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122.蛇神・三

 その者は森の奥から姿を現した。


 長大な身をくねらせ、湿った土の上を滑るように、その感覚が捉えた熱に向かって這う。


 沈黙を守る石壁の底冷えするような冷たさの中、四尺八寸程度の大きさを持った生物がしんと佇んでいる。夜になってから振り出した雨がしとしとと木々を濡らし、それもまた雨粒に打たれながら近づいてくる何かを認識しているようだった。


 りん、りん、と鈴鳴りのような音が森の中に木霊する。


 虫も草も木も息を潜めたように静まり返った空間では雨音と、何かが這いずる音と、鈴の音だけが木霊する。


 りん、りん。


 ややもすれば、聞こえるかどうか程の大きさで囁かれる女性の声音が混じり始めた。よく聞き取ろうと耳を澄ませても、下手な笛のように掠れた音を拾うのみ。


 りん、りん、りん。


 段々と鈴鳴りの間隔と、音が広く大きくなっていく。


 何かが近づいてきている、そう確信せざるを得ない。尚も大きくなる鈴の音、そして雨音とは違う粘着質な水音まで立ち始めた。ただ遠くから見ているだけだというのに、寒気が背筋を這い回り、心臓を直接手で握られたような圧迫感が身体に圧し掛かる。


 音により掻き立てられる想像と畏れが、無意識に足を震わせて仕方が無い。


 すると、自分たちよりもナニカに近しい場所に立つあの人は、もっと恐ろしい気分を味わっているのではないかと、ゾッとする。決して命に差し迫るものではない筈なのに、じわじわと締め付けるように恐怖心が心身を侵していくような感覚にさえ陥っていた。


 りん、りん、りん…………りん。


 鈴の音が止んだ。


「……ぁ」


 恐らく見つけたのだろうと、彼女はそう思い、より一層自身を隠すその見えない壁を分厚く形成していく。その時、手のひらも額も、首回りまでもが酷く汗ばんでおり、自身が怯えている事を悟った。


「あ」


 だが、それでも何もしないで見ている他にはない。万が一にでもこちらに興味が移れば、どうなるかは分からないのだから。


「あーーーーーーーーーーーーーーーーーーー」


 そして、止んだ鈴が再び一度だけ音を奏でると、深淵の洞から何かが顔を出した。四対の触覚のようなものと、その先に付いた目玉のような器官。まるで蝸牛のような容貌だが、触覚の下からは人間の腕が伸びてる。


 右側に四本と、左側に三本。


 ここから見ただけではその全てが右手であり、細やかな女性の腕だった。思わず声を上げそうになった口を両手で抑え、その異形としか言えない姿を凝視するが……直後、その判断をした事を後悔する事になる。


 引き摺るような音を立てて残りの下半身が現れたが、その全体像は悪夢としか言いようが無い。


 腰から下へ伸びていたのは人間の下半身でも、ましてや蛇などでは断じてなかった。粘液を撒き散らし、ゴボゴボと耳障りな音を立てて幾つもの人の顔や腕、果ては指が煩雑に絡み合い、一際大きな四本の手足があり得ない方向へねじ曲がって体を支えている。


「あ、あ、あ」


 先程から抑揚の感じられない声を上げながらも、一人立つ少女の目の前で頭部を傾げて見たり、無数にある腕を体へ伸ばして触れて見たりするそれは、正しく邪悪そのものが形を取ったような姿。


「あ」


 妖怪、はたまた邪神、見ただけでSAN値が削られるような冒涜的な外見は、この世界で数多の怪物を目にして来た《魔女》にすら精神的なダメージを与えた。それこそもう、気をやって後ろへ倒れ込みそうな程に。


 ただ、それをしなかったのは、ひとえにあそこで佇む少女がいたからである。


 触れられただけで発狂ものの化け物と相対して、彼女は一切の動揺を見せる事無く立っているのだ。遠くで待機しているだけの自分が倒れるなどと飛んだお笑い種だろうと。



***



 野鼠喰陀蛇は人間のような意思を持たない。


 はじめはただそこにあるだけの邪悪であり、人間の恐怖や愛憎といった感情を喰らう魔種に過ぎなかった。生贄を要求したというのも、勝手に人間が女を押し付けただけ。陀蛇にしてみれば、領域に入り込んで来た餌を食べた以外に他意はない。


 しかし陀蛇は、次第に彼女らが絶命する瞬間まで持ち得ていた感情を身に取り込んで変質していった。


 いわば祟り神のような性質を宿し、自らを差し出した家族や村民へ抱いた恨みをそのまま災厄として振りまくようになったのだ。神として畏れ崇め奉られ、名持ち(ネームド)と化した陀蛇は、今年も生贄の精神を生きたまま喰らい、脳を侵そうとそれらしき存在の前に現れたのだが……。


 目の前のソレは明らかに異質、今まで喰らって来た女とは全くもって違う存在に見えた。


 尚、それは外見云々の話では無い、精神的に常軌を逸しているのだ。見ただけでも気が狂うような瘴気を纏う陀蛇を見て、心揺らぐどころか値踏みする色さえ伺わせる。


 それでも抵抗は見せないので今までの生贄と同様に心を壊す為、腕を伸ばし体を掴んだ瞬間の事。陀蛇は違和感の正体を知ることになった。


「あ」


 少女の心に触れてまず感じたのは複数の視線。


 粘着質かつ好意的とは言えないそれに、何事かとその元を辿れば巨大な瞳と目が合った。


 それが、顔を横にして目線を合わせようとしていた、巨大な煤で出来たヒトであることを理解するまでに三秒。四つん這いになり、弦月もかくやと言わんばかりに口を狂気的に歪める姿は、六十年間耐えがたき苦痛の念を喰らって来た陀蛇であっても初体験の事であった。


 深淵、そう形容するのがもっとも相応しい精神の歪みが、ジッと異形を見つめている。だが、視線はそれだけでなく、背後から形を変えて此方を見つめる青白いモノからも注がれている事に陀蛇は気が付いた。


 陽炎にも似た姿は、絶えず揺らめき一定の形を維持せずに、それでも理解しがたい好奇と言う名の感情を乗せた視線だけは常に陀蛇へと向けられる。この二者は等しく狂気であるが、真に悍ましい気配を漂わせていたのは、前面に横たわる煤男のその更に奥。


 そこで、自我を持たない陀蛇は――――生まれて初めて懐かしさというものを抱いた。


「ヒカル」


 少年がそこにはいた。


 とっくに日など沈み切った筈だというのに、赤灼に照る夕陽が窓から差し込み部屋の中を照らすその中で、たった一人黒い髪の男児だけがジョイントマットの上へ座り込み、此方を見ていた。


 鮮烈でありながらどこか色褪せたこの光景は、根源的な悲しみの情を呼び起こさせる。何故かは分からないが、陀蛇は心臓を抉られるような憧憬に駆られ、思わず心を喰らうという目的も忘れて少年に見入った。


 初めて聞いた音楽が懐かしいと思えるように、匂いが海馬を刺激して記憶を呼び起こすように、陀蛇は黄昏に伸びる影を見つめる。


 だが次の瞬間、衝撃で強く揺さぶられたような感覚が襲い来たと思えば、陀蛇の目の前にはただ陰鬱とした森が広がっていた。視線を下ろせばそこには、変わらずに立っている贄の少女。


「見たな?」


 今まで目にしていたのは、全てこの少女の精神そのものである事。そして、壊すどころか、心の隙間に入り込む余地すらない事を悟った時にはもう遅かった。見たな、と言葉が一体何に対して当て嵌まるのか分からずとも、覗き見たことに対して少女が何を思っているのかくらいは、陀蛇にでも理解はできる。


 収縮した瞳孔が陀蛇を捉えると、彼女の背後から殺気が膨れ上がった。


 直後、魔石へ突き刺さった刃の冷たさを感じた陀蛇は、瞬間的に自分が死んだことを理解する。


 いや、死んだと錯覚させられた事に、数秒経ってから気付かされたのだ。


 余りにも鮮明な殺意に晒され、自分がどう殺されるのかを無意識に想像してしまったというのが正しいか。とにかく、意志の力のみで異形の怪物に死を幻視させる程の力を目の当たりにして、ようやく陀蛇は少女がこの身に危険を及ぼす存在であると察さざるを得なかった。


「あーーーーーーー」


 尚も動かない少女を七本の腕が掴み上げ、鬱血する程に力を籠める。


 しかし、まるで硬い岩でも握っているかのような感触に違和感を覚えた次の瞬間には、腕の半分が切り飛ばされていた。


「あ、あ、あああ」


 感情を表す事のない陀蛇はこの時に一体何を思ったのか、それは定かではないが……抵抗する間もなく、最速で繰り出される剣閃が残った腕も根元から切り刻む。血の通わない肉体から腕が切り離されると、彼女はすかさず剣戟に仰のく胴体を乱切りにした。


「うわ、拙いなあ……というかキモッ、なんだこれ、はんぺん?」


 白色の胴体がものの数分もしない内に辺りへ散らばる肉片へと変貌、下腹部に埋まった巨大な魔石が露わになる。


 可憐な唇に似合わない罵り声を上げながらも、少女は鈍い赤色を放つそれを周囲の肉ごと毟り取った。すると、先程まで直立させていた上体は崩れ落ち、解けるように四肢がその身から剥がれて行く。


 そうして露わになった本来の陀蛇の姿を見て、


「ミミズ……?」


 思わずそんな声が漏れる程、化生本来のそれは禍々しさとはかけ離れた容貌だった。


 紙粘土を掌で細長く捏ねただけのような……言ってしまえば大きいだけのただの白い虫、白蟲(はくそ)という魔物が野鼠喰陀蛇の正体のようらしい。今までに喰らった女の数だけその身に怨念を溜め、あのような姿へと変質を遂げたと考えるのが妥当と少女、ルフレもそう考えた。


 元より神の名を着せられた紛い物である事は、この世界に住まう真なる神々が、己ら以外の神の存在を許容していない事から理解はしていたが。それでも、拍子抜けするほどに弱い――――相対的に見ればルフレが常軌を逸して強い――――事に訝しみを覚えていた彼女は、得心したように大きな息を吐いた。


 まるでもっと面白い戦いがしたかったと、そう言わんばかりに。

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