閑話.宿願まであと
月夜の下、舞うように跳ね回る女性の影と風切り音だけがその場にあった。
最早芸術の域に達していると言ってもいい程完成された動き、それに合わせて乱れ散る髪と汗。美しい、ただ美しいという感想しか湧かない彼女の姿を見て、従者であるソフラは思わず溜息を吐く。
凡そ一年前、ソフラの主であるアミ・メミットはフラスカで遭遇した謎の武芸者と立ち合い、敗北してそのまま師弟の関係となった。尤もソフラに何か口出しをする権利も理由も無く、ただ旅の仲間が一人増えただけではある。
それからアミは今までと比較にならぬ程の力を付け、既に北方では最強の名を欲しいままにしていた。
迷宮に潜れば最奥に眠る守護者を討ち滅ぼし、一生かけても使い切れない程の財宝を手に入れ。悪魔に魅入られて悪政を敷く貴族を成敗して正気に戻し、巨大な街一つを根城にする盗賊団を一人で壊滅させたり。
時には相思相愛の竜と貴族令嬢を結ばせる為に奔走したりもして来た。
その全てが彼の師の手を借りずに、アミ一人でやってのけたというのだから凄まじい。
「アミ様、そろそろ終わりになされてはどうでしょうか」
「……そうですね、今日はもう休みます」
日課である鍛錬を終え、焚き火へと戻ってくる主人に替えの服と手拭いを渡す。此処数ヶ月で単なる素振りや基礎鍛錬程度では汗一つ流さずにこなすようになったものの、最近は何故かまた熱が入るようになった。
それも一重に主の念願がもう少しで叶うからだろうと、ソフラは内心で独りごち。
詳細な事情こそ知らぬものの、主人は己よりも更に上の立場にいる者の元へと戻る為に強くなろうとしている。
以前から常軌を逸した強さを持っているものの、今は最早並び立つ者などいないとすら思える程の領域に到達した。其程までに彼女が身を費やす相手が誰なのか、気にならなかったわけではない。
――――蛇の月、豊穣の宴、闘神の眠る空の下にて再会を望まんとす
蛇とは円環を意味する八月、豊穣の宴は八月の終わりより執り行われるギュリウスの収穫祭、闘神を祀る闘技場もそこにある。つまり、『八月の収穫祭の折、闘技場にて主は念願の相手と再会する』ということ。
旅の吟遊詩人に頼んだ言伝が相手へ届いたのならば、いずれソフラも主が慕うその御方と出会えるのだ。
ここ最近鍛錬に力を籠めているのも、その時が日に日に近づいているからだろう。月の満ち欠けにしてあと七回程か。漸く主人の想いが結実すると思えば、従者である彼女も何故か落ち着かない気分になる。
「どうかしましたか?」
「あ……いえ、何も……」
それを見透かされたか、アミは疑問気に首を傾げた。
余計な詮索をするまいと決めていた身として、今更出来るはずもない。元々自身の事に付いて尋ねられたく無いが為に、なにも聞かなかったのだ。とは言え、気になるのも本音であり、暫しの逡巡の後にソフラは口を開いた。
「その……アミ様が探しておられるお方とは一体どういう方なのでしょう……?」
「探している、というのは少し違いますね。私があの方から逃げたというのが正しいです、あの人は優しすぎるから」
「優しすぎる、ですか」
「ええ、いつも斜に構えて不器用で、悪人のふりをしたがる変な人ですが……私にとっては命の恩人。返しきれない程の恩と、迷惑を掛けてしまった方です」
内心に抱えた不安とは裏腹に、イミアは何ら躊躇なくソフラの疑問へと答えてくれた。何か、尋ねてもらうのを待っていたようにすら見え、思わず続きを催促するように返事をしてしまうと――――
「その……もし差し支え無ければ……その事に付いても教えてはくれないでしょうか?」
「そうですね、今更話さない理由もありません。あなたには真実を伝えておきましょう」
――――真実。
その一言に心臓が大きく跳ねる。
彼女が自身の過去や素性を語ることはなかったが、隠し事をしているとも思ってはいなかった。理由はそれ以外にもあるとは言え、ソフラの心を揺らすには充分過ぎる言葉だったのだろう。
「真実……とは」
「私の本当の名前はイミア・クレイエラ、イグロス神聖王国アリシア大聖堂枢機卿代理の地位に座した聖女でした」
「……ッ!? せ、聖女様!?」
「元、ですけどね。私はお役御免となって国を追われました。今頃イグロス内部では新たな聖女を擁立していることでしょう」
そんな告白にソフラは手に持ったカップを取り落し、焚き火の照らす闇夜の中に乾いた金属音が響く。
彼女は苦笑しているものの、その口ぶりも所作も嘘を吐いているような素振りは無い。つまり、それはどうしようもないほどの事実。今まで単なる冒険者として追従して来た主が、かのアース教の中でも高位の聖職者だったのだ。
「そ、その聖女様が何故……」
「全てを話せば長いですが、まあ……全ては神の決定だったという一言に集約されますね」
「酷いです……聖女様を国から追い出すなんて」
「今となっては追放されて良かったとすら思いますよ。私が如何に本の知識だけで、外の世界を知らなかったのかこの数年でよく理解できましたし」
「……確かに、アミ――――イミア様がいなければ私もきっとあの時に死んでいました」
「そう、私もきっとあの時にあの方、ルフレ様に出会っていなければ此処にはいなかった筈です」
「ルフレ様とは、そんなに凄いお方なのですか?」
「当然! 出会いは……世間知らずな私が、粗暴で目つきの悪い如何にも変態そうな冒険者に絡まれている所を、颯爽と助けてくれた事がきっかけです」
イミアは、自身の過去はあっけらかんと。それでいて再会することが宿願とも言える、ルフレという人物の事は夢見るような表情で語った。その口調の具合から、そうとう慕っているのだろう事は、本人を知らないソフラでも分かる程。
「成程、まるで歌劇のような展開、その殿方はとても勇気があるのですね」
「殿方? ああ、ルフレ様は女性ですよ」
「えっ」
「えっ?」
が、当然のようにそれが男性であると思いこんでいた為、彼女である事を教えられた瞬間に目が点になる。
「私よりも年下で当時はまだ未成年でしたし、どちらかと言えば小さくて可愛らしい女の子でした」
「えぇ……?」
「口調など、ぶっきらぼうで男っぽい部分は否めませんでしたが、年相応の女の子らしい部分もちゃんとありましたね」
「えぇぇぇ……?」
加えてイミアよりも年が下で小さいと来れば、優しくも不器用で少し陰のある美青年を想像していたソフラは返す言葉もなく。ただただ、そのルフレという存在のイメージが様々な要素に掻き回され、一体どんな人物なのか益々分からなくなってしまった。
「それでもやはり一番凄まじかったのは、突出した戦いの才能でしょうか。あの人、前世が闘神と言われても驚かない程強くなるのが速いんですよ。古代魔法は実戦で初使用して成功してましたし……剣の師匠もいたのですけど、その方曰く『一年掛けてある程度形にする基礎を一週間で物にしてきた』と言っていました」
「そ、それはなんというか、色々と凄まじいですね……」
尚、彼女に此処まで言わせる程の人物であるからして、強さも相当な物だと本人の口から語られる。
それにしても少々誇張が入っているのではと疑いたくなる話だが、やはり主人が嘘を吐いている様子は微塵も感じられない。どころか、この程度はまだ序の口と言わんばかりであり、更に実物のイメージ図が混沌としてくる。
「ですが、私はその強さに甘えてしまった。ある日突然イグロスからの追手が現れ――――いえ、突然ではありませんね。分かっていた事です、このまま一緒にいればきっと迷惑を掛けるだろう事も」
「イミア様……?」
されど、そんな嬉しそうな語り口調はその一言で雰囲気を変えた。
ソフラは恐らくこれが先程口にした迷惑という発言の事なのだろうと察し、口を噤んで彼女の話へ静かに耳を傾ける。
「私を追ってやって来た刺客に、ルフレ様の保護者であるシェリーさんとエイジスさんが殺されたのです。その直後にルフレ様自らが刺客を倒しましたが、私のせいで結果的にあの方の全てを奪ってしまう羽目になった」
「……」
「だから、私は決めたのです。あの方から何も奪わせないで守り抜ける強さを手に入れようと。そうならなければ、きっと傍にいることは許されないだろうと」
恐ろしい程に覚悟の籠もった瞳が茜に燃ゆる火を見つめ、静かなれど確かな覇気をソフラに感じさせる。これが主人の強くなる目的、その為に今まで生きてきたのかと思うと鳥肌が立つ。
「はいはい、パジャマパーティーもいいけど、そろそろ寝ないと明日に響くぞ~」
「うわっ!?」
そんな空気に水を差したのは、場違いな程軽薄な声音でそう言いながらイミアの後ろへ現れた男だった。
いつの間にそこへいたのか、この師匠という人物は必ず悟られる事無くイミアの後ろを取る。正面から見ていたソフラですら気付かないのだから、最早それは存在感の無さで済ませられる程度ではない。
相当な実力者であり、彼女を此処まで強くした張本人。こと戦いにおいてイミアの右に並ぶ者はいないと言ったが、この人物だけは例外であろう。
そんな謎の多い師匠は常に飄々として軽薄であり、ソフラにも馴れ馴れしく接してくる。
「……師匠、急に後ろから声を掛けないでくださいといつも言っているでしょう」
「いや~すまんすまん。おじさんねぇ羨ましくなっちゃって、ガールズトークに混ざりたかっただけなんだよぉ」
自称おじさん、なれど素顔性別年齢は一切不明。
声は女性にも聞こえ、東方由来のゴテゴテとした装備で判り辛いが体は細やかにも見える。背丈で言えばイミアよりやや高く、仕草自体は男性のそれ。男性と女性の要素が混然一体となり、非常に謎めいた雰囲気を醸し出しているのだ。
「というか、こんな時間まで何をしていたんですか? 昼間から姿を消して今戻ってきたということは……随分遠くへ行っていたようですが」
「ん~? ああ、ちょっとね。この辺りに雷狼の住処があるらしくて、そこを避ける道を探してた。あ、そうそう。明日以降は更に南へ下って、一旦フラスカに戻るからそのつもりで」
ただ師匠と呼ばれるその人物はそれだけ言うと、焚き火を囲む倒木へと腰掛けてわざとらしく大きな溜息を吐いた。
いつものことだが、突然「用事がある」とだけ言ってふらっと何処かへ消える事がままある。初めのうちは一体何処へ行っているのか疑問に思っていたが、最近はイミアもソフラも特に気にすることは無くなっていた。
今回の雷狼云々も半分事実であり、半分は嘘なのだろう。
この人物であれば通常危険と言われる雷狼などの魔物であっても、敢えて避けて通る程の相手ではないからだ。鼻歌交じりに蹴散らすのがお決まりになっているこのパーティーで、寧ろそうするほうが不自然である。
とは言え、訝しみこそすれど口に出すことは無い。
まるで未来を見てきたかのような決断を下す事が稀にあるような、深謀に優れた人物であることも確か。故にそういった行動にも何か意味がある筈。イミアを此処まで鍛え上げた手腕といい、今までの旅路でその類の信用は確かに勝ち取っていた。
「明日からも予定通り行くといいがなぁ。人生何が起こるかわからないもんだ。普通はやり直しなんて効かないんだし、慎重に行こうな」
「……はい、そうですね」
一つの火を囲む二人は不安と期待を胸に抱え、約束の日を待ち侘びる。それが、もしかすると悪い夢のようなものであるとも知れずに……。




