第6話
ブクマありがとうございます。頑張って完結を目指します。
客間へと向かう間に、イザベラは不思議と足取りが軽くなっていくのを感じていた。最初の一歩は鉛のように重かったというのに。
もしかすると、もしかするのでは、という期待がイザベラの心に涌き上がる。
自分たちの仲がたいして良くないことは重々承知している。学園でずっと顔を突き合わせてきたのに、わざわざ休暇一日目から尋ねてくる用などないはずだ。
ただでさえ、彼の人は忙しい身の上で、来年は卒業を控えている。学園の休暇だからといって他の生徒達のように遊びや旅行や趣味などにかまけているような立場ではない。
余程重要な用がなければ、こんなところに来る必要などないだろう。
そして、きわめつけは昨日のパーティーでの様子。
つまり、だ。
かの王太子殿下は、───“婚約解消”の打診に訪れたのではないだろうか。
ドッドッと心臓が高鳴り始める、緊張かはたまた期待のせいかイザベラ自身にもよく分からない。
「お嬢様?」
訝しげにこちらを振り返る侍女に、イザベラはコホンと咳払いを一つして、ふふんと笑った。
「アナ、最後に笑うのはこの私よ」
「………なんですか、それ」
素に戻ってジト目でこちらを見つめる侍女を、イザベラは愉快な気持ちで眺めた。
「待っててね、愛しいワンコたち」
イザベラがそう呟くと、長い付き合いの侍女は無表情のまま肩を竦めた。
めくるめく犬ワールドに突入しているイザベラはご機嫌で小さくスキップを踏む。
客間に到着する頃には少しばかりしゃっきりとした態度を取り戻していたが、まだ若干高揚感でふわふわとしていた。
客間の扉の前に立つ、王家の騎士がイザベラの姿を認めると扉から横にずれて深々と頭を下げた。
使用人が客間の扉を叩き入室を伺うと、低めだがよく通る男性の声が「どうぞ」と返す。
その声を聞いて、イザベラはようやく平常を取り戻した。
王子の従者が内側から扉を開き、深々と頭を垂れる。
客間に足を踏み入れると、記憶通りの人が客間のソファに腰を下ろしていた。
「こんにちは、昨日振りだね」
「…ごきげんよう、殿下」
昨日、壇上で休暇前の挨拶を行っていたクラウス・アルフォード王太子が優雅にソファから立ち上がった。
いつもの白いブラウスの制服姿ではなく、昨日のパーティーの時のように王子然とした軍服風の形をしているから、まるでここが王室にでも変わったかのように錯覚しそうになる。
「突然押し掛けて、すまない」
「ええ、驚きましたわ」
クラウスは申し訳なさそうに眉を下げて、神妙な顔で謝罪した。
謝罪するくらいなら最初からするなと心のうちで苛立ちを覚えながら、イザベラは優雅に微笑んだ。
「実に非常識なことだと思うが、少し時間が無くて先触れを出す手間を惜しんでしまった。今になって反省しているよ。許してくれるかい?」
「内容によりますわね。学園でお話出来ないことでしたの?」
「……とりあえず座ろうか」
促されて向かい合わせのソファに腰掛けると、目の前の瞳にイザベラの姿が映り込んだ。
きらきらと光る宝石のような神々しい金の瞳に直視されると、イザベラはいつも落ち着かない気持ちになる。
令嬢達は皆こぞってこの目に映りたいと夢想しているが、当事者であるイザベラからすればあまりにも美しすぎて己のように罪悪感さえ浮かぶ。
彼はその薄い唇を僅かに湿らせ、言葉を選びながら切り出した。
「そうだね、……学園ではあまりあなたと、こういう風に腰を落ち着けてゆっくり話す機会もなかったし、最近はあなたがルーナ嬢に苦言を呈するところに鉢合わせるばかりだったから」
「まあ…人聞きの悪い」
「だが、本当のことだろう」
あまりの言い草に思わず眉を寄せた。
「いや、責めている訳ではないんだ。あなたは模範生徒だから、正しいことをしていると思う。彼女は少し普通の令嬢とは違うようだからね」
「“少し”ですの?」
思わず問い返せば、彼は静かな表情でイザベラを見て、自然な仕草で優雅に足を組んだ。
王家たるもの、些細なことで心を動かしたりはしない。イザベラと相対するとき、彼はいつもこんな感じだった。
穏やかで紳士的、それでいてどこか空虚さえ感じられるほどしらじらしい嘘が混じる。
「確かに彼女には窘めなければいけない部分もあるが、僕が動けば大事になる。あなたは正しいよ」
窮屈そうな詰め襟を軽く緩めながら、彼は吐息交じりにそう言った。
「けれど学園にいる間くらい、多少は大目に見てあげてもいいんじゃないかな、とは思うけど」
「安易に同情的な情けをかけることが正しいのでしょうか?甘やかされた結果、後で彼女を辛い立場に貶めますわ」
「まあ、あなたの言う通りかもしれないね。僕は甘いようだ」
そう言って、クラウスは頷いた。
憂いを帯びた表情に、イザベラはそっと尋ねる。
「……殿下はルーナ様のことをどうお思いですの?」
「僕?」
一瞬、虚を突かれたような顔をして、クラウスはふむ、と顎に手を当てて逡巡する姿勢を見せた。
「そうだね…彼女はとてもユニークで何事にも幸せを見出せる、素晴らしいご令嬢だと思うよ。どんな人にでも分け隔てなく接することのできる心の持ち主だと思う」
「ええ、ええ、それで?」
ちらりと期待の眼差しを向けると、案外彼は何のことだか分からないような戸惑いを顔に浮かべていた。
「……それで、とは?」
会話に沈黙が落ちる。
イザベラはふふふと笑って、誤魔化した。
婚約解消の相談に持って行くには自分でも最高の流れを作ったと思ったが…、少し先走ってしまったようだ。
「本題にはまだ入りませんの?」
「ああ、そうだった」
何食わぬ顔でそう問えば、特に気にした様子も見せずクラウスは鷹揚に頷いた。
「実は───」
勿体つけるように膝の上で長い指を組み、一拍の間。
不意にその金色の瞳が彼女を射抜く。
「今回のあなたの里帰りに、僕も同行させて頂きたいんだ」
「………………………えっ」
ギョッと思わず素で驚いてしまい、慌ててサッと口を手で隠す。
それを意外そうに見て、クラウスは今日初めて眉を下げて少し笑った。
「あなたでもそんな風に驚いたりするんだね」
「……申し訳ございません、はしたない真似を致しましたわ。ですが、あの、今おっしゃったことは、その…どういうことですの?」
失態を恥じながらも、イザベラは希望を込めてもう一度問う。
「どうもこうも、あなたは明日領地に戻るんだろう?それに僕もついて行こうという話さ」
「それは…それは…」
───ああ、聞き間違いじゃなかった。
イザベラは混乱のあまりズキズキと痛む額をそっと押さえた。
「…ええと、私の実家の領地に、恐れ多くも殿下のお気に召すような物はないと思いますが」
「そんなことはないさ、エヴァンズの領地はこの国でも名高い場所じゃないか。それ故に足が遠のいていたんだが」
「は、あ……?」
脳の理解が追いつかず、イザベラは困惑しながら目を瞬かせた。
混乱しているイザベラを、どこか観察するように黄金の瞳が見つめている。
「僕が度々、この国の各地の領地を視察しているのは知っているね?」
「……はい、王太子殿下として様々な研鑽を積むためとお伺いしておりますが」
「そうだね。それもあるけれど…主な視察理由としては各領地の領主の不正防止のためだ。ここだけの話だが、領民に過度の徴税を行なったり、領内の環境整備を怠ったり、様々な怠慢が原因で治安が著しく悪くなったり、あとは…まあ色んなケースがあるんだけれど、そう言った状況に陥っていないかを実際に足を運んで見張りに行っているんだ」
「まあ、…そうでしたの」
何故か途中言いにくそうに濁したのが少し気になるが、初めて聞いた事実にイザベラが驚くと、クラウスは柔和な表情で頷いた。
「僕が直々に顔を見せるだけでもかなりの抑止力にはなるからね。あなたが先ほど言ったように色々と勉強にもなる」
「…ということはつまり、私の父の領地が何らかの不正を行っているといった情報がある、ということですか?」
ハッとしてイザベラが今度は別の意味で青ざめる。クラウスはそんなイザベラを見て、クスッと笑った。
「そうじゃない。むしろ逆だよ」
「逆?」
「エヴァンズの領地は代々清廉潔白で、素晴らしい統治がなされている。だからこそ常にそういった視察から除外され、近頃僕はエヴァンズの領地に全く行っていないんだ。婚約者の実家だというのにね」
「そんな、恐れ入ります。そんなことお気になさらずともよろしいのに」
「いやこちらこそ、急なことで大変申し訳ないが……実を言うと陛下のご意向でね」
「陛下、の…」
陛下のご意向とあらば、……断れない。
ひくり、と顔が引きつるのを堪え、イザベラは戦慄く唇を再度手で押さえた。
王子と共に領地へ戻るなど、寝耳に水。青天の霹靂。
だって、一緒に行くとなると、ワンコ達との感動の再会にも(大型犬に抱きつき、転げ回るイザベラの)後ろにいる、愛の顔ベロベロタイムにも(犬のよだれでべっちょべちょになったイザベラの)後ろにいる、楽しい犬とのボール遊びの時も(奇声をあげながら異常なテンションでボールを庭に飛ばすイザベラの)後ろにいる……ということになる。流石に淑女としてあの姿を見られては駄目だろう。
つまり、クラウスがついてくるということは、その楽しい楽しいワンコ達とのふれあい全てを我慢しなければならなくなる、ということではないか。
耐えられない。
イザベラは往生際悪くなんとかやむ終えない口実が無いか頭の隅々までさらって探した。
「あの、うちの領地はとても僻地にあるのです。この王都から馬車で約6時間は軽くかかりますの」
「うん?それくらい全然平気だよ。何なら以前、他の領地に3日以上かけて向かったこともある」
クラウスは不思議そうにイザベラを見た。
背中に冷や汗を伝わせながら、イザベラは困ったように眉を下げた。
「ですが、殿下の御身に万が一のことがあればと思うと」
「心配ない、僕もある程度は自衛が出来るし、信頼出来る優秀な護衛達を連れていくから。大勢引き連れることになるけど、……それはすまない」
大勢……?
数多の兵士を引き連れてパレードのように領地へ向かう様子を想像し、イザベラは泣きそうになった。
「あの、私とても申し訳ありませんわ。殿下のお心を煩わせていただなんて……お忙しい殿下のこと、他に悪い噂のある領地があるのなら、そちらを優先して頂いて結構ですのよ」
「いや、急を要するほど悪い報告がある領地はとりわけて無いから平気だよ」
バッサリと切り捨てられ、もはやこれ以上理由が思いつかなくなる。
何か言わなくてはと口を開こうとした時、温度のない声が耳に届いた。
「それとも───僕が行っては、まずい理由があるのかな」
ハッとして少女が顔を上げると、金の瞳がこちらを見据えていた。
一瞬、怪しげにその黄金が揺らめく。
それは、上に立つ者の目だ。
イザベラは自分を通して、エヴァンズの不正や悪事を探られる不快さと恐ろしさを感じた。
「滅相もございませんわ!父も叔父も、素晴らしい統治者ですから、ご心配なく」
カッとなって思わず口に出した言葉は、承諾の意だ。
ふっと黄金が柔らかく細められる。
「それは良かった。安心して伺うとするよ」
「ええ、どうぞ歓迎いたしますわ」
イザベラはつり上がった目を細め、優美に口元に笑みをのせる。
その表情とは裏腹に、彼女の内心は荒れ狂っていた。
私の平穏、私の安らぎ、ハッピー犬ライフ───
遠ざかる安寧にイザベラは心の中でむせび泣いた。
「明日の何時頃出発するんだい?」
「え?………朝の8時です」
「じゃあその時間に向かうよ、あなたも僕が用意させる馬車に乗るといい」
「いえ、そこまでご迷惑おかけするわけにはいきませんから」
「心配しなくてもお忍びだから目立たない馬車で行くつもりだよ」
会話が噛み合わず、頭が痛くなってくる。この男、あの奇想天外な男爵令嬢の性格がうつったのだろうか。
イザベラがこめかみを押さえ何事か言おうと口を開く前に、マイペースな王太子は優雅に立ち上がった。
「では、明日の8時に。僕はこれで失礼するよ」
「あ、はい。ご足労いただきありがとうございました」
「こちらこそ」
反射的に返事を返してしまい、あっという間に王子様は従者を引き連れて退出してしまった。
後に残された令嬢の困惑も、不安も、苛立ちも華麗に無視して。
「明日…7時に出発したら駄目かしら」
後ろに控える侍女をちらりと見れば、無言で首を振られた。