96.戻り戻って
――――人間種と魔人種は、生まれながらにその精神性を大きく違える。双方が真の意味で理解し合う事は、不可能である。
いつだったか、どこかの国の書物で齧り読んだ学者の言葉だ。
その言葉の意味が今なら分かる気がする、とは言ってみるものの、異常なのは個人の境遇によるものなのかもしれないが。
"私"は、記憶の戻った弊害で頭を軋ませる偏頭痛を追い出すようにかぶりを振って、眼前で氷のオブジェと化した赤錆包帯男を見据える。
およそ八年前、伯爵邸で起きた事の全容の思い出した。
目の前にいるコイツが、あの時私を追いかけていたホラゲNPCである事は勿論。おば様――――アデーレの事についても、彼女が一体誰に殺されたのかも。
全て思い出した上でこう言おう。
「良かった、お前を殺す理由ができて」
私がそう言うと、視線の奥にいたメイビスが僅かに震えたのが見えた。
最初は勇者を助けて撤退する事も視野に入れていたが、それはもういい。今は何をどうやっても、この愚物をぶちのめして、吐瀉物塗れにして這い蹲らせたくて仕方が無い。
元人間としての理性では前述の撤退と言う冷静な判断を下していて、もう一方の相反する魔人の本能ともいえる直情的な部分では『戦え』と唆されていた。だがしかし、記憶が戻ったことにより、大義名分とでも言えばいいか、理性と本能の目的が合致したらしい。
「ウミノ」
「何でしょう、お嬢様……いえ、御主人様」
独り言のように呼んだ名前。
それへほぼ即答と言っていい速度で返事が来た上、その声の主は私の斜め後ろにて楚々とした佇まいで控えていた。
しかも上は白のシャツに黒地のストライプベストで下はパンツスタイルと言う、ある意味でこの場に似つかわしくない恰好でだ。白手袋を嵌めす所作が一々様になっているし、日本の関西圏にあった男装劇団の何某です、と自己紹介された方が納得がいくだろう。
「こう言うのは変かもしれないが、久しぶりだな」
「……誠に、この時を待ちわびておりました」
シニョンにされた深海の如き髪色と、全くもって動揺を露わにしない涼し気な表情は記憶を失う前も後も変わらない。よく見れば、奴隷にある筈の首輪も付いておらず、代わりにチョーカーが巻かれている。
「幾つか聞きたい事がある」
「はい、なんでしょうか」
「これは偶然か? はたまた誰かの狙った通りのシナリオか?」
この再会は、狙ったものであると言う可能性がある。と言うのも、こうして彼女と再会し、陰謀の渦に巻き込まれたのが偶然とは思えない。
故に、あの人が将来の為に私へ魔法の鍛錬をさせたのも、この時この領地を腐らせるアイツを排除する為だったのでは無いかと、そう思った次第だ。
「……半々、と言ったところでしょう。私は確かにアデーレ様に指示され、リーシャ様を探してはおりましたが、ここで息女である貴女様と再会する事までは見越しておりませんでした」
ウミノがそう答えると同時に、目の前の氷塊に亀裂が入った。氷の破片が魔力へと還って行き、薄暗い空間に白銀色の薄霧が揺蕩う。
「もう一つ、私と……お前もだが。今こうなってるのはお前が使った能力の影響か?」
「敵前である為多くは答えられませんが、肯定します。そして影響と言うよりかは、効力が切れたと言った方が正しいかと」
普段よりもやや高い目線、長い手足、そして幾分か低い声。
まるで掛けられていた催眠術――――掛かった事無いけど――――が解けたような感覚と、自分の体の違和感の無さに、逆に違和感を覚える。
「ご主人様の外見はあの時のまま、自他共に認識されておりました。それが解けた今、相応のお姿に見えるようになられたのです」
平面になった氷壁へ反射する自分の姿を見ると、より一層驚きが増した。あれだけ低い低いと嘆いていた背丈は目測でも十センチは伸び、生まれつき童顔ではあるが、顔つきもかなり大人びたものになっている。
推測の域を出はしないが、ウミノの持つ能力は恐らくなんらかの方法を用いて、認識を阻害する能力だろう。八年前彼女に掛けられたものが記憶の復活と共に解け、そしてまた彼女も私を思い出してこうして話をしているのだ。
つまり、
「捕まったふりをして妹を探しに来たって言うのは……」
「事実です」
「やはり、本当に偶然だったという事か」
なんたるご都合主義的展開であろうかと、そう言いたい。
神のいる世界ではある訳だし、デウスエクスマキナが伏線回収のついでに、帳尻を合わせたのでは無いだろうかと疑うレベルだな。
だがまあ。詳しい事は後で聞くとして、今は目の前の事に集中するべきだろう。
見れば、私がグラディンを押し込めた氷の棺は半ば崩壊しかかっている。ものの数分で内側から粉砕される事は自明の理なので、わざわざ悠長に待ってやることも無い。
「ウミノ、頼んだぞ」
「御意」
皆までを言うよりも早く、ウミノは溶けるように私の認識の外へと消えて行った。そして、私は私で手に持った刀を氷塊へと突き刺すと、そのまま亀裂を中心に崩壊するように手首を捩じる。
硝子を叩いた時のように澄んだ音が空間を埋め、魔力で造られたそれは弾けると同時に輝く塵へと帰す。当然中にいた錆色の男は解放されるが、凍傷によって肌が壊死したのか、苦い顔をしてこちらを睨んでいる。
「ご機嫌斜めだな」
「痛い、し、冷たかった……お前、嫌い」
「そうか、奇遇なことに私もお前が嫌いだ」
笑みの中に殺意がぎっしりと詰まった私の台詞を聞いて、グラディンは益々機嫌が悪そうに口を歪める。こういうのは趣味じゃなかったらしい。
「みん、な、いう事聞かない、し、お前と遊ぶのは、全然、楽しくな、いし、なんなの!」
癇癪を起こした子供のように地団駄を踏む仇敵。その、歯と呼ぶには些か鋭利が過ぎる牙の隙間からは涎が垂れ、次の瞬間には――――
「もういいや、怪我してお腹空いたし。役立たずはいらないから食べちゃお」
――――最も近くにいた兵士の頭が掻き消えた。
頭頂部から鎖骨の辺りまでを丸ごと抉り取られたようで、赤々と露出した肉の断面が血の噴水を作り上げている。触れてもいないのに人を殺した事に今更の驚きは無いが、あれは味方では無いのだろうか?
しかしこれで輪郭だけではあるものの、何となく奴の能力が掴めた。
尊い犠牲に感謝しつつ、諸悪の根源をぶち殺すとしよう。
腕を失った左半身を横目に一瞥してグラディンへ向き直る。そのまま半身の状態で左足を後ろへ引き、アキレス腱が伸びるのを感じつつ、大地を蹴った。私から仕掛けたのをグラディンが気付き、迎撃の為にと両の手に持った鉈包丁を掲げる。
アニメのコマ送りのような映像が暫く続く。そうして、肉薄したと同時に振り下ろされた鉈包丁が空気を裂く筈だったコマ――――中割が消えて、その直後に刃が私の肩へ触れようとしていた。
こちらから見て左のそれを刀で撫でるように受け流すと、身を翻して右も躱す。そして、躱した勢いを殺すことなく軸足一本で身体を捻り、独楽のように回転しながら刀を叩きつけた。
その衝撃に響き渡る金切り声のような金属音と、赤と青の火花。
両の刃で私の一撃を受け止めたグラディンが、押し返すように刀を弾くので、逆らうことなく後ろへ飛ぶ。エイジスに習った私の剣が、受けに寄った技巧派であった事の恩恵をひしひしと感じ、同時に性別上どうしようもない筋力の差も強く自覚させられた。
やはり、どれだけ鍛えようがここで頭打ちのようだ。
が、しかし。技巧の頂を、柔の剣を極めた男を私は知っている。
片腕を失った為に崩れた体のバランスを尻尾で補いつつ、追撃を掛けるグラディンの攻撃を一合、二合、三合と、刀身が液体になったと錯覚する程滑らかに添わせて受け流す。実際相手も金属を打ち合わせている筈なのに、水で滑るような感触を味わっている事だろう。
「なんで、あたらない!?」
グラディンはそう叫ぶと苛立ち混じりにガチンと歯を鳴らし、脇腹を狙って横薙ぎに包丁を振り抜くが……。
「大きくなった分の考慮忘れてた……っ!」
ほぼ紙一重。と、言うよりかは薄皮一枚のところで身を引き、増えた体積をちゃんと考慮してなかったお陰で切れた魔法繊維を睨んで舌打ちする。やはり、今の一撃も攻撃の初動から命中までの間にある筈であった、振っている最中の動作が抜け落ちていた。
――――これで検証は一つ済んだ、次に行こう。
淡々と交わされる致命の一撃の数々、私は相手から降り注ぐ刃のその全てを受け流していく。
奴がどれだけコマ送りの真ん中をぶち抜こうが、実際に命中するまではある程度の猶予時間があるのだ。
私の身体能力ならそれに対応するだけの速度は捻出出来るし、前世のオンライン対戦型格闘ゲーム――――及びFPSだったりMMORPGのPvPだったり――――ではF単位での勝負をしていた時期だってある。
ああ、今更になって思うが――――そういう積み重ねが今世でのこの、『知覚能力の強化と思考時間の引き延ばし』というスキルに繋がったのでは無いだろうかと、空いた思考能力で考察してみたり。
そう、なんなら私にはまだ、奥の手の未来視が残っているしな。
初見殺しで死ななければ負ける事は無いと断言できる程に、私は受けの強さに絶対の自信があった。問題は、どうやって相手を倒すか攻めあぐねているという点なのだが……。
「さて、どうしようか……」
どれだけ粘ろうが左腕が飛ばされた時点でこちらの判定負け、いつかは押し切られる時が来る。左腕一本分、それだけの量の血を失ったのも甘く見積もる事は出来ないだろう。
ならば、それまでになんとかあのタフな気狂いを倒す算段を着けなければいけない。
タイムリミットはそう長くは無いぞ、私。




