0. 経緯
悲鳴が聞こえる。
それが誰に向けて誰が発したものかを、どうやら理解する為の時間は残されていないようだった。
ジワり、と下腹部に覚える激痛と熱。
生まれて初めての感覚だった。
どうせなら一生のお願いだ、もう二度とこんな痛みを味わいたくはない。
来世ではもう少し頑丈な構造の生命体にでもなりたものである。
「……だ……ぶで……!!」
誰かが近寄ってくる。
視界は酷くぼやけていた。辛うじてそれが人だということを認識するのが精いっぱいだ。
何と言っているのだろうか。
若干28歳にして酷い難聴である。
これは一度耳鼻咽喉科にでも通う必要性がありそうだな。
洒落にならないか、今は。
「救………!!」
さっきまでは酷く熱かった下腹部が急速に冷えていく。
いや、そんなことでは済まされない。
冷える、なんて言葉では形容しがたい。
まるで生気を垂れ流しにしているような、自身の心臓から鼓動が流れ出るような。
確実に終焉へ向かっていることを悟る。
「(……あー、もう痛みも麻痺ってきたな)」
感覚が閉じていく。
地べたに触れる肉体が、まるで宙に浮いていくように感じる。
開いている目は、徐々に光を失っていく。
先程まで見えていた人間の輪郭が徐々に人型を、失っていく。
全ての感覚がちょっとずつ、でも確かに離れていく。
「………! ……!!」
声はもう、聞こえない。
もう二度と、聞こえない。
◇ ◇ ◇
遡ること20分ほど前。
空井慎太郎は、しがない営業マンだ。
業務成績は良好で、部下上司にもある程度恵まれており、給料もまぁ悪くない。
順風満帆かと言われると「強ち間違いではない」と首肯できるだろう。
1つ難点をあげれば、プライベートがあまり充実していないことぐらいだろうか。
元々引き篭もり体質というか、人と長いこと一緒にいるのが得意でない気質だからか、何年という付き合いのある友人がただの一人として居ない。本当にいない。時々連絡が来るのはお情け程度の同窓会のお誘いくらいのもので、それも数日放置すればメッセージ送信を取り消されてしまう。
まぁ、取り消されるのは既読付けない慎太郎が悪い。さっさと返事をすべきである。
趣味という趣味もなく、強いて言うのなら読書くらいか。読むものもかなり疎らで、専門書や詩集、漫画からちょーっとエッチな薄い本まで、家には紙媒体の書籍が大量にのさばっている。
別に「知識を付けて成り上りたい」なんて御大層な欲望があるわけでもない。
シンプルに暇だから。
手頃な価格で暇つぶし出来るというのが、書籍物のウリだと慎太郎は思う。
仮にゲームをする場合は、ゲームハードとソフトを買わなければならない。ハードこそ一度買ってしまえばある程度長期利用は可能だろう、とはいえソフトの価格はピンキリ。
まぁ、無論ゲームにはゲームの、読書には読書の良さがある。
相対するものというか、相容れないものというか、その二つの持つ面白さは別口だろう。カレーと唐揚げみたいな感じだ。同じ指向性で評価を決められるコンテンツではあるが、それらが持つ面白さの性質は全く異なるものだと慎太郎は思っていた。
故に、ゲームこそ至高、読書こそ至高と崇め奉る気も無い。
どのコンテンツにも一定層の過激な信者はいるものだ。
「(その強烈な信仰心というか、熱烈な忠誠心には目を剥くものがあるがな)」
一途に何かを好きになる、という経験が希薄な慎太郎には少しだけ羨ましい気持ちもあった。
現在勤めている会社も、結果論的には選んで正解だった部類かもしれないが、元々は外回りではなく事務系の仕事を志望していたが、就職難の煽りを受けて仕方なく選んだという経緯がある。
遣り甲斐とか、好きな仕事だとか、ポジティブな理由で決めたものではなかった。
「(…あれ、給料日じゃ………。あ!)」
銀行のATMでお金を降ろそうとした時に漸く気付く。
『社長が給料日、今月だけ3日遅れるって話だから、伝えといてね』
しっかりと昨日課長から言伝を賜り、且つ新人組にも伝えていたのだが…。
伝えた本人が綺麗さっぱり忘れて間抜け顔でATMの前に居るのだから、救いようがない。
「はぁ……。困ったなぁ」
着払いで注文してたものがあったんだが…。
慎太郎は肩を落とす。
肩も気持ちも奈落の底まで落ち込んだ慎太郎だが、対価に賃金が支払われるわけもなく──。
泣く泣く銀行を出ようとした所だった。
「銀行強盗だァァァ!!!!」
悲鳴が聞こえた。
正面入り口から現れたのは3人組、テンプレートな覆面に黒を基調とした服装。
言うまでもないが、しっかりと防犯カメラを意識した格好だ。
「しゃがめお前ら!! 言う事を聞かねえヤツは片っ端からぶっ殺すぞ!!」
1人が天井に向かって発砲。
残る2人は──見た感じ銃は無さそうだ。ナイフぐらいなら携帯しているかもしれない。
そう簡単に実銃が買い揃えられては一般市民としては困るからな。
手際よく2人は銀行員を拉致し、情報を吐かせている。
ここは一応しがない街ではあるが、その本店。そこらの店よりは金があるのだろう。
銀行のシステムを理解していない慎太郎は、頭の後ろで手を組んで考える。
一頻り金を集め終えたのか、10分ほどが経過した頃、男は冷めた声で呟く。
「ふん。しけた金額だな。まぁいい。後はここの人間の財布を漁れ。ついでにATMから金を引き下ろさせろ。そうすれば多少はマシだ」
賢いやり方である。慎太郎は不謹慎ながら感心した。
スピード重視で金をせしめたら蜘蛛の子散らしてさようなら。
慎太郎の知っている銀行強盗と言えば、そういうはした金稼ぎに終わるイメージだ。
警察に完全に包囲される前に奪うだけ奪うつもりだろうが、それはつまり──。
慎太郎の嫌な予感は当たった。
銃を持った主犯格らしき男が年端もいかない女の子を引き摺って連れ出す。
「や、止めてください! お願いします!! 人質なら私が…!!」
母親と思しき女性が涙ながらに懇願する。
しかし、男はそれを一蹴。文字通り、蹴り飛ばした。
「おかあさん!!」
「ハッ。子連れの母親に価値なんてねぇよ。人質に有効なのはガキだ、ガキ。ガキを連れ出せばなぁ、警察の手も緩む。何故なら、一歩間違えればガキが死ぬからな。世間はどう思う。ガキを殺した無能な警察、そういうレッテルが貼られる。で、俺にはなんのリスクもない。逃亡に必要な時間と道具が稼げれば問題ない。既に手回しは済んでるしな。そしたら返してやるよ」
ハハハ、と下衆な笑いを零す。
しかし、その男の言う言葉は確かにその通りかもしれない。
「(……頭が切れるんだな。それをもうちょいマトモなことに使ってくれんかね)」
嫌々を言う女の子を男が叩いた。
ただただ懇願する母親、泣く女児、見ないふりで目を背ける者達。
酷いありさまだった。
慎太郎もその一員だ。人の事は言えない。
黙っていれば殺されることもない。見ず知らずの母子だぞ、相手は。
慎太郎は言った。
「す、すまんが、トイレに行かせてくれないか」
ぎょっと観衆の目がこちらに向く。
ジロリと訝しむように睨む主犯格の男。
「…バカか? 黙って漏らしとけ」
まぁそうだよな。
慎太郎は分かっていた。だが、ご満悦のヤツに水を差しておけば──。
少なくとも女の子への手痛い仕打ちは、一時的にとはいえ止む。
さすがに身を挺して女の子を救い出すことは出来ないが、矛先をこちらに向けることは可能だ。
「い、いや、頼むよ」
「…チッ。うるせぇな」
ツカツカ、とこちらに歩いてくる。
拳銃をこちらに向け威嚇。
「黙れ。もう一度喋ってみろ。死なないようにぶち抜くぞ」
手は震えている。
手慣れた様子ではあったが、何度手を染めたとしても拭いきれない恐怖感があるのだろう。
慎太郎は一世一代のチャンスだと感じた。
「(…拳銃さえ奪えば……!)」
その時、遠巻きにパトカーのサイレンが聞こえた。
思ったより早い。慎太郎は最早これ以上の好機はないと見た。
サイレンの音に一瞬怯んだ隙を見逃さない。
連れの男二人は奥にある部屋で物色中だ。
慎太郎は思い切り飛びついた。
「うぉぉ!!」
「ぐぁ!?」
拘束されているわけではない、即座に足を掴んで押し倒す。
体勢を崩した隙に相手の右手に持っている銃に手を伸ばす。
「くっ…、離せ、この…!!!」
28歳成人男性としては非力な方ではあるが、慎太郎は懸命に挑んだ。
火事場の馬鹿力というやつだ。脳は興奮状態でアドレナリンが分泌しているのが分かる。
「みんな、逃げろォ!!!」
叫んだ。
仮にこれが失敗した場合、下手に怒りを買って酷い仕打ちが待っているやもしれない。
慎太郎と主犯格の格闘は2分ほど続いた。
既に事態を察知した男二人は、怯えたのか、人質連中と共に逃げ出した。
「こ、の…!!」
パァン!!
鋭い発砲音が響く。
と、同時に鋭い痛みが下腹部に走った。
「ひ、ひぃっ…。な、なんで…くそ、くそくそクソォ!!!」
拳銃を放り捨てて、男は逃げ出した。
いてぇ…。痛すぎる。痛いなんてもんじゃない。
クソはこっちのセリフだ馬鹿野郎が…。
倒れ込む。
床は冷たく、酷く膿むような熱が少しだけ和らいだ。
焼け石に水な気もするが──。
「人…た………るぞ…!!」
◇ ◇ ◇
「そんな…、そんな……!!」
泣きじゃくる女性、その傍らには小さな女の子がしゃがみ込んでいる。
よしよし、と母親と思しき女性の頭をなでる女の子。
「…非常に残念ですが」
そういった警察官の後ろを、白い布で覆われた担架が通過していく。
「…お礼も言えずに………」
「おかあさん…」
警察官は力なく頭を振った。
一度敬礼し、パトカーに乗り込む。
空井慎太郎──28歳、市内某企業勤務のしがない男であったが。
中々のスペクタクルを繰り広げた末に、殉職した。
ま、殉職というのが正しいかどうかについて、慎太郎に知る術はもう無い──ただ。
まさか、死後、あんなことになろうとは…。
それこそ、慎太郎に知る由などなかった。