26.嫌な予感
豊穣亭の扉を前に、息の上がった俺の呼吸音と、後ろで酸素不足に喘ぐジンのゼーゼーと言う声だけが空気を震わせていた。
取り敢えず、店の外観に不審なところは無かった。
破壊された形跡や、奴らが隠れている気配も今のところは無い。
両開きの押戸へ手をかけ、呼吸を整える。
ここまで走って来たせいか、やけに耳の後ろが熱い。
「おい、敵の待ち伏せとかないんだろうな!?」
「……分からない。けど中を確認しないと、シェリーの事もある」
俺とジン以外、この街の人が全員消え失せてしまったのだ。
法則性は不明だが、シェリーが消えたのか生きているのか、確認する必要がある。
「じゃあ、行くぞ」
俺はそう言って、扉の片方だけを小さく押した。
年季の入った扉が軋んだ金切り声を上げ、部屋の中へ徐々に光が差す。
半分程開けた所で、店内に明かりが灯っていない事に気付き、俺はじっくりと目を凝らした。
「誰もいない……のか?」
そう小さく呟き、店が見渡せる程度には外からの光を部屋へ取り込む。
一見するといつもの店内のように見える。
見えるが……そこには異分子ともいえる存在が一つ。
――――店の中で、いつもエイジスの座る指定席に腰かけ、気障ったらしい笑みを浮かべる金髪碧眼の男が座っていた。
「お前は……あの時の」
「これはこれは、案外早い再会になったようですね」
どうして裏街で会ったあの男がここにいるのか。
いや、俺が呼んだことは確かなのだが……。
この状況で、この空間に奴が存在する事に酷く違和感を覚える。
「……おい、誰だよアイツ」
「……裏街でちょっとな、ただ……」
その男の手は何かの汚れで真っ赤に染まり、礼服にも似た装束にも斑点が出来ていた。
「その汚れ、どうしたんだ?」
「ああ、これはですね……少々私の仕事を邪魔する輩がいまして、致し方なく手を汚したまでですよ」
男の言葉に、俺が最初に思い浮かべたのはキメラ。
彼も襲われて迎撃し、そこで付いた血だと思ったのだ。
それ故に、一瞬他の可能性を隅に追いやってしまった。
「あんたも襲われた口か、ならここも多分危ないし、何処か安全な場所……へ……ひ、なん……を?」
男の近くへ行こうと、薄明りの中で一歩足を前に踏み出す。
だが、何か柔らかい物が脛に当たり、動きを止めて俺は下を見た。
その瞬間、視界に飛び込んで来た光景に全身から冷や汗が噴き出す。
数秒経ってから、言い表しようの無い激しい感情が胃の底から沸き上がって来た。
「……ッ、こ……これ……どうして、し、シェリー……?」
「おい、大丈夫かよ!?」
足元にあったのは、恐怖に目を見開き、口の端から血を流したシェリーだった。
腹部の辺りは赤黒く染まり、剥き出しになった内臓が辺りに飛び散っている。
どう見たってもう息は無い、死んでいるのだ。
シェリーが、死んでいる。
「お、おま、お前、これはどういう事だ……おい、答えろ……おい!」
「どういう事も何も無いですよ、現状の認識が出来ていないようですね」
体は震え、恐怖と怒りでどうにかなってしまいそうだった。
なんとか呂律の回らない舌で男へそう問い詰めるも、呆けたような返答が返って来るのみ。
「ここまでわかりやすく言わないと分からないとは……なんと怠惰な事か……。因みに、彼女は私の業務の邪魔をしたので、消したまでです」
消した?
仕事の邪魔をしたから?
「ああ、そうでした。私としたことが自己紹介を忘れるとは」
「は?」
「私はアース教会最高司祭が一人、七聖人バエル・ペルオール。以後お見知りおきを」
「アース教、だと?」
七聖人なんて肩書は知らないが、アース教という単語は聞き捨てならない。
イミアを異端認定し、国から追い出したあの聖国の宗教。
それがどうして、シェリーを殺す事になるんだ。
仕事の邪魔しただけでどうして殺されなくちゃならない。
もう、訳が分からない。
「目的はなんだ、お前の仕事って……何なんだよっ!」
激昂し、叫んだ俺の問いを受け、バエルはニコニコと微笑んだまま鷹揚に頷く。
「いいでしょう、貴女も無関係ではないようですし、教えて差し上げましょう」
そう言って、バエルが立ち上がり、両手を掲げて見せる。
まるで演劇のような大仰な仕草だ。
「私の仕事、それは――――元聖女であるイミア・クレイエラの抹殺です」
「なんだと……?」
「どうです? 神から授かった私の大義、大役、勤勉な私にこそ相応しいこの大仕事! そのための犠牲なれば、私も心が痛まない訳ではありませんが、致し方ない事なのです。ええ、本当に、全くもって、命とは尊ぶものであり、いたずらに摘み取るものではありません。それでも尚、神の下した命とあれば、人の命を奪うのもまた道理。それにそこの女は怠惰にも私の業務の邪魔をしたのです、人が一生懸命に何かに取り組んでいるのを邪魔するのは、常識的に考えてもあり得ない事ですよね? ええ、そうです、全くもって我が全知全能の主神もきっとそう言うでしょう、勤勉な信徒たる私が言うのだから間違いはありません。一般常識すら持ち合わせていない怠惰な人間は、神に愛される資格も無い。一体親兄弟から何を学んで育ってきたのか心底聞きたい。私は己の価値観で全てを測ろうなんて驕った考えを他者に押し付けようなどとは思いませんが、世間一般で言う普通という概念に照らし合わせればそれくらい分かる筈では?」
口の端に唾を溜め、狂ったように早口で捲し立てる姿は狂気。
話している内容もだが、そう形容するしか他にない。
この一瞬で分かった、俺と奴は絶対に相容れない存在だ。
「……もういい、喋るな」
「教えろと言っておきながら喋るなとは、貴方たちのような下民はこれだから困る。誰にだって己の考えを口にする権利があり、それを剥奪する事が出来ない事くらい分からないのですか? 幼い子供じゃあるまいし、物事の分別ぐらい付けてくださいよ。それともあなたは意図してそんな事を口走ったのですか? 悪い癖ですね。まあ、ここは年功序列で上の私が目を瞑ってもよいですが、この先もその悪癖が治らないのであれば成人して一人立ちした時に他者からどんな目で見られるかくらい、分かりますよね? いいですか、これはあなたの為を想って言っているのです、まだ出会って時間も浅いですが、常日頃から私は人に優しくあれと心掛けて生きている故の行為なのです」
「黙れ、知ったような口を聞くなよ……!」
まるで正論のように語っているが、奴の言葉は薄っぺら。
全て軽薄で、どこまでも独り善がりに聞こえる。
きっと、何があっても耳を貸してはいけないんだと思う。
こいつの常識には、俺の思う常識は通用しない。
前言撤回する、こいつは最低のゴミクズだ、話して分かった。
ただ言葉を交わしているだけでも反吐が出る。
「…………お前もう、死ねよ」
まるで実の姉のように俺の事を慕ってくれたシェリー。
行き場の無い俺を、優しく迎え入れてくれたシェリー。
彼女が殺される謂れは無い筈だった。
「……シェリーが受けた痛みを、お前も受けろ」
刀を抜き放ち、殺意のままにバエルへ斬りかかる。
今の一撃で店のカウンターが粉々に砕けるが、手ごたえは無い。
「変な事を言う人ですね。痛みとは、他者から与えられるものじゃなく、自らが感じるものです」
背後から聞こえる声に俺は振り向く事もせずに、足元からバエルを貫くように氷の槍を幾つも生み出した。
「氷、ですか。面白い魔法を使うんですね、冷たくて不快だ」
「……どういう原理だよ」
氷槍は確かにバエルを貫いている。
だと言うのにその身体からは血も流れず、先程と同じ調子で喋り続けていた。
ズル、と氷槍を腹部から引き抜くのは軽くホラーだ。
どうやらコイツ、普通の人間じゃないらしい。
「なら、これならどうだ!」
そのまま足元の氷を通して、俺の全身から紫色の電光が迸る。
「――ッ」
魔素で生成した氷は何故か多量のイオンを含んでいる。
その伝導率の高い氷を使った、確実に紫電を当てるオリジナル魔法――――
「"氷渦御雷"!」
「がっ……あ……雷、古代魔法……!?」
温度にして約5000℃の一撃を受け、バエルはビクビクと痙攣を繰り返す。
「これは……痛みを感じないとはいえ、痺れる一撃だ」
全身から煙を上げながら、バエルはまだその口を閉じない。
痛みを感じないとはどういうことか分からないが、不死身だとでもいうのか?
「ええ、これで分かりました……あなたも、私の業務の邪魔をすると言うのですね」
「イミアは殺させない、シェリーの仇も取る。お前は……俺が殺す」
もう、決めた。
この男は俺の手で殺さなければならない。
俺の安寧を、大切なものを奪ったバエルを地獄に落とす。
「では、いいでしょう。貴方もすぐにそこの女性のように命を摘み取ってあげますよ」
そう言って、バエルは大仰に手を広げた。
直後、視界外へ飛んだ奴は側面から俺の頭を掴もうと手を伸ばす。
「"柳月"」
手をすり抜けるように刀を滑らせ、すれ違う。
斬った手応えは無かったが、奴の攻撃も同時にいなせた。
「忌々しき剣の悪魔の技も使うとは、貴方……異教徒でしたか」
「うるせえ、俺の実家は仏教だよ」
奴らの言う剣の悪魔とは、剣神アグニの事か。
アース以外の神と呼ばれる存在を認めない奴ららしい呼び方だ。
信徒がこれなら、その神とやらもどうせ碌なもんじゃないな。
「まあ、どちらでもよい。その腐った悪魔の教え諸共、私が叩き潰して差し上げましょう」
その言葉の最後に、バエルが一歩踏み込んだ。
俺は身構え、先程のように柳月を使おうとしたのだが――――
「――ッ!」
《識見深謀》によって、バエルが俺の内臓を引き抜くビジョンが見えた。
己のスキルを信じ、慌てて大きく一歩飛び退いた俺をバエルは驚いたように見る。
「ほう、避ける判断をするとは、中々に場慣れしている様子」
「刀身を素手で掴んだ上でごり押しとか……いや、腹に穴が開いてる時点で何らおかしくは無いか」
ポッカリと空いた腹部の穴を見て、俺はそう溢した。
血も出ず、痛みも感じないが、傷は治る訳ではないらしい。
死の概念があるかどうかは……怪しい、首を切り落としても死ななそうだ。
なら、奴の体をバラバラにしてしまえばいいのでは?
「……やってみる価値はある」
そう言って俺はチラ、と後ろを向く。
そこには、呆然と俺達の戦闘を見るジンが。
「おい、ジン。手を貸せ、俺達でアイツを倒すぞ」
「…………お、おう!? 俺か!?」
猫の手、ならぬ噛ませ犬の手だがこの状況だ、無いよりは100倍マシだろう。
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