167.やるべき事はまだまだ
自分の執務室へと戻ってきた私は、小さく溜息を吐きながら椅子へと身体を沈めた。
現在時刻は九時を回った頃。伯父の所有物であったのを王の継承祝いを期に譲り受けた立派な時計が、この世界でも変わらず秒針を刻んでいる。最近は執務にも慣れてきて、前述のように部屋の内装を凝る余裕も出てきたが今日は普段よりも疲れた。
それというのも、国交に関する会談において私は何もしなかったのだ。
何かしたからではなく何もしなかったから気疲れしたなど酷く情けないが、本当に私が口出しをする間もなくトントン拍子で話が進んだのだから仕方がない。
さて、そんな会談の結論としては此方からは砂糖や果実類、酒類をフラスカへ。フラスカからは此処では貴重な香辛料や、綿布などの品を輸出することに決まった。それとは別に蘭商会が個別に購入していく品に関する税率は、双方で納得の行く金額に収まっている。
砂糖に関しては相当貴重な嗜好品故に、物々交換ではレートが成立せず多少金貨も流れてくるようだ。
そして国交の最も大事な部分である相互不可侵の条約も締結する事が決まり、何方かが求めた場合の援助や支援なども約束された。これで漸くウェスタリカは人間国家と友好的な条約を結んだ魔人の国になれる。
三ヶ月という短い間によくも此処まで来られたものだと思うが、それもこれも大体仲間の働きに依る所が大きい。メイビスは迅速に手紙を届けるメッセンジャーとして、アキトも商人として今回の取引の成立に奔走してくれた。
「ただ、私は何も返せて無いんだよなぁ……」
彼らが非常に協力的なのはある程度親交があるからとは言え、根底の部分では私と利害が一致しているからだろう。
それならば受けた恩はしっかりと返したいと思いつつ、未だに世話を焼かれているだけと言うのが現状だ。商会はこれで幾らか利益が出るのだろうけど、それではアキト個人の働きには見合わない。
と、何かいい恩返しの方法は無いかと思案に耽っていた所、執務室の扉を叩く音が耳に入る。
「どうぞ」
足音と気配からして身内の誰でも無いが、それでも一度顔を合わせれば壁越しでもその正体は分かった。
「夜分遅くに失礼しますわ……ちゅーか、仮にも女王の部屋にこんな簡単に通していいんですかいな……? 此処に来るまで誰にも咎められへんかったし……」
「それはまあ、私に危害を及ぼせる相手が入り込んでいるのなら最早誰も止められないからな。多分この部屋が一番安全だろう」
酒瓶片手に部屋へと入ってきたのは狐色の髪をした男、バカラ。
彼は私の言葉に苦笑を漏らすと、執務机へとその琥珀色の液体を詰め込んだ瓶を置いた。銘は余り詳しくないので分からないとは言え、結構な逸品のように見受けられる。
「これはアルテアの竜人族が作ってる火酒でして、融通してもろてるうちの一番ええやつですわ。二十数年ぶりのウェスタリカ王政復古の献上品ちゅーことで、受け取ってくれなはれ」
「ありがたく頂戴するよ、私は呑まないがウチの酒飲み共が喜ぶだろう」
黒竜人の火酒に興味はあるものの、私が酒を呑もうとすると大抵周囲に止められてしまう。確かに酒癖が若干悪い自覚はあるが、そんな止める程のことでは無いと思うのだが……。
「それで、こんな夜更けに一体なんの用だ?」
「実は此処に来るまでの道中でちょいと気になる事があったさかい、陛下の耳に入れた方がええんちゃうかと思いまして」
「ほう?」
何時もの如く暗殺メイドが黒革のソファへバカラを座らせ、お茶を用意している間にそんな言葉が彼から告げられる。今日分かった人となりだけでもかなり目敏く、物事の機微を良く見ている彼の気掛かりは恐らく大事なことだ。
「実はなんですがね、この国の北部にある森中で妙なゴブリンに襲われたんですわ」
「ゴブリン……?」
「それも普通のゴブリンやなくて、鎧や鉄剣で武装して……しかも偉い統率の取れた動きをする奴らでして」
「ホブゴブリンやオーガと見間違えたとかではないんだな?」
武装して人を襲う妙なゴブリンと聞いてそう尋ねたがバカラは首を横に振った。
とは言えそんな話は街の外を警備している兵士からの報告にも上がっていない。私も流石に不気味さを感じずにはいられず、お茶を嚥下して思案するように指を唇に当てる。
通常ゴブリンというのは、武装している個体でも精々死体から盗んだナイフや黒曜石の剣程度。鎧を着るなんて知性は連中には無い筈だ、それこそゴブリンが魔人化したと言われている鬼などでも無い限りは……。
「ワイの見立てでは恐らくあれらは特異個体やないかと思てますねん」
「特異個体……だが、一体では無かったんだろう?」
「ええ、せやけどそうでもなけりゃ、ゴブリンが知性を持って武装するなんて話は信じられまへんよ」
彼の言う特異個体とは、所謂突然変異的に生まれた魔物の総称である。
それも特に難しいことではなく、人間で言う先天的な遺伝子の異常と殆ど変わらない。
ただ、魔物の場合はそれがとんでもない厄災の原因となり得るのだけが違いだろう。例えゴブリンであろうとも特異個体とはそういう存在であり、たった一体の魔物によって国が滅ぼされたという事例もある。
彼の見たゴブリンが一体では無いということは、森林の生態系が相当危ない状況になっている筈だ。
「ところで、特殊個体に襲われた割には一切被害がなさそうだが……その辺りはどうやって切り抜けたんだ?」
「奴らこっちが仰山手練れの護衛を雇ってるのを見るや否や一目散に逃げて行きましたんで、幸い人も荷物も無事だったんですわ。其処だけは足りん筈の奴らの脳みそがあったことに感謝してます」
成程、頭の悪いゴブリンとは思えない程危機察知能力も高いと。
相手の数と力量を見て退くなど空腹の野盗よりもよっぽど知恵が回るし、これで益々彼の話の信憑性は確かなものとなった。最早疑いようもなく、特異個体のゴブリンたちで間違いは無いだろう。
「分かった、その件に関してはこちらで責任を持って調べよう。教えてくれて助かった」
「おおきに、ほんま助かりますわ。ワイらとしても安全に行商させて貰いたい思うてますんで、何卒宜しくお願いしまっせ」
膝に手をついて頭を下げるバカラに、私も鷹揚と頷く。
折角他国との繋がりが出来たのに、その経路に障害があっては元も子もないからな。近隣諸国で被害が出て問題が起こる事も避けたいし、問題を放置しておく事は論外。軽く受け止めないで、早急にそのゴブリンについて調査するべきだろう。
「いやあ、やっぱりアキトの言った通りの御人でしたわ! 陛下は良い意味で、王族とは思えない親しみやすさを感じますねんな」
「アキトが?」
「ええ、ええ。アイツから色々聞いてまっせ、仰山迷惑掛けたっちゅー話もですし、その節に関してはワイからもお礼を言わして貰います」
「……何方かと言えば、私の方が彼には世話になっているとは思うけどな」
バカラの言葉に先程の一人反省会を思い出し、苦笑いでそう返す。
悲しいかな私がアキトを助けるよりも、アキトが私を助けた機会の方が多いのは事実だ。貸しが一つなのに対して彼からの借りを考えると、都合三つ程の借りがまだ残っている事になる。
「いや、それでええんですよ。アイツは器量はええけど根が優しすぎるさかい、商人としてあんま大成出来んやろうし……。ほんまはこないな危ない仕事やなくて、もっと別の世界で生きて欲しいっちゅーのがワイの本音ですかね」
彼が何を言わんとしているのか、私もアキトが欲しい身としては幾らでも察せる。つまり此方に引き抜いてしまってもいいと、暗にそう告げているのだ。
「今の仕事に満足しているように見えるし、そう言われても納得しないんじゃないか?」
ただ、私の主観だが彼はこの仕事に誇りを持っている。
「ナハハ! 仰る通り! ああ見えて結構頑固な所もあるし、ワイらがどうこう出来る話でも無いんは確かですわな」
向いていないと言われたとて、そう簡単に転職するとは思えない。無理にそんな話をするのは気が引けるし、何より彼の意思を尊重するべきだろう。
「ま、くれぐれもこの話は内密ということでお願いしまっせ。アキトとはこれまで通り宜しく頼んます」
「分かった、それも頼まれたよ。その代わり、貿易に関してはしっかりと仕事をして貰うからな」
「当然、誠心誠意真心を籠めて、運ばして貰いますよ!」
そう、互いに見合って握手を交わし、話し合いはお開きになった。
百戦錬磨の商人と個人的に話す場ということで、腹の探り合いでもあるのかと思ったがそんな事も無く。ただ、本当に報告と世間話をしに来ただけらしい、一応私との仲を深めるという目的もあったかも知れないが。
「……やっと一日が終わった」
静まり返った部屋の中でそう呟けば、来客の後というのもあってか倦怠感がのしかかる。
ここ最近は目が回るほど忙しくて、流石の私も疲れ気味だったらしい。気の利く女中がハーブティーを淹れてくれる中、一度大きく深呼吸をして背凭れに身体を預けた。久しぶりに眠い、このままソファで寝てしまいたい。
「とは言え、問題は山積み……か」
カモミールにも似た優しいハーブの香りを楽しみながら一口含み、転がして嚥下すると心做しか少し気分が良くなった。
色々な事柄が前に進んでいるとは言えども、それに付随する問題も関係ない部分での懸念も絶えない。イグロスの出方に加えて魔王の復活、特異個体のゴブリン達やイミアのこと。全部が全部優先度を付け難い問題であり、何処かで対応に失敗すれば今の平穏は一瞬で瓦解するだろう。
「……ああ、後はウミノの妹も探すって約束したんだっけっか」
結局グリュミネ鉱山では見つからなかった彼女の妹は依然消息不明。今は情報を集めている最中であり、もし見つけたのならウェスタリカへ連れて来ると約束をしたのだ。
どれだけ疲れようともやるべき事は幾らでもある。
そんな折には昔の怠け癖が付いた自分も顔を出すが、あの裏路地での決意を思い出して押し込めていた。うだうだと無駄な思考をする癖は無くならない、現状スローライフとは程遠い。それでも、もう前世の二の舞にはならないと誓ったのだ。
「ちゃんとやらないとな」
私は自分自身に言い聞かせるようにそう、一人呟いた。