157.内に潜む悪意
―――――憎い、憎い、憎い、憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い。
私はただ平和に暮らしていたいだけだった。
降りかかる火の粉を払う為に誰かと敵対することはあれど、ここまでされる恨みを買った覚えも謂れも無い。
非合理的で自己愛的な被害妄想が真実ならば、私は私に並々ならぬ執着を抱く誰か個人から酷く悪質な嫌がらせを受けているのだろう。そう思わなければ、こう何度も重篤な問題が連続して起きるとは思えなかった。
ただ、こんな状態は精神病の、最早それに近い。
今まで何をどうやって生きて来ても常に人間の悪意に晒され、きっとおかしくなってしまったのだ。
考えてみれば生まれて来る前から私は人間の、それも宗教狂いに粘着されている。その全てが別々の場所で起ころうとも、私にとっては毎回同じ誰かに平穏を邪魔されているのに違いはない。
今回は大胆な襲撃に一瞬この前殺した連中の仲間かと思ったが、よくよく格好を見れば傭兵であった。それも世間知らずの私とて良く知る『戦士たちの想跡』だ。この前述を踏まえて考えれば、何処の差し金かは一択以外思いつくわけもなく。
「イグロスのクソ共が……本気か? 本気で人を怒らせたいのか?」
率直に言えばキモ過ぎる。
一体何処まで追いかけてくるつもりなのか、いっそもう本当に滅ぼしに行ってしまおうかと思う程腹が立つ。もしこれが妄想だとしても、私からすれば自業自得。それだけのことを奴らはして来たし、理由不明の執着が途切れない限りはこれからも続くだろう。
――――なら、その度に私は敵対者の悉くを殺し尽くさなければいけないのか?
そうだ、殺せばいい。正当防衛なのだから、私には連中を殺す権利がある。
許容量を超えた怒りに起因する感情が、臓腑の底から湧き上がってくる。視界が真っ赤に染まり、目に映る物全てが私を苛立たせる要因になる。いっそ考える事を放棄して、全て破壊してしまえばどれ程気持ちのいいことか。
この怒りを助長しているのは《憤怒之業》なのだろう。
際限なく流れ込んでくる力と激情は、権能に深く結びついた魂を介して来ている。怒りは殺意へと変わり、目の前に立つ傭兵たちを皆殺しにしたい欲求が湧き上がって仕方がない。
「駄目だ」
盾を破壊され、剣一本で警戒しながらも距離を保つ部隊長と呼ばれた男を見ながら、無意識にそう呟く。
私のこの力は、人を殺す為に培った物では無いのだ。幾ら腹立たしくとも彼らはただの傭兵、軽率に命を奪えば後々に苦しむのは私に決まっている。エイジスは、師匠はそんな事の為に私を鍛えてくれたわけじゃないのだから。
――――いいだろう、殺せばいいだろう。己の欲求に従う事の何が悪い?
悪いに決まっている。
人間は唯一欲求を制御して生きる事の出来る動物だろうに、自らその程度を低めることの何が良いのか。というかお前は誰だ、勝手に私の心で私の声で囁くな。
―――――今のお前、私は人間か? 違う、半分は魔人だ、なあ。いいだろう、殺せばいいだろう?
「違う」
私は確かに半分魔人だが、それと同様に半分は人間だ。お前の言うその理屈は通らない、馬鹿め。
かような心の中のやり取りを交わしている間にも、部隊長は斬り掛かってくる。
先程よりも若干の精彩は欠くが、それ以上に私の動きは緩慢で何時もの何倍も鈍重だった。お陰でほぼ互角、背後や左右から魔法の援護が在ることを鑑みれば、自力の差で此方に軍配は上がるか。
――――ほら、チャンスだ。何時ものように魔法を放てば、コイツは塵屑のようにバラバラになって死ぬぞ?
しない、してはいけない。
袈裟斬りに振るわれる剣を避けきれず、衣装の殆どが切り裂かれて剥げる。身軽になったものの、相当に意匠を凝らした物だった為に罪悪感が半端ない。これを編んだ者には後で謝らなければ。
――――それもお前がさっさと殺せばボロ布になる事も無かっただろう、だから早く殺せ、俺に血を浴びさせろ
……お前、もしかしなくても私の中の悪い心とかではないな?
悪魔と天使が囁くなんて緩い現象ではなく、これは私の声を借りた誰かが語りかけてきている。それも心の中に住まうとすれば……自ずと答えは見えてくる。
以前ハルに忠告された時、もう少し真剣に捉えるべきだったということだろう。
なあ? 《憤怒之業》よ。
――――殺せ、殺せ、殺せ殺せ殺せ、お前はただ怒り暴れればいい。その怒りが、激情が俺の、憤怒の糧となる
この声の正体は夢の中でみたあの巨大な黒竜だ。
それも自我を持って私の意に反そうとしているのなら、御しきれていないというハルの言葉は正しい。スキルが宿主に逆らうなど聞いたことが無いが、実際こうして暗黒微笑を称える竜が心の中にいるのだ。
――――俺がお前のような小娘程度に使われると思うか? 腰抜けの四代目は俺を恐れて封印したが、元来この力は魔王の核とも言える存在なのだぞ
……待て、それはどういう事だ?
魔王の核? 四代目が封印?
一体何を――――
「隙ありッ!」
「……っ」
内心で動揺したことが動きにも出たのか、甘い立ち回りを咎められて頬を剣先が掠める。背後に立つ傭兵団の頭目、《戦争屋》ゴットフリートに動きは無いもののこれは稚拙と言わざるを得ない。
――――幾ら脆弱な人間相手とは言え、俺に意識を割き過ぎだな。ほら、少し手伝ってやろう
「やっ……!?」
私の動揺に付け込んだ憤怒は、嘲笑混じりの言葉を吐きながら強引にこの体の主導権を奪った。
己の意思とは無関係に体が動いているにも関わらず、何をしようとしているのかだけ分かるのが余計に拙い。
一際瘴気を濃厚に噴出しながら翼が蠢き、全身を巡る魔力が活性化していく。対面している部隊長がその変化に気付いた時には既に遅く、義手から炎が吹き出すと同時に私を除いた半径数メートル、全ての物が漆黒の獄炎に包まれた。
「部隊長! ランス! ガイ!」
――――力とは、こういう風に使うのだよ。お前のままごとはなんと生温いことか
魔力によって生じた炎熱が霧散していくと共に、視界が晴れた時既に私の目の前で対峙していた男の姿は何処にもなく。身動きを封じた女性と、気を失った男の傭兵も巻き込まれてその姿を消していた。
――――ほう、これは成程。意外だな
何が意外なのか、お前が殺したんだろうが。
ただ、今更人死に心乱される事は無いものの、私の意思と相反した行いで殺してしまったのも確かである。そんな、本来ならば死ななくても良かった命が目の前で失われても、何の感情も湧かない私も恐らくとっくに壊れているのだろう。
――――そう、お前が殺した
違う、殺したのはお前だ。
私はただ、不可抗力でどうすることも出来なかっただけだ。お前が余計な事をしなければ、私の体がそんな事をする必要も……。
「……てめぇ、やってくれたな」
いや、違う。殺したのは私だ。
とうとうゴットフリートが動き出し、私を見据えてその目を怒りで眇めている。当たり前だろう、部下を目の前で三人殺したのだから。怒って当然だ、寧ろこれで何もしなければ元Sランク冒険者は腑抜けだった事になるのだ。
そう、殺したのは私。
また、私の力が及ばない事が理由で、抗うことが出来ずに目の前で命を失った。私がもし憤怒を御していれば、あの部隊長も、ランスも、ガイも死なずに済んだのだろう。このスキルの所持者は私で、責任は私にある。
――――漸く理解したか、殺したのはお前だ
私に標的を定めたゴットフリートが拳を握りしめると同時、空間の歪みを察知して後ろへと退く。
その一瞬後、なにもない筈の宙が爆発した。熱と煙が発生しているが魔力の痕跡は無い、あの予備動作を見るに恐らくスキルの類だろう。
曰く、外部へ影響を及ぼすスキルは、大抵発生の為に何かしらの動作を必要とする。グラディンの持つスキルであれば、歯を噛み鳴らす事で空間を丸ごと抉り取るだとか、ウミノのスキルであれば対象に触れるという前提が必須だ。
それを踏まえて見れば、この男のスキルは手の動きによって遠方の空間を爆発させている事になる。
「オラアァァッッ!!」
奴が拳を突き出すように放てば、前方から爆発の衝撃が私の体へと叩きつけられた。直接的なダメージは無いが、息を吸うことも足を動かすことも叶わない。
須く、肉薄したゴットフリートは私の鳩尾を掌を殴りつけると、まるで撃鉄を打ったように弾かれて気付けば背中が何度も地面を跳ねていた。外傷があることは理解できる中、痛みを感じないのは憤怒の権能のお陰か。
しかし、私が御する事が出来ないばかりにこの無様。襲撃などどうでも良くなる程自分に腹が立つ。
憤怒を支配下に置ければ、もっと上手くやれた筈だ。
起き上がりながら憤怒から体の支配権を奪い返そうとするも、内に潜む敵とは別に戦争屋は待ってはくれない。間髪を入れずに私の義手――――左腕を摑まれると、内側から圧力が外へ広がるようにして爆ぜた。
「砕けろ」
「――――」
段々と理解出来てきたが、奴のスキルは恐らく触れている物を爆破するような代物だ。
殴られた腹部の打撲痕意外に内側から破壊された痕跡があり、恐らく私の臓腑は今相当酷い状態にある。加えて今しがた義手を破壊した一撃、あれも内側からの衝撃だった。
遠方を爆破させていたのは、多分空間という物の認識の仕様か。境の無いそれを一つの物として捉えれば、離れていようと権能が及ぶ道理も通るだろう。
まあ、それにしたって目に映る範囲どこでも爆発させられるのは些かチートが過ぎる。射程範囲はあるだろうが、接敵を許す前に詠唱も無しで対象を破壊出来るのならやはり無敵に近しい。
流石は元Sランク、皮肉にも憤怒の権能が無ければ私など足元にも及ばない強者だけはある。もし、私がもっと使い勝手の良いスキルを有していたならば、恐らくまだいい勝負が出来ただろう。
いや、他人の芝生と比べても益体はないな、寧ろこの展開は結果的に良かったのかも知れない。
あれだけ肝に銘じていたつもりが、私には覚悟が全くもって足りなかったのだ。
なあなあの甘い理想を語る割には、それをやり遂げるだけの力も覚悟も足りなかった。私は甘かった。中途半端がどれだけ酷い結果を生み出すか知っていたというのに、我ながら呆れを通り越して笑いすら浮かぶ。
「いいだろう」
「……あ?」
――――なに?
ライネスやデボラ御祖母様にあれ程言っておきながら、驕っていたのは私の方だった。なれど、それも本物の強者を前にして漸く目が覚め、心積もりも決まったらしい。
「私はお前を超える。憤怒を御し、悉くを凌駕し、降りかかる厄災など只の一つも無くなる程に強く……"最強"になろう。お前はその踏み台として、私の糧となれ」
覚悟を決めろ、斜に構えたまま努力するポーズのみで済ます時間はもう終わりだ。
Sランクすらも踏み台に、何者も私に力で抗うことの出来ない程に強く、そして守るべき者を守れるようになろう。
それが母に、乳母に生かされ、師に託され、父の、祖父の力を継いだルフレ・ウィステリアの責務なのだから。