101.憤怒の竜
肌にへばりつくような湿度の高い熱に魘されて、やや億劫さを孕んだままの意識が浮上する。
いつの間に閉じていたのか、ゆっくりと瞼を開ければ、目の前にはコンクリートで固められた筒状の棒――――電信柱ともいう――――がそびえたっていた。目の前にそれがある事に何故か疑問を抱く事も無く、住宅街の路地らしき道の真ん中へ視線を移す。
はて、ここはどこだったか、見覚えがあるような無いような……。
ひし形にくりぬかれたセメントブロックの塀から覗く、盆栽の影をぼんやりと見つめながら、海馬から情報を引き出すべく記憶の底へ沈み込んでいく。視界左上に坐する看板を見ると、《東京都 練馬区 大水学園町二丁目》と言う文字が白いフォントで刻まれていた。
ああなんだ、そう言えばここは前世で住んでた家の近所じゃあないか。
つまりは……。
「夢、だな」
目の上で揺れる白い髪を一瞥してからそう呟き、自分の頬を抓るも痛みは皆無。だと言うのに、以前に似たような事があったせいか、一切の動揺どころか『またか……』と言う気持ちの方が強い。
しかしだな、私は激しい戦闘をした後に明晰夢を見る癖でもあったのか?
以前は元の男の体だったとはいえ、今回もシチュエーションは似たようなものだし。そうなると、また何かしらの出来事が起こりそうなものなのだが、生憎と路地に人の気配は一切ないな。
「まあ、夢ならその内目覚めるか」
夢の中とは言え、取り留めのない考えばかりに意識を割くのは時間を無駄にしている気がして、少し歩くことにした。
だが、不思議な事に記憶の中にあった道そのものの筈なのに、一向に途切れる様子が無い。交差点がある筈の場所も何故か真っすぐで、延々と直線の道が、何処かへ向かって続いているのだ。
しかも振り返ってみれば、先程まであった道は高い塀に塞がれており、後戻りも出来ないと言う親切な仕様である。なにやら見えない誰かに乗せられている気がしないでもないが、こうなったら行ける所まで行くしかないだろう。
そうするとまた益体の無い事ばかりが頭に浮かんで来て、つくづく考え事をしてなければ落ち着かない性質である事を自覚させられる。
あの後、ジンはちゃんと他の区域にいる奴隷たちを解放出来たのだろうか?
というか、私の本体は大丈夫だよね……?
意識が無い間に殺されてたりでもしたら、もう一生目を覚ませないかもしれないが、その可能性は薄いと信じたい。憶えてる最後の状況からして、メイビスに好き放題されているという可能性は否めないが……。
起きたらまず一番に私の貞操が守られていたかを確認しよう、話はそれからだ。
あとは今だ宙ぶらりんになったままの問題が山積みな件についてだなあ。関わってしまった事に後悔はしてないけど、起きた時にどうなってるか不安で仕方がない。
「それに関しては問題は無いかもね」
ふと、前方からそんな声がした。
その――――鈴を転がしたような音色が耳朶を擽ると、私の中で燻っていた不安の火種が掬い取られて行くような感覚が去来する。
「お前の仲間は優秀なようだ、起きる頃には大半が片付いている事だろう」
まるで、冬の日に差した陽だまりに当てられているかのような充足感が心を満たし、頭の中へ自然と染み入る声が警戒心を抱かせる事無く、その声の主へと視線を向かわせた。
向かわせて、そして目を奪われた。
いつの間にか周囲の景色が変貌しており、私は見慣れない部屋の中にいて、その人物は目の前にある白い椅子へ腰かけて優雅に紅茶を啜っている。
なんと形容したらいいかも分からない、誰かを見てそんな風に思った事は初めてだ。足りない語彙でそれを表すならば、正しく"女神"の如き美貌とでも言えばいいか。
純度の高い宝石たちをそのまま糸へ仕立てたような、黄金と幾つかの朱と碧と翠の交じり合った髪。白く透き通った新雪の如き肌と、頬には薄っすらと熟れた林檎のような紅色が差し、一層その煌めくような美しさを高めている。
切れ長の瞳は金色で、見つめているだけでその深淵へと囚われてしまいそうな程に蠱惑的だ。それを支えるような筋の通った鼻梁に、瑞々しい果実のような薄桃の唇。兎にも角にも、これ程までに美しい人間がいたのかと、愕然とせざるを得ない。
しかしながらここまで美しくあって尚、私にはこの人物の性別が分からなかった。
最初に見たときは可憐な少女のように思えたが、段々と美しい少年のようにも見えてくる。一秒一秒経つ毎に、その印象が目まぐるしく変わっていくような感覚だ。究極まで突き詰められた美貌は、性別という概念すらも霞ませてしまうのだろうか。
「おーい、なにボーッとしてんの?」
「……えっ? あ、いや」
そして、声を掛けられて初めて私はその人物に見蕩れていた事を自覚した。
あっぶねぇ、完全に意識がどっか行ってたな。魅了の類でもここまで魅せられる事は無いだろうに。
「えっと、あなたは一体……?」
「俺、いや、ボク……? うーん、私、は違う気がするけどなあ……お前はどれがいいと思う?」
尋ねたのはこちらの筈なのに、唐突にそんな質問が飛んできてギョッとする。正直一人称とかどうでもいいんだけど、多分答えないといけないんだろうなぁと思いつつ無難に「私?」と返答を返してみた。
「そうか、この見た目だとやっぱりそうなるんだなぁ。えっと、それで"オレ"が何者かって話だったけ?」
「いや、採用されないのかよ……」
「オレの名前はハル、なんて言ったらいいのか……ちょっとした残留思念みたいなものだよ」
その美貌にそぐわない粗野な物言いに些かの疑問を覚えつつ、私は鷹揚に頷く。なんか、こういう変な自己紹介する人にも慣れてしまったので、特に驚くようなことも無いし。
「で、その残留思念のハルさんとやらがなんで私の夢の中にいるんだよ」
「それはほら、少し気になった事があってな」
ハルはそう言って、私の方を指差す。
「相当気に入られたのか、本体で無いにしろここまで付いて来るとはねぇ」
と、同時に何か虫の羽音のような、耳障りな振動を背中に感じて振り向いた。
「うげっ!?」
しかして、私の目に飛び込んで来たのは、全長が一メートル程もあろうかと言う巨大なハエである。それが私の後ろでホバリングしながら小刻みに移動しており、金属的な質感を感じる複眼の全てが私を捉えていた。
昆虫特有の口吻から時折ノイズのような音を発して、こちらをジッと見つめるその姿に最初驚きこそしたものの不思議と嫌悪感は無い。その姿が本物のハエと言うより、それをモチーフにした機械のように見えるのも要因だろうか。
「あれ、リアクション薄いな。もっとビビるかと思ったのに」
「いやいや、驚いてはいるけどね? それよりも、コレとあんたは何の関係があるのかの方が気になるし……」
「……ふーん、まあいっか。 あと、オレが気になったのはソイツじゃなくて、こっちだから」
「こっち?」
よく見ると、ハルの指差した先にあったのはハエでは無く、それよりもさらに巨大な黒い何かだった。
「え……」
最初に振り向いた時は、余りの大きさにその全容が見えなかったのだろう。二対四枚の禍々しい翼を携え、遥か高みからこちらを見下ろす邪悪な爬虫類顔は、私もよく知る竜の姿だ。唯一違うのは、それが見たことも無いような漆黒の鱗に覆われている事くらいである。
「おい、誰を見下している? 頭が高いぞ、権能風情が」
だが、そんなことが些事と思えるような、身の芯から凍えるような声が背後から聞こえて、私は動けなくなった。目の前の邪竜もそれを感じ取ったのだろう、瞳孔が驚いたように細まり、恐る恐ると言った感じで長い鎌首を地面へと降ろしていく。
「全く、お前は傲慢に次いで気位が高いから困るな」
心臓を直接手で撫でられたような感覚にさえ陥る程の邪悪を孕んだ声音は消え失せ、最初に聞いた温もりのある声がそう接いだ。一体何だと言うのか、この自称残留思念は何者なのか、私の中で疑問が鼠算式に増大する。
「さて。じゃあ改めて目的を言うが、オレはお前に忠告をしに来た」
「忠告……?」
「そう、忠告だ。そこの憤怒と暴食、二つの罪を抱えるお前が暴走しないようにね」
「罪? 暴走って一体何を……」
「一度、あっただろう? 理性を失って怒りに塗れた事が、そうでなきゃ憤怒の罪業なんてその身に宿す訳が無い」
「あ……」
確かに前者はまあ……覚えがある。丁度《憤怒之業》を手に入れた戦いの最中に、他の何も考えられなくなったことは確かにあった。
しかし後者に関してはそんな罪を背負った記憶は皆無なのだが、冤罪では無かろうか?
「宿主を見下ろす《スキル》を見るに、お前は憤怒を御しきれていない」
「スキル……って事はやっぱり、コイツは」
「そう、《憤怒之業》そのものだ。そしてオレは、コイツの元飼い主とでも言えばいいかな?」
そう言って、ハルは黒い邪竜を見て懐かしむように金の瞳を細めた。私から見てもその言葉に嘘は感じないものの、解せない部分も多々ある。
「元って言うのは、つまり……」
「うん、想像の通りで間違いないよ。オレはもう死んでいて、お前が今見ているのは《憤怒之業》にくっついていた残留思念だ」
おお、マジで残留思念だったのか。
少年漫画にありがちな展開の"ソレ"は読む度に疑問だったのだが、目の前にいれば成程と、妙な納得感が沸き上がってくるし、確かに言われて初めて、存在感の凄さに対して生命としての気配が希薄過ぎると感じられた。
所持者の死後に宿主を鞍替えするスキルと言うのも初耳ではあるが、そもそも謎の多い力であるスキルのスの字も知らない私が愚考した所で意味のない事だろう。
よって疑うこと自体が徒労であり、彼女? の言っている事を信じる他にはないのだ。
「でも、御しきれてないって言われてもなあ……どうすればいいんだよ」
「簡単だ、対話をすればいい」
「対話?」
ハルは笑みを深めると、その輝かんばかりの肢体へ黒々とした瘴気を纏い始める。
「うえっ……!?」
「少し言い方を変えよう。自分の内にあるコイツを知り、理解を深めろ」
そして全身をくまなく覆い尽くした瘴気は段々と背中へと蠢いていき、何かを形成しだした。
黒い骨、関節、爛れた肉で構成された翼が生まれ、一枚、また一枚と増えて行く。最終的には六枚の片翼がハルの背中から脈動し、悪魔の如き威容を発していた。
「《憤怒之業》の権能は宿主の感情を糧に力を与えてくれる。だから、コイツとの繋がりを常に意識すれば、余計な感情を全て食ってくれるし、力も増す」
「な、何となく分かったような、分からないような……」
「オレから言えるのはこれ位だな。後は自分で何とかしろ」
そう言うと、ハルを包んでいた瘴気が瞬きする間に消え失せ、金色のオーラが漂う神々しい姿に戻った。
「……ッ」
同時に、視界が霞がかったようにぼやけ、睡魔にも似た意識の混濁が訪れる。夢と現実の境目が酷く曖昧になって、自分が今起きているのか寝ているのかも分からない。
「そろそろお目覚めの時間だな」
「けど、まだ……聞きたい、事が……」
「慌てるなよ、これが最後って訳でも無い」
ハルの意味深な言葉も満足に聞き取れない内にも、周囲の景色が水に溶けるように色彩が淡くなって行き、夢の終わりを告げていた。
『結局お前はどこの誰なんだ』とか、『何のためにこんな事をしたのか』とか、他にもまだ尋ねていない事があると言うのに、時間が無いとは口惜しいな。いや……でも、これが最後ではないらしいし、また会えるの……か?
そして、どういう意図で言ったのかとその真意を問い質したいが、そんな私の意思とは無関係に意識の糸は唐突に途切れた。
「次は、オレの故郷で待ってるよ」
最後に聞いた言葉は果たして本当に彼女が言ったものだったのかすら、おぼろげなまま。