92.苦戦
この話で何気に100部分目という節目だったりします。
「ひっ……」
短い悲鳴は誰の物か、もしかしたら息を吸うのに失敗して自分で上げたのかもしれない。焦点の定まらない目で足元に転がる腕だったものを見て、次に今も赤く鉄臭い液体を垂れ流す腕を見る。
まな板に捌いたばかりの魚を置いた時のような、濁った水音と共に俺の体から腕が切り落とされた。
一瞬感覚が全て消え去った直後にマジで破裂するのではと言う程の頭痛が脳みそに訪れ、逆に万力で外側から圧迫するような感覚も同時に襲ってきてどうにかなりそうだった。
更に不思議な事に、当の傷口である二の腕は全くの無感覚。
脳みそへこの身体の全感覚が集約されているのでは無いかと疑う程であり、痛覚を数倍にして伝えると言う負荷に耐えられなかったのか、プチプチと何かが切れる音がして、それから自分が鼻血を垂らしている事に今更気付いた。
ぶわりと、冷や汗が全身から噴き出し、立っていられずに膝を着く。
「ぐ……ぅ」
酩酊にも似た不快感と、激しい頭痛で胃の中を逆さまにして混ぜこぜにされ、そのまま食道を駆けのぼる酸っぱい物を、なんとか押し留めた。
そして、こんな時でも正常に作動して痛みと認識の加速を促すスキルのお陰で、幸か不幸か現状を正しく把握するのには一秒と掛からない。
即座に切り口を氷結させて止血すると、背後から迫りくる一刀の凶器を地面から突出した氷壁によって阻む。
「ま、だ、遊べる?」
「腕一本程度で勝った気に……なんなよ」
そうは言ってみたものの、現状で俺が目の前の怪物に勝てる算段は無いに等しい。
あのやりとりの瞬間、確かにグラディンの攻撃を余裕を持って躱した筈の結果を見れば嫌でも分からされる。
初見殺しの出来るエクストラか……ユニークか、とにかく何かしらの特殊なスキルを有していると見ていいだろう。
バエルもそうだが、気の触れた奴らの持つスキルは往々にして性格が悪い。
異常な耐久力に不可視の攻撃、限りある不死性より幾分かまともとは言え、正面からやり合えば敗北は必須だ。
「なら――――」
「え……? な、に?」
周囲にダイヤモンドダストが舞い、翳した手の先から氷結の波が怒涛の勢いでグラディンへ襲い掛かる。吐く息が白くなる程の急激な気温の低下を伴う、現状で最高出力の氷魔法――――
「氷霜の棺」
対象の体を丸ごと呑み込み、打ち付けた波濤のような形状で凍結する氷の棺。
広間になっている鉱山の一角において、その鋭角なオブジェクトが空間の殆どを占めるのにさして時間は必要ない。
すぐに天上にまで浸食し、高さ十メートル、幅は四十メートルを超える墳墓が完成した。
「これなら、暫くは出てこれないだろ……」
『――――凄いわ、あなたには魔法の才能があるのね、それもとびきりの』
「……ッ!?」
我ながら凄まじい出来だと内心で自分を褒めたたえようとした時、頭の中で知らない声が響く。ブチブチに千切れた脳細胞の置き土産か、幻聴まで聞こえるようになったかと思ったが……違った。
脳内に浮かぶ――――いや、蘇った映像は知らないのに知っている、忘れていた記憶の一つ。
「おば様……?」
それは、在りし日のアデーレ夫人改め、アデーレ・フォン・アスタリカと過ごした日々だった。
***
「はっ……はっ……はっ……」
ルフレと突然やって来た訳の分からない化け物が戦闘を始めた直後に、ジンはあの場から離脱し、遁走を始めていた。
背中にアカネを背負い、足裏に食い込む岩にも構わず全力疾走し、目的地を目指す。
だが、単に逃げ出した訳ではない、むしろジンはルフレのやって欲しい事を即座に理解し、行動に移していたのだから。
第三区と他を隔てる通路までやって来ると、一度息を整える為に立ち止まる。そして、手に持った鍵を見下ろし、つくづく人遣いの荒いあの半魔に舌打ちし、思わずニヤけてしまった。
ジン風に言えば――――『怪しい魔法を使うピンクのガキ』からいつの間にか渡されたこの鍵で、何をすればいいのか。
「マジで、ここにあるもん全部ぶっ壊す気だろ……あいつ」
一体何処まで考えてこの状況を作り出したのか、すべて計画通りだとしたら末恐ろしい策士だと寒気すら感じる。しかして、今はその深謀遠慮に救われた以上、ジンは己の成すべき事を成しに行くだけだ。
再び歩みを始め、第三区を抜けた先にある出口へ一直線へ駆け出す――――
「行かせねぇよぉ」
「げっ……!」
――――前に、巨大な影が立ち塞がる。
三メートル近い巨躯で覆い被さるように道を塞ぐのは、バケツのような鉄の面を付けた大男、リフトだった。
「アカネッ、飛べッ!」
「へぇっ!? な、なにいうてんの……って、うぎゃああああ!!!」
ここに来て邪魔が入るのかと、走る速度を緩める事無く一瞬の逡巡を終わらせ、ジンが取った行動は最善手。手に持った鍵をアカネへと渡すと、やや前傾姿勢になりつつそのままリフトへと突っ込んでいく。
「ああっ、もう知らんからなっ!! ジンのアホーーーーッ!!」
「上っ!?」
おんぶの体勢から組体操もかくやと言わんばかりに、無理やり肩へ立たされたアカネは流石猫。器用にバランスを取ると、泣き言を言いつつもヤケクソ気味で、ジンを踏み台に宙へ躍り出た。
「一区だ! そこに行け!」
「……ッ、分かったわもう、こうなったらとことん付き合ったる!」
リフトの頭上をフリーで通過し、しなやかな身のこなしで身体を捻って着地すると、勢いを殺すことなく駆け出す。突破されたリフトの意識は思わず背後に向くが、次の瞬間にはもう手は打たれている。
その巨体がグラリと揺れたかと思うと、僅かに足が浮いた。
「……よそ見してんじゃねえぞ、テメェの相手は俺だ」
「うぉおおおっ!?」
ジンは、三百キロはあろうかと言う巨体を腰巻の裾を掴んだだけで持ち上げ、強引に肩へと背負う。皮膚を突き破らんばかりにミシミシと膨張する筋肉と浮き出る血管、この時点で相当の膂力を要している筈だが、更にそこからもう一段階ギアを上げた。
「があぁッ!」
両足が地面へと陥没し、獣が吠える。
「ぶがっ……!?」
直後、ふわりとリフトの巨体が宙に浮いたかと思うと、剛腕と重力によって地面へ叩き落された。
凄まじい衝撃と共に大地が捲れ上がり、背中から落ちたリフトは鉄面の空気穴から唾液やら何やらを吐き出す。
「……っふう、立場が逆転したな」
「ぐ……」
全身から揮発した汗をオーラのように纏い、砂塵舞う中に佇む姿は正しく野生の獣。今度は道を阻まれた側として、膝を着いたリフトは歯噛みしつつその姿を見ると、腰に据えた肉叩きへ手を伸ばす。
一方のジンは無手――――だがしかし、負ける気は微塵も無いと言わんばかりに、両腕を頭の腕に持ち上げる独特の構えを見せた。まるで頭をガードする為に胴体をがら空きにするような、一見無防備な構え。
「ミンチにしてやるッ!」
「……やれるもんならやってみろ」
故に、既に頭に血が昇りきって決壊寸前だったリフトは、迷わずにミートマレットでジンの胴体を狙い打った。
ミートマレットはその形状的に、横に振るわれれば躱す事が困難極まりない代物だ。実際にジンの胸から腰までを射程圏内に収めている上、四角形の台座には幾つもの突起が付いているので、当たれば確実に肉が削げる。
それを回避する為、ジンは敢えて前方にある敵の懐へと飛び込んだ。上体を屈め、スクラムのような姿勢で腰に取っ付き、肉叩きを空振りさせた上半身の慣性を殺しきれていないリフトの足を払うと、面白いように身体を捻ってすっ転ぶ。
人間、あまりに自重が重過ぎると、受け身を取るだけでも関節や骨に負荷が掛かって大怪我に繋がると言うが――――これが正にその通り。半端に腕をクッションにしたばかりに、三桁を超える体重を支え切れず、鳴ってはいけない類の音を奏でながら腕があらぬ方向へ曲がった。
「……痛ってえな、おい!」
「痛いで済ませられるのも、俺としては遺憾なんだが……なっ!」
だが、さして痛みに悶える事も無く、ただただ悪態を吐いて起き上がるリフトに、ジンも苦言を呈しつつ飛び掛かる。今度は上から叩き潰すように振るわれる武器に、隙間を縫うような鉄山靠が鳩尾へと刺さった。
本来であれば、内臓を圧迫して息が出来なくなる程の衝撃に見舞われた筈だが、今度はその皮下脂肪がしっかりと仕事をしたらしい。不動の巨躯は今の一撃を完全に封殺、下手に間合いに入り込んだ故に退く事も出来ず、ジンは手を誤ったと自責するように奥歯を噛みしめる。
双方がパワータイプかつタフネスだけが頼りのような、荒っぽい肉体のぶつかり合いにおいて、この後隙は余りにも大きすぎたのだ。
「がっ――――」
直後に全身を貫く鈍い痛みに反撃を受けたのだと理解すると、背中にも幾何かの衝撃が訪れた。
仰向けで叩きつけられ、岩肌の冷たさと相反し、腹部に走った悶える程の熱が痛みに痺れる脳髄を沸騰させていく。
視線だけを眼前の敵に向ければ、指が紫色に変色した手へと携えたハチェットを――――背の部分を上に――――振り上げたその姿を目視し、ようやっと鈍器で殴られたような衝撃の理由に納得が行った。
そして、痺れる手足を宥めて何とか起き上がるジンに、容赦のない追撃が降り注ぐ。
今までは手加減していたと無言で告げるように、両手に持った凶器を振り回し、叩きつけ。防戦一方となったジンは、それを何とか寸でのところで躱すかいなすかしていたが、それでも限界は来る。
剣で言えば十合目、両手併せて二十振り目の攻撃は奇しくも最初の一撃と同じ、肉叩きによる横薙ぎの大振り。
なんども紙一重と言える回避を続けていたジンの足は、そもそもまともな環境下に無かった事によって既に限界を迎え、溜まり続ける乳酸と千切れた筋繊維が悲鳴を上げていた。
最早回避という選択肢が取れなくなり、苦し紛れに腕を犠牲に放たれた致死の一撃をなんとか命から遠ざける。だが、お陰で肉を柔らかくする調理器具の面目躍如と言わんばかりに、腕が歪な――――いっそ艶めかしい程の水音を立てて潰され、血飛沫が舞った。
「……ッ」
脳を揺らす衝撃と、腕が弾けた熱と痛みに一瞬気が遠くへ行くように錯覚し、体幹が崩れる。その隙を逃す程相手も甘くないようで、続けざまに袈裟切りの一刀が遥か頭上から振り下ろされた。
それでも幸か不幸か、下半身がバランスを崩したことでハチェットは狙いからは外れて頬を掠めるだけに終わり、そのまま薙ぎ倒すように振り払われた柄によって、ジンは無様に地面を転がる。
起き上がる為に必要な力すらも失い、這い蹲る敵の姿を見下ろす無機質な鉄面の巨人は、尚もまだ生に縋る欲深な瞳から睨みつけられていた。
「もうおめぇは、ここらで終わっておけ」
「戯……言……を……っ」
額だけは地面に着けまいと双眸を裂ける程に見開き歯を剥く姿は、瑕を負っているとは思えない程の圧をリフトへ与え、事この期に及んで視線だけで射殺そうとしているようにも見える。
「俺が……ここで、頭……着けたら、いけねぇ……んだ」
だが、流石に根性や意志だけで失血がどうにかなる訳でも無く、段々とその瞳から光が失せて行く。
「駄目……なの……に」
睡魔にも似た何かが視界に緞帳を下ろし、肌を着けた地面と温度が同じになっていくのを感じながら、ジンの意識はゆっくりと、そして唐突に飛んだ。




