
無意識のうちに心臓の鼓動が早くなる。
あの悪夢が甦り、その場でジッと息を潜めてその人物が歩いてくるのをただ待つ。
『もし、これも夢なら走って逃げよう』なんて考えつつ、徐々にその人物の輪郭がはっきりとして来た。
向こうも此方を見つけたのか、一度足を止める。
そして、今度は早足で駆け寄って来た。
俺の方はもう正直恐ろしくてたまらない。
だが、
「おお、目が覚めたか」
ようやく完全にその姿が見えると、ホッと胸を撫で下ろす。
「ブレッタさん」
「その様子だと、もう元気そうで何よりだ」
以前、炎竜討伐の際に俺が助けた衛兵のブレッタだった。
しかし何故俺がブレッタの家にいるんだ?
「あのジンと言う人相の悪い冒険者が君を担いで私のところまでやって来てね、酷く衰弱していたから何事かと思ったよ」
「ジンが……?」
これはまた、意外な人物に助けられたものだな。
ジンも流石にそこまで腐り切った人間ではなかったらしい。
後で礼を言わないといけないか、過去に一悶着あったとはいえ恩は恩だ。
「取り敢えず此方へ来たまえ」
ブレッタに促され、一階のリビングへと向かう。
この時代の一般的な、質素で物珍しさも無い部屋だ。
そんな部屋の奥から、恰幅のいい女性が姿を現わした。
「私の家内のマサリアだ」
「……どうも」
「おやま、目を覚ましたかい! 良かったねぇ」
ブレッタの奥さんと紹介された女性は、ニコニコと人好きのする笑顔を浮かべてそう言う。
「どうだい、三日も寝込んでいたんだ、お腹ペコペコだろう? 今何か作るからねぇ」
「三日……そんなに寝てたのか……」
俺の呟きを聞いて、マサリアは鷹揚と笑って台所へ向かった。
余り食欲はないが、折角の厚意を無下には出来ない。既に奥へ引っ込んでしまったマサリアに代わり、ブレッタへ了承の意味を込めて頷く。
マサリアが料理の支度をしている間俺は椅子に座って、ただ呆けたように机の木目をジッと見つめる。
なんだか、心と体が離れてしまったようだ。
大事な物が抜け落ちて、その分を埋めようのない空虚な感情だけが延々と流れ続けている。
俺にとってエイジスは、存在の証明だった。
エイジス"の"弟子であるルフレ。
何もない俺を俺たらしめるのは、それだけ。
だが、それも失ってしまった。
俺は何者で、何の為に生きているのだろう。
もう、師匠のいない世界で生きる事に意味はあるのか?
ふと、燭台に反射した自分の顔を見てみれば、虚ろな目をした、痩せぎすの少女の顔が映った。
最早懐かしい、みすぼらしい浮浪児の顔だ。
そう言えば、三日も食事を抜いたのは半年以上ぶりだっけ。
すっかり一日三食が当たり前になって、忘れていた。
そうか、これからは自分で稼いで生きて行かなきゃいけないのか。
「……何があったか気にならない訳じゃないが、敢えて私は聞かないでおこう」
向かいに座るブレッタは、そう言って瞑目する。
「それをすべきは、君のもっと信頼する人物が適任だろうしな」
「……」
「私にできるのは君が休める場所を提供する位だ。恩返しという訳ではないが、せめて身体だけは壊さないようにして欲しい」
「……十分だよ、ありがとう」
ブレッタは優しい。
俺が現実と向き合うにはまだ時間が足りないというのを、何も言わずに分かってくれている。
この三日間、俺が知らない間に状況はどうなっているかは分からない。
だが、街はきっと豊穣亭の惨状や、キメラの死体で騒然としている筈。
ブレッタだってその情報を耳にしていない訳がない。
その上で何も聞かずこうして黙って家に置いてくれる。
命を助けたとはいえ、彼はこの国の人間としては優しすぎるのだ。
「ほうら出来たよ、たんとお食べ!」
俺が自分の世界へ沈んでいると快活な声が上から聞こえ、香ばしい香りが鼻腔を擽った。
マサリアがテーブルへ置いたのは、野菜と肉が沢山入ったシチューと焼きたてのパンに、この辺りじゃ貴重な梨に似た果物。
三日ぶりの食事を前に、俺の意思とは無関係に唾液が分泌される。
胃が食物を求めてキュウキュウと鳴り、今すぐにでもシチューの入った椀にかぶりつきたい。
「……いただきます」
逸る心を抑え、木製のスプーンでシチューを掬い、一口含む。
優しい甘みが口の中に広がり、冷え切った体に熱が戻ってくる感じがする。
俺はそのままもう一口、もう一口と夢中で食べ続けた。
途中からはもう二人の目など気にせず、ガツガツと貪るようにシチューを飲み干し、パンに齧りつく。
「あぐっ……はふっ、んぐっ……」
「ははは、そんな慌てなくても誰も取らないさ」
気付けば、俺は泣いていた。
みっともないと思いつつも、久しぶりの温かい食事と、大切な人を失った悲しみと、ブレッタ夫妻の優しさがない交ぜになって溢れ出してしまう。
これからどうすればいいのか。
一人で生きていける力はあるのに、分からない。
誰かに言われないと、何も出来ない気がする。
道に迷い、知らない街並みが眼前に広がったまま太陽がどんどん傾いていくような心細さだ。
「……そうだ、君の連れの女の子がいたろう?」
「イミア……?」
「そうそう、イミアくん。彼女が今、豊穣亭にいるらしいからそれを食べたら君も行くといい」
いや……イミア、そうだイミアだ。俺にはまだ、イミアがいた。曇天を晴らすようなその一言に、俺は何度も頷く。
まだ、一人じゃない。
たったそれだけで、俺の心に生きる活力が湧いて来た。
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