142.王の器、証明せり
堂の外、併設した広場は、拓かれたままの土地が多いこの国においても、また一際と殺風景なものであった。
唯一土地を区切る為粗雑に埋められた柵と、空き樽が幾つか並ぶだけ。
土は程々に柔らかく農耕に適しているだけに、この国がどれ程の発展性を秘めたまま滞っているのかが良く分かる。ともすれば、王がもう少し領地の発展に尽くしたならば、古豪の国々に負けぬ程豊かな国となるだろう。
故に、ライネスは故郷の土を踏みしめながら一つの考えに至っていた。
己の眼前に佇む華奢な少女。つい先日なんの前触れも無く現れ、自らを王族と僭称して見せた不埒な女。この場で彼女の化けの皮を剥ぎ、完膚なきまでに叩きのめしてしまえばあの頭の固い老害も考えを変える筈だと。
元より獰猛で野心の強い男であったから、先代魔王の治める時代より疑問を呈していたのだ。魔人と言う強大な種でありながらも覇道を歩もうとしない王にも、牙を抜かれてそれを是とする臣下たちにも。
ならば、ここで魔王に由縁する竜人の女の膝を折る事によって、停滞する竜の王の時代に終止符を打てばいい。
その後の展開次第ではあれを魔王の血族と認める事になるが、獅子の王が君臨する時代への変遷を齎す為には必要な事。むしろ、あのような酷く華奢で脆弱な小兵に玉座は相応しくないと、老害共が思い出すきっかけとなるだろう。
本来強者のみが上に立つのを許された筈の国で、血統を重視する事の方がどうかしているとすらライネスは思っていた。
「好きに打たせてやる、来い」
――――その一言で我に返れば、無手のまま佇む灰被りの少女が視界に映る。
彼女は留め金を外した外套をエルフの従者に預けると、半ばから欠損している左腕を後ろに体を半身へとずらした。獅子の男には、何故四肢の一部を失う事態があったのかは知る由も無いが、人形もかくやと言わん美貌の少女には似つかわしく無い傷を見て、彼女への印象が上塗りされて行く。
これは一筋縄ではいかないぞ、と。
仮にも魔王の孫を僭称する女だ。本物だとしても嘘を吐くにしても、相応の実力は持ち合わせているのだろう。今はまだ拙いだろうが、数年もすれば多少はまともな戦士となる事は目測でも十二分に測れる。
それでも己には未だ届かない領域での話ではあるという注釈付きではあるものの、この一戦の後に伝えてやってもいいとすら思えた。それが為に、今は自惚れだか慢心だか、無用な感情を捨ててようやく動き出す。
「がぁあ!!」
空気を揺らす咆哮の直後にその巨体が隆起し、大上段に木剣が持ち上げられた。
それだけの動作にも関わらず、背後に控えた文字通り虎の子の戦士団は毛を逆立てて委縮している。何千と剣を交えて来た彼らだからこそ、獅子の剣がどれ程までに凄まじいかをよく理解していたのだ。
決殺の一閃、百獣の王の裂帛の剣筋はしかし、灰被りに届く事は無い。彼女は大仰に躱すどころか、小さく身を捻るだけでその渾身を躱して見せた。
「そこだぁ!!」
肌に掠る事すらせず接地した木剣の先はすぐさま持ち上げられ、再び平行に振るわれる。
横薙ぎの一撃は摺り足で後ろへ退くことで避け、連続して繰り出される小刻みな突きに対しても灰被りは同様の対応を取った。すべてが紙一重と言える回避の技巧に、一定の距離を保ったまま好きに動けている筈のライネスは思わず唸る。
「どうした? 当てる気が無いのか? 眠い太刀筋だな、目を瞑っていても避けられるぞ」
彼女が無手のまま故、反撃の手段に乏しいからではなく、宣言通りに打たせて貰っているのだと理解したからだ。
回避に徹していると聞けば、武術の嗜みがある者ならば相応に動けるとも思えるが……それは違う。先程から彼女は一拍、確実に反撃を挿し込めるであろう間を必ず作ってから全ての手をいなしているのだ。
もし手元に得物があるとしたならば、灰の少女は無傷のままライネスへ十もくだらない程の傷を与えていた筈である。
「なんとも……この、俺が……!!」
精強を誇る獅子の頭目であっても、ここまで立ち回りの上手い者に出会うのは初めての事だった。
訓練用の木剣とはいえ、叩きつけた際の威力としては刃引きされた鉄剣とそう大差はない。大抵はそういった痛みに対する恐怖や単純な緊張、自信から来る慢心委縮が入り混じる事で動きに無駄が生じる。
しかし、目の前の彼女はそれが無いに等しく、ライネスがどれだけ深く踏み込んだとて一撃を見舞う事すら敵わないと思えてしまった。
「少し殴るが、舌は噛むなよ」
腕を突き出す形で空振りした直後、懐へと潜り込んだ灰被りはそう告げると共に獅子の下顎を二度殴りつけた。
拳の背で軽く扉を叩くような動作だったにも関わらず的確に脳を揺らされ、一瞬視界が白くぼやける。堪らず手隙の腕を振り回してその矮躯を捕えようとするが、手のひらでやんわりと受け流され、逆に鳩尾へと膝蹴りを喰らってしまう。
「ふっ……ぐっ……!?」
そうして寒気にも似た不快な痛みが脳髄へ走った時にはもう遅く、完全にライネスは手玉に取られていた。
距離を取ろうと闇雲に剣を振り回したところで、何の牽制にもならずに彼女はその隙を縫って肩と脇腹へ続けざまに拳を撃ち込む。そして肩口に強打をもろに受けた為か腕が上がらず、その後の肋骨を圧迫するようにして押し込まれる肘鉄を甘んじて受け入れてしまった。
横隔膜が機能せず、肺の空気も全て押し出されてしまう。分厚い胸筋にめり込んだ細腕が、ゆっくりと遠ざかっていくというのに獅子は指の一本も動かせない。否、反撃を御されていた。
「こ……っの、俺が……!」
不甲斐ない、自分から喧嘩を売っておきながら手も足も出なかった事実にライネスは激憤する。
相手を矮小な女と侮ったが為に態勢を崩される展開自体、もしやすると彼女の狙い通りだったのかもしれない。体格と言う明白な付け入る隙を見れば、誰だってそう思うだろう。
故に、対峙する少女を侮った無礼を胸中で詫びた。獅子は獲物を狩るならば何時であろうと死力を尽くすと言うのに、それを忘却していた己を酷く叱咤した。そして何より――――これが実戦で無くて本当に良かったと、心から思った。
「驕っていたとは、笑止千万よ!」
今再びの咆哮と共に強く地面を踏み鳴らすと、激昂の獅子は木剣の柄を短く持って弓なりに引く。筋肉が軋むほどの膂力と、熱気のような魔力の昂りが腕へ伝い、剣そのものへ尋常ならざる破壊の属性が付与される。
「親父殿、それは流石に不味いです! ルフレ様が死んでしまいますよ!!」
――――ああ、そう言えばルフレとかいう名前だったな
荒れ狂う暴性を目の当たりにしても尚動揺の色を見せないその少女の胆力に何故か笑いが沸き上がり、獰猛に眇めた目とは裏腹に口角が吊り上がる。ライネスはこうなればもう、己の全霊を賭した一撃を見舞わなければ、失礼に当たるだろうとすら考えていた。
「手前が本当に魔王の血を継ぐ者ならば、耐えて見せろよこの一撃……!」
その言葉と共に振り下ろされる必滅の一刀、触れただけで骨が拉げる程の威力を秘めた渾身は竜人の、ルフレの鼻先を掠め――――
「《獅天爆砕牙》!」
足元へ叩きつけられて爆ぜた。
湿り気の強い大地は漏れなく引っ剥がされ、爆発じみた衝撃波によって土煙が舞い上がる。直撃こそせずとも今の一撃を至近距離で受けたのならば、無事でいる道理などは無いと誰の目にも明らかだった。
「うん、中々に気合の入った攻撃を見舞ってくれたな。今のは少し拙かったぞ、土を被る所だった」
……土煙が晴れると同時に、その予想は大きく覆されることになったが。
「…………マジ、かよ」
堂の入り口前で二人の戦いを見ていた氏族の重鎮たちはおろか、首都訪問の目付け役である蟲人でさえもその光景には絶句を禁じえない。
白熱する雷光が彼女を覆い、先の攻撃による一切を文字通り拒否していた。体の先から不規則にスパークを迸らせるそれが、尚も彼女の周囲で堆積する土塊を破壊するのを見て、獅子の男は悟る。直撃していたとて、九分九厘掠り傷すら与えられなかっただろうと。
稲光を纏う乙女は何が面白いのか、嫣然とした表情でライネスを見やる。その時にこの男はようやく、そもそもの次元が違ったのだと悟った。『暴力』そのものとも言えるような、圧倒的上位者相手に挑んだことの愚かさを今度は呪った。
類まれなる戦いの才能と、幾つ死線を超えて来たかも分からないその経験値の高さ。再三目測を見誤った事を今更悔いても遅いが、先の時代より生きるあの老骨二人が何の疑問も抱かずに王の器と認めた事にようやく納得が行く。
成程これは、凡夫が幾ら努力したとて、決して辿り着かない領域に足を踏み入れているではないか。
運命に愛された――――もしくは呪われた――――遍く生命を凌駕する特別な存在、特異点や覚者とも呼ばれる世界の寵児。正しくその存在が己の目の前に現れる等と、考えた事は無かった。
「私に魔法を使わせた褒美だ、少しいい物を見せてやろう」
そんな彼女はまるで弟子に教えを説く師のような、いっそ見下しているともいえるような物言いをする。
「そうだな――――有すは軽銀、それと黄銅、最後に硫黄。叩き爆ぜろ。始原は水に、炉へと解す。己身を介し、その御業を、振いたまへ」
ややもすると、八小節の詠唱によって紡がれた詠唱術式は白皙の少女の手に魔力を集め始めた。
これまでに聞いたことの無いような改変の成されたその術式がどんな結を齎すのか。どちらかと言えば剣に傾倒していた為に想像もつかないライネスであったが、直ぐにその野生の勘とも言うべき第六感が死の予感を告げた。
「当たると多分死ぬから、避けてくれよ」
否、それは予感などでは無く、明確な死の宣告。
少女の白く滑らかな掌が熱を帯びると、火花を放つ光の球のような物が生まれる。それが何かも分からないままに、彼女は獅子へと光球を放った。対して、殆ど咄嗟の条件反射と言ってもいい、それ程の無意識でライネスは光球から逃げるように身体を仰け反らせた直後。
「――――《熾天使の燐光》」
鼻を衝くような腐臭と金気と共に、光球が平行な十字に連なる白燐へと遷変し、爆ぜた。
十字の外膜ともいえる魔力障壁の内側では連鎖的に爆発が巻き起こり、白い炎が天へと高く昇っていく。熱量としても相当だが、あれほどの連続した破砕に巻き込まれれば、頑強な魔人であろうとも間違いなく命は無かっただろう。
「あ……はは、まさかここまでの大規模戦術魔法を個人で行使するとは……やっぱりあの人の子だなあ」
「も、森が消え……消えて……」
建物を避けるように放たれたとはいえ、その爆発に巻き込まれた森の一部は漏れなく木片すら残さずに焦土と化していた。そんな十字の焼印を森へと捺した存在を目の当たりにして、ライネスは再四己の目が節穴であった事を思い知る。
「さて、これで分かって貰えたならばいいけども」
大した手傷も負わせずに、たった一本の腕で獅子の頭目を屈服させて見せた少女はそう言って笑う。
ただ、力の差をこれでもかと見せつけられたにも関わらず、ライネスの胸中に去来していたのは屈辱でも怒りでも無かった。もっと尊く、純粋な尊敬の念が沸々と体の底から沸き上がっていたのだ。
「私が正当なるウィステリアの血脈である事を、お前は未だに疑うか?」
「滅相も無い。御身こそがこの国を統べる王、私なぞが軽率に疑う事自体間違っておりました」
冷たい美貌から投げかけられるその問いに、獅子は膝を折り、首を垂れてそう返答した。真に仕えるべき王に出会えた喜びと共に、彼女の不興を買った事で潰えた己の未来に対する後悔が沸き上がってくる。あれ程までの無礼を働いたのだ。命は無いであろう事は明白だったが、それもまた摂理だろう。
むしろ、過ちを自ら気付かせるような寛大な対応を取って貰えた事に感謝の念すら覚えていた。
平伏した獅子の後頭部へ宛がわれる柔らかい掌の感触を感じ、静かに瞑目する。恐らくは手を据えただけで縊り殺す事も、先程のように焼滅させる事も彼女には容易い事である筈だ。ライネスは、この首一つで済ませて貰える温情に感謝しながら命の終わりを待つ。
が、
「お前のその怪力は色々と役に立ちそうだ。今後は色々と立て込むだろうが、よろしく頼むぞ」
金の鬣をするりと手櫛で撫でるだけで、白皙の少女は獅子の肩を一度叩くと、堂の方向へと歩いて行ってしまった。狼狽する獅子は、暫く呆けた後に己の過ちが咎められることなく許された事を理解した。
王の器とは、強さのみに非ず。その寛容さこそが最も偉大なる武器である。
よろしく頼む、と最後に耳へ残った言葉を何度も反芻しながら、獅子は口角が上がるのが抑えきれなかった。これより始まる新たな王の時代をこの目で見られるという事実に、何物にも代えがたい興奮と歓喜に震えて。




