94.ルフレ 十二歳の冬
十二歳になった。
半魔は特別成長が遅いのか、去年も、一昨年も、その前も身長はあまり変わらない。忌々しい老人のような白髪と、魔女ですら忌避しそうな不気味で怪しい赤眼も相変わらずだ。
おば様と畑を作ったり、収穫したお野菜で料理したりと、この二年間は割と平穏な日々が続いている。
裁縫やお作法の方の成長は……言わずもがなだけど、言いつけ通り魔法の鍛錬だけは怠ることなくしているお陰で、出来る事が少し増えた。具体的に言えば、氷の魔法が使えるようになって、夏場に食材を駄目にする事がなくなった。
他に変わった事と言えば、少し前から当主様が外国の商会と取引を始めた事か。
一度その商談相手のお世話をしたけれど、相手のヒトはこの辺りでは見かけない顔立ちで、薄桃色が混じった金髪を編みこんだ綺麗な女性だった。
名前は確か――――
「ミネルヴァ様」
「あら、何かな。可愛いらしい女中さん」
そう、ミネルヴァ・ツヴァイ=メイガスト。
本日二回目の商談の後、うちの迎賓室に宿泊する為に世話係として私が指名された。
抜擢ではなく指名なのはミネルヴァ氏が以前担当した私を絶賛して、今回もと言う事でらしい。なんでも、水魔法を応用した洗浄と脱水を一瞬で行う、洗浄魔法がお気に召したのだと。汗や埃などの汚れも服の上から一瞬で取り除ける、便利魔法だ。
「ドゥ様と取引を成されてると聞きますが、ミネルヴァ様の商会は一体どのような商品を取り扱っているのですか?」
「う~ん、そうだねぇ……」
単純な知的好奇心から来る質問に、ミネルヴァはやや難しそうな顔で逡巡すると、窓の外を見やる。その視線の先には門衛がいて、夜間の警備の為にカンテラに火を差している所だった。
「例えば、この屋敷には勿論主人であるドゥ氏やそれに連なる人々を守る衛兵さん達がいるだろう?」
「いますね」
「でも、もしそんな衛兵さんたちでも敵わない相手が襲って来たとする、そしたらどうなるかな」
「殺されます」
「そう、だからそんな貴族に向けて、私達は屈強な人材を派遣してるのさ」
「それが商品だと?」
ミネルヴァは私の問いへ頷き、パチンと指を鳴らした。
すると、彼女のすぐ傍へと何の前触れもなく二人の男が姿を現す。
どちらも全身を漆黒の外套とフードに覆われて顔も見えないが、一方は不自然な程に体格のいい男で、両腕が義手のようだった。もう一方は背筋がピンと伸びた長い手足が特徴の男で、どちらも堅気ではない雰囲気を纏わせている。
「要は傭兵派遣事業って奴だよ、今回契約で雇用されたのとは違うが、今はコイツらもウチの商品さ」
もう一度指を鳴らせば、私がギョッとする間も無く今度はその姿が掻き消えた。一体どんな魔法を使っているのか、人を自在に出したり消したりするのだから、もしかするとこの人のスキルかもしれない。
「君も貴族の令嬢なら護衛を雇う機会もあるだろう、その時は是非うちを御贔屓に」
そう言ったミネルヴァは二ッと、少し意地の悪そうな笑みを浮かべて私の肩を叩いた。
冷たい手だった。その冷たさは、私のお腹の底まで落ちて行って尚、ジワリと心を侵すような感触を残していった。
そもそも私はいつ、彼女に自らが貴族と明かしたのか。
ここではただの女中としか自己紹介をしていない筈なのに。
知らない事まで知っているこの女性に僅かばかりの恐怖を覚えたのは、この時だった。そして、それは次第に膨らんでいき、やがてこの身に降りかかる厄災へと姿を変える事を知るのは、十年後でも二年後でも無く、もう直ぐの事。
事の発端は、いつものようにお屋敷の掃除をして回っていた時、偶々聞いた会話だった。
ドゥ様とミネルヴァが何やら声を潜めて話をしているので、つい興味本位で耳を傾けてしまったのだ。
「では、アレの処理はそちらで?」
「勿論。半魔の、しかも竜人族の魔石となれば、すぐに買い手が付くでしょうから」
最初は、何を言っているのか分からないまま、ジッと耳を澄ませて聞いていた。
「助かるぞい。あんな髪と目の色をした半魔など……凶兆以外の何物でもないが、ガーランドの奴めワシに押し付けよってからに。後始末に困っておったのだ」
「ええ、その辺も全て滞りなく。擬装も完璧に致しますので、配下の男爵には娘は不慮の事故で死亡したと、そう伝えて頂いて結構でございます」
尻尾の毛が逆立つのを感じて、次に頭を強く打たれたような衝撃に見舞われる。
この屋敷に半魔なんてのは私以外にいる筈も無く、すぐにその話し合いの内容を理解した。だが、したところで、一体何になるのかと言えば分からない。何の解決にもならないんだろう、実際私はもう自分がこの先どうなるのかを想像して、早くも心が死に掛けていた。
どうしてあの商人は私の事を竜人族だと知っているのか、私ですら今の今まで自分が何者なのか知らなかったのに。
それに……魔石を獲る?
魔人にとって魔石は心臓と同じ役割を果たしている。
それが無くなれば私は比喩では無くて本当に死んでしまうじゃないか。
「それで、念のために聞いておくが、あやつの心臓から採れる魔石の値打ちは如何程なのじゃ……?」
「底値でも王金貨20枚、価値を考えればその数倍に膨れ上がる事は確かでしょうね」
「おお……!」
「ドゥ氏にも利益の4割を分配しますので、ご安心を」
とにかく分かったのは、私の体が、私の命が自分の知らぬところで売り物にされて、冷たくて鼻腔にこびり付く錆び臭い金属のメダルにされるという事だけ。果たしてこんな企みを聞いてしまった後、私はどうすればいいのか分からない。
泣き喚いて誰かに助けを乞えばいいのか、それとも今すぐにここから逃げ出せばいいのか、もしくは大人しくされるがままにこの身を差し出せばいいのか。
年寄り貴族の元に嫁ぐのが不幸だなんて言ったのは誰だ。
こんな現実よりよっぽどマジじゃない。
かくして、私はその場を走り去っていた。助けを乞うにしろ逃げるにしろ、とにかく一刻も早くあの場から立ち去らねばいけないと思ったからだ。
具体的にどうすればいいのか分からないままに、自室へと出来る限り急いで早足で向かう。
『貴族とは如何なる時であっても廊下を走らないもの』だとおば様が言っていたけど、命に差し障る緊急事態なんだから、走ってもいいんじゃないかと思ってやっぱり走った。
走っていると、家令のウォンが曲がり角の先から姿を現した。
「……おや、ルフレ嬢。何をそんなに急いでおいでなのでしょう?」
適当にあしらって急ごうと思って口を開きかけた直後、ゾッとするような考えが頭に過る。
彼も、ドゥ様の手先では無いのかと。
今この直後にでも、後ろへ組んだ手からナイフを取り出して私の心臓を抉って、魔石を引き摺り出すかもしれない。あの冷たい手をした商人に、血が巡らずに硬くなった私の死体を投げて渡すのではないかと、思ってしまう。
「ああ、先程アデーレ様が探しておられました。至急、私室まで来るようにとの事で」
「そ、そうですか。部屋へ大事な忘れ物をしたので、それを取ってから向かいます」
いつもは仕事の話か、他愛のない世間話を一言二言交わすだけの相手が、これ程までに恐ろしいと思ったのは初めてだ。
早鐘のように打つ心臓の音が聞かれてやしないかと不安になりながら、ウォンの横を通り過ぎる。幸い、何もされなかったけれど、私の急ぎように最後まで訝しんでいるようだった。
おば様が私を呼んでいるとの事だったけど、これがドゥ様の独断だとは考えづらい。今は誰も信用できないし、そのまま自分の部屋へ直行する事にした。
誰にも出会うことなく自室の扉前へ辿り着き、上がった息を抑えるように大きく深呼吸をする。
いつものように扉のドアノブを掴んで開いた部屋から、ランタンの灯りが漏れ出た。
「えっ……?」
灯り?
どうして誰もいない部屋の灯りが付いているのだろう。
私は日中業務の為に部屋へ戻る事は滅多になく、今日も朝の支度をしたきり、今――――日が沈みかかる程度の時刻――――まで部屋へは帰って来ていない。
それが何故と、思った直ぐ次の瞬間には、最悪の形で答えが目の前に転がっていた。
散乱した部屋の真ん中に猫背の男が佇んでいる。
「ひっ……」
その男が被るフードから垂れた赤錆のような髪と、ギラついた眼球を見た瞬間、死が実体を持って私に覆い被さろうとしているのを感じた。そして、男がゆっくりと首を此方へ曲げて、狂気的な眼差しが私へ向けられる。
死ぬ。
直感でそう思った。
勢いよく扉を閉め、元来た道を走り出す。
一体アレが何なのか、私の部屋で何をしていたのかなんて事は実にどうでもよかった。それこそ考えても意味のない事であり、あそこで馬鹿みたいに思索にでも耽っていれば、次の瞬間に私の命運は決していただろう。
翻るエプロンドレスも気にせず、廊下を全力疾走で駆け抜ける。
自分にこんな体力があったのかと内心で驚きつつも、先程ウォンとすれ違った角を曲がったタイミングで後ろを振り返った私は後悔した。
「……ッ」
私の部屋から出て来た赤錆の男が、ゆっくりと此方へ向けて歩き始めていたのだ。走っている私に追い付きこそしないものの、あの得体の知れない何かが私を追いかけてきていると言う事実に、喉から悲鳴が漏れ出そうになる。
これが唐突に屋敷に現れ、主人もメイドも皆殺しにするホラゲに出てくるような敵性NPCならどれだけ良かった事か。いや、良くは無いが、少なくとも私が逃げられる機会が訪れる事に関しては、そちらの方がまだ希望はあった。
しかし、私はあのフード付きの黒い外套に見覚えがあった、あり過ぎたのだ。
あれはミネルヴァが連れてきた、商会の傭兵だ。ドゥ様の雇ったと言う護衛の一人で、あの服も他でもないミネルヴァに一度だけ見せて貰ったことがある。
私の人生はいつもこんなだ。一時の平和の後、こうして意味の分からない苦境に立たされて、今だってアホ面で必死こいて逃げ回ってる。いじめで用水路にランドセルを投げ入れられた時と同じくらいに虚しい。
あの時は用水路にこびり付いた苔と良く分からない水草でズボンを一着と、両親が買ってくれたランドセルを駄目にして、最悪だった。
父も母も仕方が無いと言ってくれたが、後々にそのランドセルと言う物が平均して諭吉が十枚は飛んでいく値段だと知った時には、改めて泣きそうになったものだ。
……あれ?
私は今なんの話をしていたんだろう?
ランドセルとは、諭吉とは一体?
そんな疑問が頭を通過して行く間にも、背後から迫る男の歩調は速くなっていく。
「わっ!?」
慌てた私が足に力を籠めた瞬間、通り過ぎようとしていた部屋へ、不意に身体が引っ張られた。