189.第二の試練.EX
強くなりたい、ただそれだけが今のジンの望みだった。
「オォォォォオオッッ!!」
「ギシャアァ!!」
硬化した拳が溶岩の皮膚に打ちつけられ、腹の底に響くような衝撃と共に火花が散る。もう何度目になるかも分からないそのぶつかり合いに、眼前で後退る山椒魚型の魔物も飽きたと言わんばかりの視線を向けていた。
半日以上も戦って休んでを繰り返し続けている為、どれだけ打ち込んだとて無駄であることは理解している。
それでも、戦い続ける事に意味があった。
♢
ジンの生涯で武術と呼べる物を習ったのは、父から少し。遥か東の大陸から渡って来たという先祖代々の拳法であり、キリシア大陸では珍しい黒髪もその血の名残である。
当時は弱冠五歳の少年故に教わった事はたった一つだが、彼の父はそれが全てに通じると言っていた。一介の行商の護身術、と過去には馬鹿にしていた時期もある。それでも今なら――――使える物は全て使い――――遍く全てを己の力にしたいと考えていたジンにとって、猫の手にも等しい力であった。
「やっぱ、普通に殴ったんじゃ埒が明かねぇ……」
幾重にも傷の走った己の外殻を睨み、独り言ち。突進してくる魔物を受け止める為に、より一層全身に力を籠め、その下顎を抱えて投げ飛ばす。
……そもそもジン自体、冒険者としての歴に対して戦闘力は然程高くはない。
生まれつきの怪力と打たれ強さだけが取り柄で、剣や武器全般の扱いは素人に毛が生えた程度。魔法も禄に扱えない、腕っぷしだけの男と言えるだろう。ただ、それ故に人の身でありながら半魔のルフレに殴られて無事であったし、あの地獄のような環境で五年も耐え抜くことが出来たのだが。
「らぁッ!」
そんな、技巧も何もない右の大振りが魔物のこめかみを捉えるが、衝撃で巨体が地面を滑るだけで相手にダメージは無い。
並の生物ならば骨ごと拉げて死ぬだろう一撃も、目の前の敵は痛痒にすら感じていないのだろう。思考は恐ろしい程落ち着いていると言うのに、その事実に精神が高揚していくのを感じる。
強くなりたい、その一つの願いが闘争を望んでいた。
もういっそこのまま永遠に戦い続けていたいと、そう思える程に心地が良かった。自分の居場所を見つけたようで、安心感すら覚える。
「はははははッ! いいぞ、もっと、もっとだ!」
互いに回避すらしないノーガードの殴り合いに、生を実感して止まない。何か……何か新しい場所に手が届きそうで、ジンは難しい事を考えるのを止めた。
自分が負ければ後ろにいる四人も死ぬ。その事実を理解していながらも、全く意識はしない。息をすることに意識を割く人間がいないように、守るべきは当たり前だと思考から追いやっていた。
「……もっと、鋭く、鋭利に!」
思い切り後ろへ引き絞った右腕が軋みを上げ、破砕の一撃を山椒魚の眉間に放つ。まるで大砲を撃ったような轟音が響き、その巨体は宙を舞って壁に叩きつけられた。
「まだまだ足りねぇぞッ!」
それと同時に走り出していたジンは起き上がる途中の顔面へと鉄山靠を見舞い、次いで上顎を何度も殴りつける。
「ギシャァアア!!」
相手も反撃に大口を開けて燃え盛る牙で噛みつき、ジンは寸での所でそれを躱す。
「チッ……やっぱただ殴れば良いってわけじゃねえな」
あの鱗を貫くには、闇雲に力を籠めて攻撃すれば良いわけではない。このタフガイ以上に堅牢な鎧に身を包んだ相手である以上、攻撃で上回らなければいずれ力尽きて倒れるのはジンだ。
「なら、戦い方を変えるまでだ……!」
故に、その身の在り方を変化させた。
堅牢で分厚い外骨格が削られて行き、その長駆は鋭利な姿へと変貌する。先程までが鎧であるならば、今は荒削りの刃と表現すべきか。
しかし、変化したのはその見た目だけではない。
「ガッ……!?」
対面している人間が何か変わった事に身構えていた山椒魚の背中へ衝撃が走った。それはジンの見舞った蹴りであり、先程からは考えられない速度で肉薄していた事で山椒魚はそれに気付かず、不意の一撃に初めてその身に痛みが訪れる。
その場で体を捩らせて振り落とそうとするも、既にジンは背中から離れて腹部へと潜り込んでいた。
「ゲッ……」
一撃一撃は決して重くはないが、予期せぬ場所へ食らったそれは山椒魚を狼狽させるには十分。腹部、側面、顎と立て続けに認識外から攻撃を受け、何も出来ずにただ身を縮こませるのみ。
この時、ジンの身体は鈍重な鎧を極限まで削り落とす事で軽さを得ていた。鋭い外殻は空気抵抗を無くし、魔力による身体強化はその身を防御ではなく速度に特化させている。
言わば第二の形態と言うべき新たな力。
「……今までが守鎧なら、これは攻刃の型ってところか」
目にも留まらぬ連撃が山椒魚の身体を浮かせ、鋭く荒々しい刃のような拳が堅牢な鱗を削り取って行く。最早反撃の隙すらない苛烈な攻勢に、連続した空気の破裂が閃光を生み出していた。
だが、まだ足りない。致命打となるにはあと一歩届かない。
「まだ……!」
攻刃の型は、その速度と引き換えに防御力の著しい低下と体力の消耗がある短期戦用の形態。早く勝負を決めなければまた交代に戦い続ける堂々巡りが始まるだろう。
と、
「……ッ、そうだ、あの技」
ジンはここで漸く猫の手……嘗て父より習ったたった一つの形見、その存在を思い出す。
十年以上前に馬鹿らしいと鍛錬すら止めたそれは技と呼ぶには余りに荒唐無稽なもので、単なる形だけの伝統だと思っていた。
『――――いいか、回転だ。俺の爺さんは摩擦……とかなんとか言ってたが、とにかく体内の気を拳に乗せる感覚で、それを捻じる。単にまっすぐ力をぶつけるよりも、断然威力が違うからな。これで野盗なんて一発で伸せちまうぞ!』
一度山椒魚から距離を取り、父の言葉を思い出しながら当時無理やり練習させられた構えを取る。
掌を軽く閉じた左手を前へ、右手はその少し斜め上。腰を深く落とし、やや前のめりに。
「ふぅぅ……」
肺の空気を全て吐き出し、脱力すれば先程よりも視野が広がる。力まず、程よい脱力と緊張感の均衡を保ったままいると、次第に身体へ何かが巡り始めるのを感じていた。
「丹田から、全身を巡るイメージで」
それが父の言った"気"なのかは分からないが、内に籠もる熱量だけは確かに存在する。ジンは時の流れが遅く感じられる程、怖い位に己が集中している事を実感しながら父の教えを反芻し続けた。
脱力、循環、そして集中。
「……」
凡そ数十回は同じ作業を繰り返した後、実時間にして未だ三秒も経っていない事に気付く。眼前では山椒魚が徐に、それこそ緩慢に感じられる動作で此方へ迫っていた。なれどジンの耳には音も無く、世界から色彩が消え失せ、ただ静かにその光景を見つめるのみ。
「ああ、そうか」
――――高みというのは、こういう場所を指すのか。
そうして、どこまでも穏やかで……凪いだ水面のような心が悟る。
好んで闘争に身を置きながら心を乱されたくはない。
矛盾したこの二つの欲求は、必ずしもどちらか一方を選ぶ必要は無かった。荒れ狂うような暴性を御し、純粋な力の高みを目指す事こそが至高。《堅忍之徳》とは、そういうスキルなのだと。
「朱羅流」
『――――朱羅流は、爺さんの爺さんの爺さんの爺さんがウチの源流である御盾の分家にいた時からからずーっと受け継いで来たもんだ。今じゃ教えられるのはたった一つの技だけどな、きっといつかお前を助けてくれる筈だ』
自身のルーツを辿れば、嘗て東の大陸よりこのキリシアへと渡航して来た黒き髪の一族。独特の風習と文化を持ち、空落の一族と呼ばれる流浪の民だった。
絶やすこと無く受け継がれてきたその技は、この世界の理からすると数百年も先に発見される概念が用いられている。そしてその末裔であるジンの名も、本来はその二文字とは違う意味を持つが……それを知るかどうかは未だ神のみぞ知る未来であろう。
「螺旋掌」
とうとう目と鼻の先まで迫った山椒魚の鼻頭に、ジンは両手を捻るように掌打を放った。今までの考えなしに放った一撃ではなく、確かな歴史と技巧を帯びた一撃だ。そして、その程度で膨大な体積による突進は止まるわけが無いが、この技の真髄は放った後にある。
その手が鱗に触れたと同時に凄まじい勢いで空気が渦巻き――――
「ぶっ飛べ、トカゲ野郎」
――――黒閃と共にその肉体が螺旋状に捻れて吹き飛んだ。
その体と触れた箇所自体は動いていないものの、一直線に抉り抜かれた内臓や血肉だけが壁に叩きつけられている。そんな、まるでドリルで穴でも開けたかのような光景に、ジンの背後で剣を取り落とす音が響いた。
「……親父、確かに受け継いだぜ」
螺旋掌は両掌に収束した魔力を体の内部にて螺旋状に回転させ、内側から肉体を破壊する防御を無視した打撃。
どれだけ外皮が硬かろうが、内臓に直接ダメージを与えるその一撃は防ぎようが無い。ただ、今回のような肉体諸共貫く結果は想定されておらず、攻刃の型による身体強化が成し得たものである。
《堅忍之徳》を持つジンでなければこれ程までの威力が出せなかった、と言い換えるべきか。
かくして、溶岩を纏う山椒魚を倒したジンは、部屋の隅で見ていたであろう即席のパーティーメンバーの方へと向き直るが……。
「あんたーーーーッ!!」
「うぎっ!?」
魔人化を解いた瞬間に飛び蹴りが頭に直撃、そのまま犯人であるアルカに押し倒されてしまった。
「なーに『やり遂げたぜ』みたいな顔で天を仰いでるのよ! 本当は私の番で倒すつもりだったのにぃ! この馬鹿! そういう気配りとか出来ないわけ!? ほんっとあんたみたいな男って最低!」
「い、いや……倒したんだからいいだろ別に。というか今のお前じゃ一生掛かっても倒せ――――」
「うるさーい! うるさいうるさい! コツは掴んでたし、次で行ける筈だったの! あんたでも倒せたんだから、あんなの余裕だったし!」
仰向けに倒れたジンの腹部へ跨り捲し立てるアルカに、後ろから駆け寄って来る仲間も苦笑いを浮かべている。
実際、どうやっても彼女が試練を突破することは不可能だったが、口にしても意味がない事を理解してそれ以上何か言うのは止めた。力不足であることはなにより本人が一番分かっているのだろうし。それ故の負け惜しみなのだろう。
「まあ、最後のは中々凄かったと思うわよ……私には全然劣るけどね!」
「……分かったから早く退いてくれ、こっちは色々使い果たして疲れてんだ……がっ!?」
一先ずアルカを抱えて横へ降ろすと、ジンは大きな溜息を吐いた……が、それと同時に今度は後頭部に衝撃が走る。
何か硬い棒のような物で殴られたらしく『すわ、新手か!?』と背後を振り向けば、そこに立っていたのは白髪の少女だった。
「――――随分と楽しそうじゃないか、ええ?」
口元が隠れる首襟と対照的なノースリーブの服に、そこから伸びた白く細い腕には剣の鞘が握られている。そして、何故かその顔に可憐な笑みを浮かべて仁王立ち。
「る、ルフレ……!?」
見紛いようもなく、それは満身創痍の雇用主の姿だった。




