草原
小さい頃から、私は衣麻に寄り添っては、その草原を見てきた。衣麻の体に触れると、草原の幻が見える。それは一面の草原で、ところどころ小さな花が咲いていて、青青としていて、そして優しく、暖かい風が吹いている。
衣麻は自由気ままな性格だったし、行動も自由だった。幼稚園でも小学校でも、決まりを破ってどこかに行ってしまったり、時間を守らなかったりする。やりたくないことはやらない。もちろん先生にも親にも怒られるけれど、いつだって平然としていて、怒られた直後でもケラケラ笑っていたりする。
私は全く逆で、決まりを破ることも、時間を守らないことも、怖くてできない。人の顔色をうかがって、怒られるのは何よりも嫌で、心から笑うこともできなくて、ため息が多くて、いつでも疲れていた。
でも、衣麻と私は仲がよかった。一緒に遊ぶこともあるし、学校で泣かされても、衣麻は慰めてくれる。
「大丈夫だよ柚羽、もう泣かないんだよ」
そんなことを言って、私の肩を抱き寄せる。私が衣麻に寄りかかり、目を閉じると、そこには草原が広がっている。
「すごい。この草原は何?」
「私も分からないよ。でも、多分私の心の中にあるところ」
「うらやましい……私にはこんなところない」
衣麻自身がその中にいることもあって、私はそこに遊びに行く。草原で追いかけっこをしたり、花を見つけに一緒に歩いたりする。地平線の果てまで、見渡す限りの草原なので、どこまでも歩いて行けるし、いろんな花も見つかる。動物や虫はいなかった。空は青く、雲も浮いているけど、鳥は飛んでいない。私と衣麻だけが、草原の中で自由に動き回っている。
実際のところは、衣麻の部屋や、あるいは私の部屋で、寄り添って体をくっつけているだけだが。
「きっと衣麻は自由だからだね、だからこんな気持ちのいい草原を持っているんだ……」
「そうかな……そうかもね。柚羽も、もう少し気楽に生きるといいよ」
「うん」
そうは言っても、持って生まれた性格もあるし、そう簡単にはいかない。中学に行くと、まずます顕著になってしまった。口べたな私には友達もできない。別にいじめられたりはしないが、存在そのものが希薄だった。衣麻は別のクラスだったが、学校に来たり来なかったり、逆に積極的にクラスで委員などやったりしている。人気もあったけれど、陰口も少なからず聞く。自由気ままではなく、ただ自分勝手でわがままだと言われている。
衣麻は自分勝手だけど、わがままではない。ダメな時はさっさと違うことをするから、自分をむりやり押し通すなんてしない。そんな子だ。そうは思っていても、陰口を言う人に、私が口答えできるというものでもなかった。私は自分で自分が嫌になっていた。
それでも衣麻は私に会ってくれるし、私は衣麻に甘えていた。私が悩んでいることを言うと、衣麻は笑い飛ばす。
「大丈夫だよ。そのうち柚羽のことを分かってくれる人も出てくるって」
「そうかなぁ……」
私は衣麻に寄り添い、目を閉じる。いつものように、広い広い草原。私から少し離れて、衣麻が立っていた。菜の花のような鮮やかな黄色いワンピースと、短い髪が風に揺れ、とても似合っている。衣麻は私に手を振った。
「おーい、柚羽ーっ!」
私は黙って衣麻に近づこうとした。
「止まれっ! 止まって私の名前を呼んで!」
私は立ち止まったが、改めてそう要求されると、気恥ずかしく、周囲を見回してしまう。
「誰もいないって」
私は前を向いた。
「衣麻……」
衣麻は微笑した。
「誰もいないんだから。もっと大きな声で」
「衣麻!」
「うん、さっきよりいいかな」
もっと小さい頃は、もっと無邪気にはしゃいで、叫んでいたような気がする。
衣麻は私に向かって両腕を広げた。
「おいで」
私は走っていって、衣麻の腕の中に飛び込んだ。私は泣きそうになっていた。いや、泣いていた。
「衣麻……私、衣麻がいないと生きていけないよ……」
衣麻は、私を腕に抱きながら笑った。
「何言ってんの。大丈夫だって。急には変われないけど、何とかなる」
衣麻の鮮やかな黄色い服の中で、私は自分の姿を見ると、ベージュのシャツにジーンズ姿。
「私、地味だな……服が」
「いいよ。かわいいよ。似合っている」
私はため息をついた。
そんな日から、私は何とか人に声をかけて、相手にされようと少しずつ努力をした。少ないながら、たまに話ができる友達もできた。
一方で、衣麻はあまり学校に来なくなった。来たくない時は来ない子だけど、それにしても欠席が増えてきた。スマートフォンも禁じられていて、連絡手段がない。別のクラスだから、情報を得るにはわざわざ出向かなければならないが、そのクラスに話せる知り合いはいない。
私は衣麻の家に行こうとしては、ためらったりしていた。三週間ほど経った休日に、思い切って衣麻の家に行ってみた。母親が玄関に出てきた。母親も私のことを知っている。
「ああ、柚羽ちゃん、こんにちは。ちょうど連絡しようと思っていたの。衣麻がずっと部屋から出ないもんだから。あなたなら何か聞けるかと思って」
「部屋から……出ない?」
私は、二階にある衣麻の部屋の前まで通された。ドアが閉まっている。鍵もかけているらしい。私はドアをノックした。
「衣麻……私、柚羽だよ」
しばらくして返事があった。
「そこに母さんいる?」
「いないよ」
母親は気を使って一階にいる。ドアが開いた。ややうつむいた、部屋着のままの衣麻の姿。髪もろくに梳かしていない。
「入って……」
私は入って、カーペットの上に座った。衣麻はベッドに横たわる。
「ねえ……どうしたの? 何があったの?」
私は訊くが、衣麻は気のない返事をする。
「別に……何もないよ」
「何もないわけないよ……こんな急に、学校に来なくなって、元気なくしちゃったり」
「だから……何もないんだ。文字通り」
「文字通り?」
「勉強についていけなくなった」
「そんなの……学校に来れば、衣麻ならすぐ追いつけるよ」
「他の子と話も合わない」
「それは……テレビとか、見ていれば……」
「みんなの言うことも難しい……私ね、今まで何もしなくてもうまくいってたのに……何かしないといけなくなったんだ」
「それは……」
そう、衣麻はそうして育ってきたんだ。自由気ままでも、うまくいっていた。でも、そうじゃなくなった。
「きっと……衣麻は今まで、運が良かったのかもしれないよ。だいたいみんな、自分を何とかしたくて、何かを一生懸命やってる」
衣麻は起きあがった。
「そうじゃない! そういうことじゃないんだ」
そうして、ベッドを降りて、私の隣に座った。そして私の肩を抱き寄せた。私はいつものように目を閉じたが、そこに広がったのは、今までの草原ではなかった。草はところどころ生えている。でもほとんどは、灰色に近い茶色の大地だった。
「これは……」
「これが私……本当の私なんだ」
「そんな」
「自由気ままに生きているなんて、結局何もない大地に、草を生やしている程度のもの。他に何もできない。木も生えない。山もできない。海も、湖も……何もできないんだよ。このまま枯れていくだけ。もう花一輪もない」
この大地の中に、衣麻の姿がない……と思ったら、いた。まるで地面と同化したかのように、灰色の姿でうずくまる衣麻。人ではないみたいだった。
怖くなって私は目を開けた。本物の衣麻が目の前にいて、泣いていた。私は衣麻を抱き寄せた。私も涙がこぼれる。
「元気になって……前みたいに。私も悲しいよ」
「元気なんかでないよ」
「私は……どうしたら……」
「もう帰って。私のことは忘れて」
「でも……」
すると、衣麻はいきなり私を突き放した。
「私に構っていたら、あなたも不幸せになる。だから帰って!」
有無を言わさない剣幕で。私は何も言えなくなり、そのまま私は黙って帰ってしまった。
それからも衣麻は学校には来ない。私の方も、一時は友達が何人かできたように思ったが、何となく距離を置くようになってしまった。あのまま、衣麻に言われるまま帰ってしまったことが悔やまれる。このままではきっと、私もだめになってしまう。でも、どうしたらいいのか分からない。私は、あの日の衣麻を思いだしていた。もう一度、あの一面の草原を。草原を飾る花達を、呼び戻したい。
服の量販店を歩き回り、私は買い揃えていった。家に帰って着替え、私は衣麻の家に行った。前と同じように母親が玄関に出てきたが、私を見て少し驚いた。
「あら柚羽ちゃん……何かの帰り?」
「いいえ……衣麻は、いますか?」
「ええ……変わりなく」
私はまた二階、衣麻の部屋の前に行き、ドアをノックした。
「衣麻……私だよ。柚羽だよ」
中から返事はない。
「ねえ、一度だけでいい……開けて。誰もいないよ」
すると、ドアがそっと開いて、衣麻が顔を出した。
「えっ? 柚羽……」
私は急いで部屋の中に滑り込んだ。衣麻の顔色は悪かった。でも、私は両手を衣麻の肩に乗せて言った。
「私は花の精! もう一度、あなたの中に花を咲かせる!」
衣麻は目が点になった状態で私を見た。私の顔や、私の全身。あの日、衣麻が草原の中で身につけていた、鮮やかな黄色いワンピース。そして私は腕と頭、そして足首に花飾りをつけていた。いつもの私では、絶対にしない格好だ。
衣麻は戸惑ったように笑ったが、すぐに笑顔が引っ込んで、私の手を振りはらった。
「私をバカにしてるの?」
「してない」
「してるよ!」
「してない。私は花の精だ!」
「ふざけるな。帰れ!」
「私は……花を咲かせるまで帰れない」
ここで泣き崩れるのは嫌だ。でも泣きそうで、涙ばかり出てくる。長いこと衣麻は、私をにらんでいたが、やがてため息をついた。
「どうして……?」
「どうしても……どうしても、だよ」
衣麻はベッドの縁に座った。
「隣に……座っていい?」
「うん」
私は隣に座った。ちょうど、衣麻の手が近くにあり、私は手を取った。そして目を閉じる。
私の心が冷たくなる。もう草一本、花一輪、生えていない。砂だらけの荒野だ。私は衣麻の手を両手で包み込んだ。
「柚羽……」
衣麻の声がした。私は目を開ける。衣麻が私を見つめていた。
「なあに?」
「花の精になって、来てくれたんだ」
「そうだよ」
衣麻は笑い出した。
「あなたらしい……」
そして、衣麻は腕を私の体に回して抱き寄せた。
「さっきはごめんね……どなっちゃって」
「いいんだよ」
「嬉しいってこと……しばらく忘れてた」
私は目を閉じた。やはり荒野だった。でも、さっきと違う。荒野の中に、たった一輪、黄色い花が咲いている。そして、その傍らに衣麻が座っていた。大地と同化していない。生まれたままの姿だった。
その衣麻は、私の方を見て微笑した。
私も、微笑みを返した。
(終わり)