156.黒い翼、変調の兆し
依頼の殺害対象が自ずと姿を現す事は僥倖の筈だった。
戦争から隊商の護衛や野盗などの討伐、生活圏に現れた高危険度を誇る魔物の討滅等が主な仕事だが、単一目標の殺害は初めてではない。幾ら相手が手練とは言え、たった一人殺すのにさして苦労は無いと踏んでいた。
しかし結果はどうか。
目標を追って指示された地域までやって来ればそこは魔人の街。旧き時代より南西の大森林には魔王領が存在すると言われているので、もしかするとその一部なのかもしれない。
そして、其処で見たのは人間を遥かに凌駕する強さを持った魔人達と、人間でありながらその場の誰よりも力を秘めている男だった。
傭兵団の頭目ながら陽動として暴れる事の多い男は、作戦の妨げになるであろうその人間を含めた魔人達を消し飛ばそうとしたが浅慮だったらしい。恐らくはユニーク、それも相当に強力なスキルを持った人間によって防がれてしまった。
何らかの方法によって初撃が防がれるのは想定内ではあったものの、その心身の頑強さは予想外。
真正面からやれば殺しきれない、とそう思ったのは何時ぶりか。
強大なスキルには同程度の制約が在ることを前提に、それを推測しながらある程度引き気味に立ち回り漸く有利を築けた。されど、そこから尋問紛いに情報を引き出そうにも、相手は折れない。
人数的な話で言えば、時間を掛ければ掛けるほど奇襲を掛けた側が不利になる。戦争屋と言われて久しいが、ここまで焦ったのもまた実に数年ぶり。いっそ諦めて一息に殺してしまおうか、一瞬の逡巡があった直後のこと――――
「何を、している?」
――――声がした。
鈴鳴りのような透き通った幼い、それでいて何処か芯のある女性の声だ。唯一、その声音が平坦ながらに隠しきれない程の怒気を孕んでいたことだけが、心の片隅に引っ掛かる。声の元を辿るように首を動かせば、其処には白い少女が佇んでいた。
肌も髪も睫毛でさえも灰被りのように彩度が無く、只々白い少女。無機質な人形めいた雰囲気さえ漂わせるその中で、一対の紅玉だけが煌々と此方を見つめている。
艷やかで絹のように美しい髪は結われ、豪奢な衣装で着飾っている事からこの地域の権力者に違いないだろう。加えてこめかみから蜷局を巻く角、毛が逆立って張り詰めた尾を見ればそれが誰であるかはより明白となった。
「灰の、魔剣士……」
情報から想像していた倍は幼く、それ以上に可憐。
最初に抱いた印象はそれだが、直ぐに彼女の背後から渦巻く暗澹とした瘴気を幻視して無意識に息を止めてしまう。脳内で本能が警鐘を鳴らし、今すぐに這ってでもこの場から逃げ出せと告げていた。
なれど動けない、否、動かせて貰えない。その視線だけで体を地面へと縫い止めるような威圧感。無言の内から爆発的に膨れ上がる濃厚な死の香りが、ゴットフリートに踵を返させるのを許さなかったのだ。
「なんだあれは……なんだ、なんだあれ、おいおいおいおいおいっ!?」
慢心こそすれど、ゴットフリートは相手の力量を見誤った事は無い。不幸な事に、その長きに渡る経験と天性の才とも言える観察眼は、生まれて初めて理解の出来ない存在を前にその力量を測りかねた。
「冗談じゃない、話では単独とは言えAランク止まりだった筈だ」と内心で情報に誤りがあったのかと何度も過去の記憶を精査するがそれも徒労に終わる。
その間、灰の少女は先ずゴットフリートに目を向け、その後満身創痍のジンへと視線を移す。しかして最後に静まり返った広間とその奥、すっかりと逃げ出した住人達が建物の陰から此方を伺っているのを見て、また最初に向けていた男の顔を凝視した。
一体なんだというのだ、何故無言なのだ。
そう叫び、激情のままに少女へ尋ねそうになるのを堪えながら、汗で湿った手を握りしめる。
怒っているのかそれとも状況に困惑しているのか、表情が読み取れない。ストンと感情が抜け落ちたような顔のまま、ただずっとゴットフリートを見つめる。しかし、その背後で渦巻く黒い瘴気は段々と厚みを増し、何かを形作っていた。
そうして暫く無言で見つめあい、額から汗が顎へと伝い落ちた頃、灰の少女は徐にその可憐な唇を開いた。
「■■■?」
「……え?」
「■■■■■■、■■■■■■■■■■■■■■■■■■■、■■■■■■■■■■■■■?」
少女の口から放たれたのは何かしら意味のある言葉なのだろう。
なれど、ゴットフリートにも、ジンにも、この場にいる誰にもその言葉の意味が聞き取れなかった。
間違いなくこの大陸で扱われているどの言語とも違うそれを、まるで独り言のように少女は接いでいく。
「■■■■■■、■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■。■■■■■■■■■■■■? ■■■■■■■■■■■■■■■、■■■、■■、■■■■■■■■■■■、■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■?」
何を言っているのか分からない。だが、何か怒りを籠めて此方に尋ねていることだけは分かる、分かるだけにその心を摘み取るような声音の紡ぐ言葉の意味が恐ろしかった。
「■■■■■、■■■■■■■。■■■■、■■■■■■■■■■■■■■■■■。■■■■■■■■■■■■■■?■■■■■■■■■■■」
其処まで一息で言い切ってから、少女は左の袖から白亜に輝く硬質な義手を顕にする。
「………なに、全員殺せばいい。降りかかる火の粉を払うだけだ、あちらから襲ってきたのだから、正当防衛だ。そうだ、殺せばいい、私はもう何も失うわけにはいかないんだ。よし、殺そう。いや、違う、悪いのはあちらだ、私には殺すだけの正当な理由がある、そうだろう? ……まて、殺す……殺す? 違う、そうだ、あいつだけだ、あれは殺さなきゃならない」
そして、今度はヒト種の公用語にて、ゾッとするような呟きを漏らすと共に殺意の濁流がゲッツを襲った。
石英の指先に圧縮された魔力は悉く雷へと変換され、行き場のないエネルギーが彼女の周囲で踊り狂い爆ぜる。それに加えて背後で存在感を増していく瘴気が、とうとう目に見える程その形状を変化させていた。
骨だけで形成され、そこへ爛れた翼膜がこびり付く黒い片翼。三対三枚の瘴気の翼から黒き羽根が舞い散り、白皙の美少女を禍々しく彩る。
「頭ッ! もう無理だ、早く殺らねえと俺達が殺される!」
「なっ!? てめぇら!」
天が落ちてきたのでは無いかと言わんばかりの威圧にとうとうゲッツ……ではなく、彼の部下が耐え兼ねて飛び出した。伏兵として忍んでいたおよそ六名の傭兵は少女、ルフレを囲むようにして襲いかかる。
「やめろっ! 手を出すな!」
「頭はやらせないッ! 俺達を舐めるなよ、六人でかかれば小娘一人程度は――――」
「部隊長、援護します!」
先頭に躍り出た一人がそう叫び、盾を構えつつ少女へと直剣の切っ先を向けた。
それを補助するように中距離から土の魔法が放たれ、ルフレの足場を土から泥へ変える。泥濘に足を取られた事で体勢を崩し、更にそこへ風の魔法が頭上からその体を押さえつけた。
「……■■■■■」
この大陸外の言語で毒吐きながら、ルフレは背後から振り下ろされる傭兵の大槌を魔力が充填されている義手で下から叩き上げる。
「何……んっ!?」
たったそれだけで鋼鉄の鈍器は粉微塵に砕け散り、余波によりそれを振るった大柄な傭兵を吹き飛ばした。
仰向けのまま圧縮された魔力の衝撃に意識を刈り取られ、最早起き上がることは無い。
その直後、後隙を突くように横腹へ――――女性の傭兵の持つ――――二振りの短剣が振るわれる。されど、その程度の隙は隙と言えず。軸足も動かさずに初撃を躱し、続くもう一振りの斬撃をすり抜けながらそれを振るう腕自体を右手で掴み上げた。
「いっ……ぎ……!」
そのまま外側へと腕を捻って、鈍い音と共に左肩関節を外す。
激痛に女は顔を歪めるが傭兵としての意地がある、無事であるもう一方の剣先を灰の少女の心臓目掛けて振るった。対して、ルフレは肩を外された事で手から溢れ落ちる短剣を空中で掴み上げると、腕を交錯させながら刃を盾に刺突の軌道を逸らして見せる。
「重鉄、土精、辰砂、流動、北勢、式を溶覆、解を凝とす」
「えっ!?」
「《汞》」
その直後、触れ合った短剣の刀身が溶解したかと思うと、その液状の金属が女へと覆い被さるように地面へ縫い付けた。
溶解と凝固に生体流動、そして土の性質概念を抽出して放たれたのは金属性魔法。本来ならば四十五節五行からなる詠唱を行わなければ放てない筈のそれを、灰の少女はたった七節まで省略して行使してみせた。
まるで鎖のように全身を縛ったそれは再び重厚な鋼へと戻り、動くことを許さない。
「一瞬でここまで高度な魔法を……!? ありえないだろ!!」
先程土の魔法を放った傭兵は、その桁外れの演算能力と術式の短縮改変に驚愕の声を上げ、思わず手に持った杖を取り落とす。ただ、叫んだことで注意を引いたのか、少女の視線はその魔術士へと向いた。
「《風牙》」
「ぐおぉッ!!」
大地を穿つ程の風魔法が吹き荒れて体が宙に浮き、
「させんっ!」
対するは部隊長と呼ばれた男のラウンドシールドがその風を打ち払った。
そして、その勢いを殺すこと無く直剣が袈裟斬りに振り下ろされ、その華奢な体を襲う。空気を切り裂く音が聞こえる程の剣速に捉えたかと目を見開いた次の瞬間、少女の顔がすぐ目の前に現れる。
「あっ」
近くで見れば見るほど、その顔立ちは先程の緊張感も忘れて思わず惚ける程に精緻。なれど、そんな感情とは別に、防衛本能とも言える無意識が左手に持つ盾を体の前に翳した。
「っ……!?」
その選択は正しく、義手から繰り出された貫手が、すべからく鉄を埋め込んだラウンドシールドを粉砕していた。義手とは言え、素手で盾を破壊されては生身で受けた場合どうなるか、理解してしまっただけに何故一瞬とは言え動きを止めたのかと己を激しく叱咤する。
そんな後悔をしている間にも、砕かれた盾の残骸から再び腕が胸元へと伸びて来た。
このままいけば、恐らく抵抗する事すら出来ずに体を貫かれて絶命する。確信めいた予測と共に、指先が鎖帷子を仕込んだ胴体へ触れるか触れないかの所まで迫った時、不意に怒れる竜人が動きを止め。
「……ぅ」
「え――――」
迷いの生じたような表情で一瞬部隊長を見て、貫手ではなく握った拳で顎を撃ち抜いた。
「浅いっ……!」
だが、その一瞬もまた彼が足を後ろへ引く猶予を与え、辛うじて意識を飛ばす事無く受け流す。しかも先程までの動きとは思えない程後隙が大きく、反撃を見舞う余裕すら生まれていた。
仰け反った姿勢のまま剣を水平に薙げば、灰の少女はそれを躱すために後ろへ飛び退る。
「……」
形勢は不利だが、それ以上に何かがおかしい。
一瞬でこの場の全てを滅ぼしかねない程の力を彼らは確かに感じていた。
実際そうなることを危惧して飛び込んだというのに、無力化されたとは言え仲間二人は共に生きている。先程の攻撃もあのまま貫手を放っていれば部隊長は死んでいたことだろう。
「俺達を、殺す気が無い……?」
未だ溢れる狂気と殺意の奔流の中、その行動の理由を呟いた彼は矛盾が過ぎると頭を振って己の思考を否定する。
だが、ならば、彼女は一体どうして手を抜いているのか、理解することは出来ないが……。




