195.第三の試練
ベアトリクスとの出会いから暫く、彼女の溢れんばかりの母性を満たす為に暫く甘やかされていたわけだが、ここは試練の場だ。
優しい時間は終わりを告げ、現実と向き合う時間がやってくる。
「――――ね、とっても偉ーいあなたは、まだ頑張れる子かしら」
「……ん」
それを知らせるようにベアが囁き、私の髪を優しく梳った。
「もし、どうしようもなく辛いのなら、ここで試練を終わりにすることだって出来るわ。貴女が背負う責任なんて、本当は何一つとして無いもの」
「……そうかな」
頭を預けている胸元がゆっくりと上下するのに合わせ、私は深く息をする。魂だけの存在だというのに、ちゃんと彼女の鼓動を感じる。
「ええそうよ。この先に待っているのは、今までよりも、ずっと辛い事かもしれない。それでも貴女はまだ続ける? 逃げないで現実と向き合える? 出来ないのなら、無理に向き合う必要はないのよ。逃げたっていい」
「……ううん、向き合う。私は、向き合わなきゃいけないから。もう、逃げたって良いことが無いのくらい分かってるんだ。だからさ、約束くらいは守るよ。試練はちゃんとやり遂げる」
「それは、誰との約束かしら?」
「ハル……いや、私自身かな。きっと試練は私にとって、何か意味のある物だと思うんだ。今は意味が分からなくても、最奥まで行かなきゃいけない気がする。ベア……ベアがそれを望むなら、頑張りたいしさ。先祖を大事にするのは、私のポリシーなんだ」
「そ……う、そうなのね。貴女は逃げないのね、分かったわ」
ベアは一度言葉を詰まらせてそう言うと、私の背に回していた腕を解いて離れる。
心做しか泣きそうな表情を浮かべ、少しの間こちらを見つめていたかと思えば、彼女の背後にある……いや、部屋にある全ての物が急激に風化し始めた。
なれど、唯一白木の安楽椅子だけは、そのままの姿を保って小刻みに揺れている。そして、その椅子にはベアと同じ服を着た白骨の遺体が座り、項垂れていた。
「これがこの部屋、嘗て禁書庫と呼ばれた私の仕事場の本当の姿よ。あなたたちが来るから、出来れば綺麗にしておきたかったの。騙すような真似をして、ごめんなさいね」
「ベア……」
「ベアトリクスさん……」
改めて彼女を見れば膝から下が靄のようになっており、指先も若干透けている。本当に彼女は幽霊で、この迷宮に魂を縛られた存在なのだ。
「第三の試練は『決意の確認』、あなたたちがどれ程の決意を持ってこの場にいるかを私が試します」
そこで私は、席に座る前にベアが『試練を始める』と言っていたことを思い出した。
「お話した結果、貴女の言葉に嘘偽りが無いのは分かりました。けど、実際に死の恐怖、痛み、絶望へと直面した時どうなるかは分からない。だから、今からそれを……味わって貰うわ」
「味わう……?」
その言葉を皮切りに彼女の雰囲気が変わった。
幽体から溢れ出る悍ましい程の昏い魔力が濃密な瘴気として渦を巻き、仄かに光を放っていた天井の光源が明滅を始める。
「――――この私 魔王軍最高幹部が一人 《白幽》のベアトリクスは 死霊の魂魄を力に換える 目に見えぬ怨嗟の苦悶を味わって尚 前に進むなんて言える元気があるかしら……!?」
それは、私がこの世界に来て初めて出会った死霊使い、そして世界最強を担う一角との戦いだった。
***
異世界転生者、ゴブリンのラゼルは考える。
何故こんなところにいるのか、ここは一体どこなのだと。
確か、最近知り合った同郷の仲間の誘いで旧魔王城に行く事になったまでは覚えている。そんな場所滅多にお目にかかれないと、二つ返事で了承したのも。
それからは――――この世界の言語で話される為――――会話が半分程聞き取れなかった為、何か予定外の事態に陥った事くらいしか分からない。地下の行き止まりで地面が発光したと思ったら、次の瞬間にはこの場にいたのだ。
胡座を掻いて座っている地面は人工的に整えられた石造りで、壁も天井も似たような材質の物で出来ている。部屋の前方には道があり、中央には何かの台座が存在した。
台座には長細い棒状の物――――剣が突き刺さり、部屋の内装と相まって何か儀式を執り行う祭壇めいた雰囲気を醸し出している。
そして幸いにして彼は異世界の知識で、こういう場所が何であるかを知っていた。
「ダンジョンだ、本物だ、っべーわ」
そう呟き、眼前に鎮座する台座へと突き刺さった剣を見つめる。
柄から刀身までに如何にもな装飾の施されたそれは、抜けば勇者になれるか、道具として使うといてつくような波動で相手の強化効果を全て無効化出来そうな外見をしていた。
「これはⅣか? いや、Ⅴ、大穴でカードゲームの方って説もあるな……。というか、いてつくはどうは五だっけ?」
そんな益体のない考えを口にしながらも立ち上がると、ラゼルは剣へと近づいていく。
が、
「ぎゃっ?!」
唐突に襟首を掴まれて後ろへと体が引っ張られる。
「すわ、敵襲か!?」と彼の服を掴む手の先へ目をやると、そこに居たのは撫子色の髪をした少女。あの異世界人で半魔のルフレが契約している魔女、メイビスだった。
「いきなりなにすんだよ、痛いじゃん……」
「……あれ、なんか怪しい」
「怪しい?」
時を同じくして同じ場所へ飛ばされて暫く。ラゼルが目覚めたのはつい先程だが、メイビスは実時間にして既に半日以上この場所に留まり続けている。それを知ってか知らずか、彼は忠告通り大人しく台座から距離をとった。
「つーかよ、なんでよりによってお前なんだ……」
「それはこっちの台詞。ゴブリンと戯れる趣味はない」
単語なら多少覚えてきたところなので、言葉を短く切るメイビスの言わんとする事はなんとなくラゼルへと伝わる。が、接点も関心もない二人としては、コミュニケーションが出来たとて余り喜ばしくは思えなかった。
ラゼルとしては、この世界に四百年近く生き続ける存在として一目置いてはいるものの、個人的な評価としてはいけ好かない相手。メイビスから見れば喋る珍しいゴブリンというだけで、特に親しい関係になる必要も無い。
「私はお前が起きるのを態々待ってた。それだけでも感謝しなさい」
「待ってた……感謝? それでなんで俺が感謝しなきゃいけないんだよ、待ってろなんて言った覚え無いし」
「ゴブリン風情が、口答えをするな」
「あーっ! 今のなんとなくだけど、馬鹿にしてるの分かったぞてめぇ!」
恐らくこの場において、最も相性の悪い二人と言えるだろう。
「……ふん、所詮はゴブリン。非常に低能」
「ウギィッ!!!」
メイビスはラゼルが癇癪を起こして跳ね回るのを見て、嘲るように鼻を鳴らした。その態度に増々沸騰し、ゴブリンよろしく地団駄を踏んで知性の感じられない奇声を発する。
「……こんなのに構っているのが馬鹿らしい。早くルフレと合流しないと」
「あ、おいちょっと待てよ! 今なんて言ったんだ!? 置いてくなって!」
しかして、魔女は呆れた顔でラゼルを一瞥すると、奥へと続く道へ歩き始める。彼女を追って二人共が部屋を後にし、台座へと刺さった"即死級の罠"は起動すること無くその役目を終えた―――――
と、
「あれ、やっぱ抜いとけば良かったなぁ……絶対勇者の剣だったって……」
「囀るな、黙って歩け」
「あ゛ぁ゛!?」
そんな事も露知らず、気の合わない二人組は真っ直ぐに通路を進んでいく。
通路には魔物の気配もなく分岐路も無い為、ただ舗装された道を歩くだけの時間が続いた。しかも、先程言った通り、二人は絶望的に話が合わないので終始無言のまま……。
「……」
「……」
ラゼルとしては別に何かを話したい訳ではなかったが、こうも沈黙が続くと流石に気分が良くない。それを誤魔化すように周囲を見回せば、景色の変化があった事に気付く。
いつの間にか足元は石造りから絨毯の敷き詰められた物に変わり、通路の雰囲気も単なるトンネルのような物から城の廊下のような物へと変化していた。
ラゼルは時折置いて行かれない程度に立ち止まっては、城の廊下のような豪奢な壁紙や真鍮の縁取りを眺めたり、此処では珍しい魔法で明かりを灯すランプを見上げて一人感心している。というのも、なにせ転生してから凡そ半年もの間この世界の文化に触れる機会が無かったので、目に映る物全てが新鮮なのだ。
「見れば見る程人工的っつーか、本当にどこだか分かんないな。もしかして人ん家の地下通路だったりしないか……? 不法侵入で捕まるとか嫌だぞ……」
そう独り言ち、揺らめく頭上の灯りを見上げて溜息を吐く。
相変わらず前を歩く魔女はそんな事には微塵も興味を持たず、ただ前へ前へと進んでいる。非常にいけ好かないとは言え、ラゼルにはあれが何か根拠を持って歩いているのは分かっていた。
「……これは、ルフレの魔力」
その証拠にメイビスは時折足を止め、見えない何かを手繰るように宙へ手を伸ばしている。
恐らく、このまま彼女に付いて歩けば外に出られるか、はぐれた仲間たちと合流は出来るだろう。ここが何処であろうとも、魔女にかかれば転移で抜けられるのだ……と、そこまで考えてからラゼルは訝しんだ。
「アイツ、転移魔法なんてあるのに何でわざわざ歩いてんだ……?」
今のラゼルの知る由は無いが、メイビスはこの空間において転移系の術式を全て封じられていた。魔王の作り出した場である以上、それを下回る彼女の力では抗いようも無い。本人もそれを理解しているから、連れに馬鹿にされたくないが為、何も言わずに歩いているのだ。
「……近い、この先」
「お、案外早かったな」
それから十分と少し、メイビスが道の先に何かを見つけた。
先程よりも数段高い声色は彼女が親しい者に向ける物であり、付き合いの短いラゼルにもルフレたちを見つけたのだとすぐに分かった。
若干早足になるメイビスのやや後ろを徐に付いていけば、廊下の終点とそこから続く広間が視界に入る。扉は無く、その先も普通の部屋とは違う構造をしている。有り体に言えば、聖堂のような柱だけが上へと伸びる吹き抜けの空間だった。
そして、その部屋の奥に佇む一人の影が。
彩度の無い外套と仮面を着けており、冒険者として活動するルフレが愛用している物とよく似ている。それを見て安心したラゼルもこれで漸く合流出来る、と駆け足でメイビスの後を追った。
しかし、
「……どうした?」
肝心の彼女が、部屋に入って数歩歩いた所で足を止めてしまう。
何があったのかと尋ねても返事は無く、眉を顰めるしかない。
「……おい」
ややもしてラゼルがメイビスの横へと並び、正面を見据えれば……何故ここで立ち止まったのかが分かった。
「お前は、一体誰?」
横目に魔女の顔を見れば、澄ました表情は消え失せて汗が滲んでいた。目は見開かれ、唇は何か言葉を紡ごうと閉じたり開いたりと、動揺している事がありありと伝わって来る。
そもそもメイビスはルフレの魔力を辿って道を進んでいた筈だった――――
「僕? 僕はね、最後の試練。モブで弱ーい君たちを倒しちゃう、ラスボスだよ」
――――と言うのに今、ラゼルと彼女の目の前にいるのは全くの別人。薄汚れた黒い外套に、騎士面のような物で顔を隠した長駆の男だ。あの小柄な竜人とは似ても似つかない。
「嘘、私はルフレの魔力を追ってきた筈……お前、私に何をした?」
「何もしてないよ。メイビス、お前が勝手に間違えたんだろう」
「……何故私の名前を知ってる」
「おっと、そう言えば今回、僕らは初対面だったっけ? いやぁ失敬失敬……とは言え、きみの名前は界隈じゃ有名だから、教えられずとも知っているさ。蜜蜂の薬師、その一族の名はね」
「……そういう事、お前も旧き種族か」
ラゼルには話が全くもって理解出来ていなかった。
文法的に長々とした会話が聞き取れなかった事もあるし、言葉が分かっていたとしても一体何の話をしているのかが見えない。この場においてゴブリンの少年は、完全に蚊帳の外だった。
「それで、そっちのゴブリンはえっと……誰かな? ていうか言葉分かる? あーゆーすぴーくひゅーまんらんげーじ?」
そう尋ねられても、そもそも意味が分かっていないのだから答えようもない。謎の男は大げさな身振りで会話を試みようとするが、ラゼルからすれば奇妙な動きで声を発する不気味な輩にしか見えなかった。
大仰に腕を振る度にその先で握った錫杖が特徴的な金属音を奏で、ラゼルの目は段々と剣呑に尖っていく。それは魔物としての本能が、男の軽薄な態度とは裏腹な戦意を感じ取っていたからこそだろう。
「おいおい、そんなコミカルな仕草して、戦う気満々じゃねえか」
「あー……あー! 成程、こっちね! そう、僕らは今から戦うの、OK?」
そして男がこの転生者にも伝わる言語――――日本語を口にした瞬間、ラゼルの警戒は完全に敵対へと変化した。
「……おい魔女」
「何?」
「コイツ、お前と、ぶっ殺す。分かったか?」
「……お前に言われなくてもそのつもりだった」
「おっほ! おっかないねぇ」
かくして――――ルフレが祖先の亡霊と対峙したのと時を同じくして――――相容れない二人と正体不明との戦いの火蓋が、密かに斬って落とされる事となった。




