106.二十一万年分の食費
ルフレちゃんは基本貧乏性なので計算の基準が最も価値の低いパンなのです。
木製の扉に嵌められた鉄の蝶番を何度か鳴らし、ジンが先行して部屋へと入っていく。
「おお、来たか」
支部長室にて待ち受けていたのは、頬の辺りまでびっしりと髭の生えた壮年の男性と、眼鏡をした如何にもインテリな容貌の青年だった。入口横に女性職員が一人控えており、部屋に唯一ある机にも書記と思われる職員が着席している。
そんな間取りの中に置かれた、黒い革張りのソファへ座り込む髭面の人物だけは見覚えがあった。
確か、ルヴィスの支部長と、この国の支部を纏める元帥を兼任している偉い人の筈。その横のは、面子からしてこの支部の支部長で間違いないだろう。
「おう久しぶりだな、嬢ちゃん。六年ぶりだっつーのに背も胸も小さいままだな! ガハハ!」
「……マスターバルダザール、女性に対してその物言いは失礼ですよ」
片や明け透けな物言いで豪快に笑い、片や困ったように目を伏せて溜息を吐く。
私はそれを適当に聞き流しつつ、職員の女性に促されるままソファへ着席。さて、右隣にメイビス、左にはジンという布陣で彼らに相対する訳だが……。
「じゃあ改めて一言。一冒険者として俺たちの矜持を守ってくれた事、感謝するぜ」
「最初にそれが言えないのですか……全く。ですがその通り、貴女のお陰で組合の面子は保たれました。本当にありがとう」
「あ、はい……」
なんというか、ここ数日感謝されてばかりでむず痒い。
私としては自分のやりたいようにやった結果偶然そうなっただけで、冒険者組合の矜持だとか面子だとかの他意は一切無かった。それなのにこう……自覚無しに上げてしまった功績を持ち上げられると、なんだか嘘を吐いてるような気分になってしまう。
「なんだなんだ、あんまり嬉しそうじゃねえな! ……あ、そうか、報酬について心配なら問題はねえぜ。事後発注された依頼は、ちゃーんとお前さんたちが達成した事になってるからよ」
「それにつきましてはまた後程詳しい説明をしますが、まずは事情聴取から行きましょうか。こういう面倒事は早く終わらせるに限ります」
インテリ眼鏡、話が長い堅物かと思いきや案外そうでもないらしい。
大抵貴族の会話ならばここで婉曲した詩的な言い回しでの探り合いが為されるのを考えると、彼もまた"冒険者"ということだな。政治・事務的な面倒事を嫌う私達らしい考えとも言える。
――――それからは、現代日本の警察やら法律事務所やらでされる事情聴取と何ら変わらない話が続いた。続いたと言っても、書面に記載されている内容を確認して、齟齬が無いか事実と照らし合わせる作業が大半だったが。
終わってから聞けば、元々大方の話は既に解放された他の冒険者に聞いてたので、最終的な確認程度で済ませるつもりだったらしい。ダブルチェック、トリプルチェックを徹底するのはやはりどの世界の事務職でも必須という事か。
肝心の損害賠償については結構な額になるようで、国家間の貿易取引に用いられる王金貨が四桁枚数とかいう、とんでもない数字を目の当たりにして眩暈がした。勿論一括では無く何十年にもわたって支払わせるつもりらしく、眼鏡の人曰く『弱みは長い期間握っていた方が得なので』だとか。
こうした国相手に有利な駆け引きを持ち込む支部長たちの辣腕こそが、組合がここまで巨大な組織になった所以でもあるのだ。
「次は先程の話を踏まえてあなた方の報酬についてのお話です」
そうして、概ねするべき話を終えた辺りで眼鏡の人はそう切り出した。
「賠償金の十パーセント、つまり王金貨四百枚を分割して送金します。加えて功績点の加点がされますので、ルフレ殿は二ヵ月後に控えた位階変動で暫定Sランク昇格が、ジン殿はAランク昇格の受験資格を得ました」
「おうきんか、よんひゃく……まい……?」
王金貨四百枚とはつまり、過去に私が苦労して買っていた堅パンが一つ銅貨二枚と小銅貨五枚なので、それがなんと一億六千万個買えてしまうという事になる。この国の生活様式である一日二食を考えれば……おいおい、二十一万年は食費が賄えるぞ!?
もちろん、これは他の支出を一切勘定に入れない計算なので実数値はもっと低くなるが、それでも凄まじい金額である事は伝わっただろう。私、一発で文字通り億万長者になってしまったようだ。
所得税とか、確定申告とか、高額納税者ランキングとか、諸々の単語が頭に浮かんでは消え、浮かんでは消え。一瞬、ここが異世界である事を忘れてしまいそうになる程の衝撃を受けていた。脱税とか心配しなくていいよね?
それと、お金の方に意識が行きがちだが、もう一つの報酬である功績点についてもヤバい。
「Sランクってことはつまりお前、白金証保持になんのかよ……」
「そ、そうらしい……。ぜんっぜん自覚は無いけど」
「あくまで暫定ですので、ランキングが締め切られる二ヵ月後の数値次第ですがね」
眼鏡の言う通り、AからSへの位階変動は毎年ほぼ不動で、白金の下位五名にしたって金の上位五名とは隔絶した差が存在するのだ。その為功績点の実数値自体は明かされていないものの、彼らは明らかに難度の高い依頼ばかりを受けていると考えて良いだろう。
そこへまだ新人と呼べる輩が食い込んだと言うのだから、今回の功績点の高さが伺える。
まあ……そんな異次元のポイント争いに、腕と武器を失ってそれどころでは無い私が二ヵ月後に喰らい付いている可能性はちょっと低そうだけど。元々Aランクになれただけでも十分に凄いと個人的には思っているので、昇格出来なくとも特に気にしないが。
「ざっとこんな感じですね。あとは……何か質問はありましたらお答えしますが」
「おう、一つ聞きてえ事がある」
「なんでしょう?」
「昇格試験って言うのは、具体的に何をするんだ?」
Bランクから初めてAランクへと昇格する際は一度試験を受ける必要があるのだが、実はその内容と言うのがあまり冒険者たちには知られていない。
そもそも金の三十人と白金の十五人の合わせて計四十五人しかいないので、母数の少なさ故に情報が出回らないと言うのもある。だが、理由はそこでは無く、そもそも毎年試験の内容は違うので情報に価値が無いのだ。
「それについては受験時まで明かせない規則となっていますので、答えかねますね」
「なんだよそれ……」
ジンの疑問は解消される事無く無情にも眼鏡が切り捨てるが、その気持ちも分からないでもない。
私の時だって、いきなりギルド留めで手紙が来たと思ったら『そこで試験を受けろ』だなんて文面で受験させられたのだ。因みに試験内容は筆記と指定された魔物の討伐で、丁度その魔物を狩って来た帰りだったので難なく合格したが。
「でも経験者から言わせて貰えばそんなに難しくないから、あんま構えなくても大丈夫だよ」
「そ、そんなもんか?」
「そうですね。不合格者はここ数年出ていませんし、問題ないでしょう」
「だな。まあ精々頑張るこった」
ニヤリと笑うギルマス二人と私。そんな彼らの口元が、嫌味に歪んでいた理由が分からないのはジンだけだろうな。なにせ、今の発言は半分嘘である。確かに"ここ数年"不合格者は出ていないが、何人が試験に挑戦したかまでは口にしていない。
尚、二、三年前に昇格した私の後で、試験を受けた者はいないとだけ言っておこう。そして、私の時の討伐指定魔物はあの黒蟲や炎竜と並ぶ討伐難度A、凶悪極まりない火喰鳥と呼ばれる巨大な怪鳥だった。
熱を受け付けない上に、生半可な水魔法なら蒸発させてくる相手に私も少し手こずった覚えがある。当時は耐熱性の高いコートの素材にしたかった為に頑張ったが、暑いのが苦手な私はあまり好んで相手をしたくない奴だ。まあ、今なら多分秒殺できるだろうけど。
ともかく、Aランクに上がるにはそれなりの実績と、クライアントからの多少無茶な依頼もこなせる戦闘力を示す必要があると言うことだ。ジンなら八割合格は堅いだろうけど、それでも舐めてかかっていいものでは無い。
精々頑張って欲しいものだな。
「で、今更なんだが……そっちの嬢ちゃんは……なんだ?」
「……わたし?」
と、先程から言う機会を伺っていたのか、バルダザール氏は私の横にちょこんと座るメイビスを指してそう言った。今の今まで大人しく話を聞いてた彼女は、注目が集まったのを感じてキョトンと小首を傾げている。可愛いな畜生。
だが、彼の言う通り確かに私はメイビスをわざわざ同伴させた理由を言っていなかった気がするので、そろそろ切り出すとするか。
「ええっと、こいつは冒険者登録希望者なんですが……」
「なんでぇ、登録なら俺達が話してる間にでも窓口でやりゃあいいじゃねえか。どうしてまた」
「そう、それなんですけど、特待制度を適用して欲しいんです」
「成程、飛び級希望者……ですか」
そろそろ名前を教えて欲しい眼鏡氏がそう言って、フレームの縁を押し上げる。そんな彼の言った飛び級――――特待制度とは、元々騎士や宮廷魔導士であった者たちが冒険者になる際に、前職の実績や技能を鑑みて高位のランクから冒険者を始める事の出来る制度だ。
中途採用で部長クラスの役職を貰うベテランリーマンと言えば伝わるだろうか。
「つまり、この嬢ちゃんは試験を受けると?」
「はい」
「本当に大丈夫か? この娘もまだ子供だろ、お前さんだってあん時は……」
「……む」
当然それには審査として経歴が証明できる文書や紹介状が必要で、更に実技試験で実力を試されることとなる。尚、この制度で始められる最高ランクがBまでであり、そこまで行くと地道に働いて昇級するよりも難しく、エイジスも私にはEランクまでの飛び級しか許してくれなかった。
「……人を見かけで判断しない事」
「本人がそう言うなら、まあいいが……」
バルダザール氏はまだメイビスを子ども扱いして見ているが、彼女の実力は疑うまでもなくBからAの下位あたりはあるし、私が心配することは何も無い。
「暫定Sランクが認めた彼女の力、私は興味ありますがね」
「いや、俺も別に疑ってるわけじゃあねえんだが……」
「……ふん、目に物を見せてあげる」
そう、何もない宙を見ながら困ったような顔でバルダザール氏が言うと、メイビスは鼻を鳴らして目を細めた。これはどうやらバルダザール氏、彼女のやる気スイッチを押してしまったらしい。
***
ギルドマスターたちの事情聴取が終わると、部屋の外では先刻の凄まじい慌てようを見せていた女性職員が待ち構えていた。
「お、おおおっ、お疲れ様です!!」
「あ、うんお疲れ」
「し、試験は第一演習場で行いますのでっ、この廊下をあちらへ真っすぐにどうぞ!!」
元々せっかちなのか、それとも緊張しているだけなのか。それだけいうと彼女は脱兎の如く受付の方へと走り去っていく。全く、せわしないやっちゃ。
「……それで、あの男はいた?」
「いや、今日は顔を出していないみたいだ」
メイビスの問いかけに私はそう答えると、入り口の方を横目で一瞥した。
昨今のファンタジー小説にありがちな酒場が併設されているという謎設定などは存在せず、どちらかと言えばお役所の雰囲気に近い建物内にはむさ苦しい男の姿ばかりがちらつく。まあ、事務仕事をしている横で酒を飲まれても迷惑なわけだが。
「聞いた情報だと細身で金髪の優男って感じらしい。それとあの男は魔人種だとか」
私の見る限りだとあそこには人間に似たゴリラしかいない。いや、ゴリラに似た人間か。ともかく、探していた人物は不在のようだったので、メイビスの飛び級試験を受けに私たちは演習場へと足を向けた。
その瞬間、
「――――おやおやそんなに血相を変えテ。ワタシはずっとキミたちの頭上にいたんだけどネ 」
私を含む全員が気配を感じて一斉に同じ方向を向いて、そこに佇む人物の姿を目に捉えた。
天井に足の裏を付けて長い肢を優美にしならせるその男は、完全に逆さまの状態で私たちを見下ろしている。その容姿を見てか、ジンが青褪めているものの、私にしてみれば言うまでも無い程の僥倖。
「金証保持、《奇譚の詠手》ホメロス……」
どうやらこちらから尋ねるより先に、待ち人は来たようだ。




