186.第二の試練
心頭滅却すれば火もまた涼し、などと誰が言い出したのか。その言葉を作った奴が目の前にいたのならば、私は多分全力で顔面を殴りつけていた。
「――――はっ……っは……」
この地獄のような熱波の責め苦が精神論でどうにかなるのなら、熱中症や日射病で死ぬ人間はいないはずだ。
下へ続く階段へと一人づつ背負って運び、背負っては運びを繰り返す事六度。
「……っ」
肩に掛かる重みを感じながら、既にほぼ意識の途絶えかけたアレックスを引き摺って漸く九層へと続く階段を目指し歩いていた。他の冒険者は運び終え、後は彼を残すだけとなったのだが……私の体力も底を尽きかけている。
並列演算のお陰で思考に曇りはないのだけが救いだろう。これで意識まで朦朧としていたなら、とっくに足を踏み外して溶岩の海へ落下していた。それと、ここに至るまでに一度たりとも魔物が出現しなかった事も幸運としか言いようがない。この状態で戦えば、幾ら私とて苦戦はした筈だ。
「悪い……な、あんたにこんな迷惑……掛けちまって」
「……全くだ、送り届けた暁にはたっぷりと謝礼金を請求するから覚えていろ」
途切れ途切れにそう言ったアレックスの身体は、この灼熱に晒されて相当酷い状態にあった。
尋常ではない熱が肌を焦がし、皮膚の薄い部分は火傷を負ったように爛れている。汗も出し切り、体温は上がる一方。このままでは脳にダメージが行って、最悪後遺症すら残るだろう。
水を飲ませてやりたいのは山々だが、大気中から水を集めて魔法を使う……といった私が何時も行っている方法が取れない。もっと湿度が高い場所ならば言わずもがな、水筒の水が蒸発してしまう程の環境では無理だ。魔素から水を生み出したとて、それで喉を潤す事も不可能。
「……あんたよ、なんで俺たちを助けたんだ?」
「喋るな、死ぬぞ」
「あんた一人なら、こんな場所でも……直ぐに抜けられた筈だろ? それを俺たちに構ったばかりに、一番しんどい思いをして……分からねえんだ」
「……」
その掠れた声が紡ぐ言葉に、私は即答出来なかった。
自分でもどうしてこんな非合理的な事をしてしまうのかは分からない。アレックスの言う通り、彼らを見捨てた方がこんな目に遭わず良かっただろうとも思っている。ただ、それでも曲げられない自分の中の芯が、それをすることを是としないのだ。
「……昔、ユーリくらいの年の時に、剣の師匠に言われた」
「ああ」
「目に見える物全てを助けようとするな。時には選択を迫られるし、優先すべきもの意外は切り捨てる覚悟を持てとな」
「……そりゃあもっともだが、ガキにゃ酷な話だ」
「だけど私は天の邪鬼だから、自分がこうすると決めたら絶対にそれを曲げない事にした」
「だから、俺たちも助けた……か。あんた馬鹿だな」
私の答えを聞いて、アレックスは苦笑を浮かべて目を伏せる。
「……勘違いするなよ、お前を今こうして背負ってるのは私が手前で決めた約束を違えない為だ。全員生きて最奥まで連れて行くと、最初にそう言ったよな」
「……ああ、分かってるよ。全員無事に、生きて……帰るんだ」
それだけ言うと彼はもう何も口にせず、脈が段々と弱々しくなっていくのだけが背中に伝わってくる。なれど、私はひたすらに足を前へと踏み出し、焦熱に身体が蝕まれて行くのを理解しながら階段を目指した。
途中からは俵を担ぐような体勢に持ち替え、歩くペースを早めた。
鉛のように重くなっていく足に鞭打ち、魔法がなければ衣服も身体も炎上していてもおかしくは無い道を踏みしめて進む。口の中はとうに乾き切って、舌が顎に張り付いて鬱陶しい。瞬きをしても目の霞みが取れず、全身の水分と言う水分が持って行かれたような感覚にさえ陥る。
こんな事なら本当にアレックスを、彼らを置いて一人で先に行けばよかった。
別にそうしても仕方の無いような状況なのだし、誰も私を責めはしないだろう。寧ろ自己責任が常の冒険者を助けている事自体が慈善、ここまでしてあげたのなら今見捨てても罰は当たらない筈だ。
並列演算の合理的な答えか、怠け者の本性が顔を出したか、どちらにせよ心に据えた信念とは裏腹の思考が湧き上がってくる。
もう十分だ、諦めてしまえ。
報われない努力は止めて、逃げ出せよ。
とうとう幻覚まで見え始めたのか、周囲に蠢く人の影がそんな言葉を囁きかけて来た。その声が全て自分のものでなければ、私は足を止めていた筈だ。これも性格の悪い試練の一環なのだろう、そう理解しながらも一度過ぎった邪念は消えない。
「……駄目だ」
もし此処でアレックスを置いて行けば、どれだけ楽になるだろうか。この苦行から逃げ出したい欲に駆られ、心が揺れる。環境に追い詰められるのは、生きた人間との殺し合いよりも余程精神が削られていく。
そんな内面の弱い部分から目を背けるように、私は歩調を速めた。
最早一刻の猶予も無い状況で、残りの体力なんて気にしている余裕も無い。何度も往復したお陰か、あとどれ程で階段にたどり着くのかが分かるだけが救いだった。雑念を振り切るように駆け出し、最後の目印である大岩を超えた辺りからはもう無我夢中で走っていた。
階段までやって来たも足を止めることなく駆け下り、漸く見えた本物の人影に声を上げる。
「ダンテ……!」
「遅かったな、死んだかと思ったぞ。やはり遺跡と同じくここは安全地帯のようだ。既に他の人間は休ませておる」
溶岩窟の九層は上階と比べてかなり気温が落ち、熱の籠もった不快な空気も無い。視界の先には小さな泉のような物も見え、私は一心不乱に其処へと向かった。
「頼む……まだ生きていてくれよ……」
泉の前へアレックスを寝かせ、水筒に水を補充すると直ぐに彼の口元から注ぎ入れる。
始めは口の端から溢れさせるのみだったが辛抱強く待つこと暫く、やっと喉が水を嚥下するように動いた。それから数度に分けて水筒一袋分の水を飲ませると、それまで険しかった表情が和らぐ。
脈も呼吸も落ち着いて来ている事から、どうやら間に合ったらしい。
「……やったか」
やり遂げた事で緊張の糸が切れたのか、私は思わずその場にへたり込んだ。
「あ……れ? 力が……」
立ち上がろうにも足に力が入らず、酩酊感にも似た思考の揺らぎに身体が完全に倒れ込む。そうして、仰向けのまま動かない身体をどうにかしようと腕を突っ張った所で、漸く自分がどうなっていたのかを理解した。
腕は完全に焼け爛れ、掌は皮膚が捲れてしまっている。足も同様に酷い有様だろう。
火傷だけなら下手をすればアレックスよりも重傷だ。よくこんな身体で走れたものだと我ながら感心する程だ。分かっているとは思っていたものの、熱に弱いのは単なる気質ではなく、体質的な問題だと正しく把握出来ていなかったのだろう。
「また随分と無茶をしたな、さしもの貴様も自然には勝てんといった所か」
「……ダンテ」
「何だルフレ、もう死ぬか?」
「それはまあ……分からないけど、私は少し眠る。そこのアレックスも、安静に頼んだぞ」
もし、あそこでアレックスを置いて行けばこんな事にはならなかった。再三言うが、きっと合理的に生きる分にはそれが正解の筈。
それでもこうして全員が助かってしまえば、やっぱりこうして良かったと後から思ってしまう。なんとかなったからこその結果論であり、失敗した時の事を考えてはいない。生まれた時からそういう性根が私なのだと、嫌いになれないのも確かだが。
ともあれ、今は自分の手で掴んだ正解を噛み締めて、身体を休めるとしよう……。
***
溶岩窟を進みながら、ジンは先刻出会った冒険者の一行に現在地の説明を受けていた。
「ここもダンジョン……?」
「だから、そう何度も言ってるじゃない……ここはラグミニアの火山にあるダンジョンだって」
うだるような暑さの中、一滴の汗も流さない彼を訝しみながらも、剣士の少女は呆れたように――――これで三度目になる――――ここがラグミニアのとあるダンジョンであることを伝える。無論ジンもその言葉自体は理解しているのだが、元いた場所は西南の魔王領。
「それが、なんだって北の大国に飛ばされちまったんだ……」
状況を考えれば恐らく他の面々も何処かへ飛ばされたのが妥当であろう。そのことは気掛かりながら、ダンジョンであるのなら先ず自身が生きて帰れるのかが第一の問題だ。
「ところであなた、そんな装備でよく平気そうな顔してられるわね……? 一応言っておくけど、ここ溶岩溜まりよ?」
「そういうお前らだって、こんな場所に来るような服装じゃねえだろ」
そもそも今のジンの服装は着流しを模した一張羅、加えて上半身は脱いでいるため半裸である。それを不審がらないのも可笑しな話で、本人が首を傾げているのに対して少女は眦を引き攣らせながら肩を竦めた。
「……いい? 私達は火の神様から授かった加護の印符があるの、そのお陰でこの過酷な火山洞窟でも活動出来てるって訳よ。けど、あなたはここが何処かも知らずにいた! 普通何の準備も無しに此処へ入れば、数秒と立たずに燃えて死ぬのよ! ふ、つ、う、はね!」
「そ、そんなに大声出さなくてもいいだろ……つまり、俺とお前とじゃ鍛え方が違――――」
「そういう問題じゃないでしょ! あとお前じゃなくて、私には"アルカ"って言う名前があるの!」
「あ、アルカ! そうか、いい名前だ! 北方じゃ妖精って意味だったよな、親御さんはいいセンスしてる! だから、分かったからちょっと離れろ!」
目を眇めて詰め寄る少女に、ジンは体を仰け反らせる。
整った顔と冒険者にしては手入れのされた栗色の髪が揺れ、その気の強そうな表情を差し引いても綺麗だと思ってしまったのだ。昔は女に対しても横暴な態度を取っていたが、最近どうにもその対応に困る場面が多い、と。
「なんだ、その……俺の持ってるスキルだよ、熱とかに衝撃に強いスキル」
「ふぅん……スキルね。そう言えばさっきも食べられてたけど、無事だったし……」
「スキルについて他人にはあんま言えねえのは分かるだろ? そういう感じのアレとだけ分かってくれりゃいい」
「ま、いいわ。こうなればどうせあなたにも付いて来て貰わなくちゃいけないもの」
なんとかアルカを納得させると、彼女は澄まし顔でそう言って歩調を速めた。それに合わせるようにジンも横に並ぶと、鋭い眼光が飛んでくる。
「……何私の横に立ってるのよ」
「え? あ、いや……別に特に意味は……」
「だったら下がりな!不敬よ! 男は黙って私の三歩後ろを歩くの、分かった!? 」
ジンと比べれば大人と子供程の差もあろうその小柄な体躯からは想像も出来ない気迫に、思わず何も言えず距離を取ってしまった。横を見れば、斥候の女を除いた男二人は言われるまでもなく後ろを歩いている。
「いやぁ、悪いなあんちゃん。あの人、ちょっとばかし気位が高えもんで」
「あれは、ちょっとじゃ済まなくないか……?」
「隠してても仕方ないから言うが、アルカ様はラグミニア公国オースティン伯爵の娘なんだよ。俺らは伯爵お抱えの冒険者だ」
「伯爵令嬢!? そんな女がなんでまたダンジョンにいんだよ……」
男衆の同情するような言葉とアルカの素性に、ジンは最早驚きを通り越して疲れたような表情で溜息を吐く。
「オースティン家は代々剣に長けた家系で、現当主様も相当な手練なんだわ。その家のしきたりで、嫡子は最も剣の腕前に長けた者がなるって話らしい」
「成程、それでこんなところに腕試しをしに来たと?」
「いや、そうじゃなくてな。アルカ様は女だからと、そもそも継承権すら無い状態で、父親も父親でアルカ様を溺愛してるから、危ない事はさせられないと口論になってもう収拾がつかなくて……」
「それなら結果を出して認めさせてやると、ラグミニアで最難関のダンジョンに単身乗り込もうとしたところを諌めてなんとか俺たちが護衛についてって状況だ……」
やつれた顔で事情を話した男に、ジンもなんとも言えない表情を浮かべるほかない。
「まあ、それはともかくとして剣の腕は確かなんだわ。竜狩りや剣聖、灰の魔剣士なんて例外を除けば、間違いなく大陸でも指折りの凄い剣士だと俺は勝手に思ってる」
「そうか? 俺にはただの高慢ちきな女にしか見えねえが……」
聞き慣れた名前に目の前の少女を見つめるも、あの規格外と比較してもこれが手練であるとは思えなかった。
経験則的に――――戦闘を生業としている故――――見ただけでそれなりに強さが分かる己がそうなのだから、優秀といえど大したことは無いだろうと。ただ、その矮躯特有の、ちょこまかとした身のこなしだけは何か引っ掛かる。見覚えのあるような、デジャヴにも似た感覚を確かに感じていた。
「ほら、最後の階段が見えて来たわよ!」
「……あ、分かった。昔のアイツに似てるんだ」
そして、嘗て見た鮮烈な光景と苦い思い出にその姿を重ね合わせ、一人内心で得心がいく。
彼女は、剣も魔法もまだ未熟と言っても差し支えなかった頃の竜の少女。それでも腐った己を叩きのめすには十分過ぎる力と自信を持っていた、何もかもが変わる前のルフレとどこか似ていたのだ。




