第5話
アイリス学園の長期休暇は1年の間で春と夏と冬の3回あり、その中でも夏の休暇は1ヶ月半と最も長い。
まだ社交界にデビューしていない少年少女達のつかの間の自由。
この学園に入学してから、休暇が来る度にイザベラはエヴァンズ公爵家の田舎の領地に引っ込んだ。
王妃教育を既に一通り終えた彼女を、縛るものはない。
領地に優秀な家庭教師は雇っているし、王子様は放任主義だ。
高らかに歌を歌いたい気分を隠すこと無く、イザベラは馬車の中でご機嫌にくつろいでいた。
昼過ぎに王都の屋敷に到着すると、出迎えた母親は久々の我が子との対面に喜び、話は弾んだ。
仕事の都合、隣国に出張に出ている父親は会えなかったが、特に珍しいことでもない。幼い頃から忙しい父親を見続けているし、イザベラはその分とびきりの愛情をもらっていると自覚していた。
“愛しいイザベラへ”とメッセージとともに赤い薔薇をモチーフにした髪飾りが置いてあれば、相変わらずの父にくすりと笑みさえ浮かぶ。
「お父様は気障ね」
「そうね、だからとっても優しいのよ」
そう答えたのは母親だ。美しい金の髪、エバーグリーンの瞳。イザベラのブロンドは母親譲りだ。
「お母様は今回はお留守番なの?」
「まさか。私は明日ちゃんとイザベラをお見送りした後、明後日の朝にお父様のあと追って出発するわ」
「私のために残ってくれたのね、ありがとうお母様」
「帰ってきたイザベラに出迎えの一つもないなんてさみしいでしょう?何より、お母様がイザベラに会いたかったのよ」
イザベラは幼い頃から母親と領地で暮らしていたが、イザベラが6歳になる頃、母親は父親の仕事について行った。
本来ならばイザベラも王都で暮らし、場合によっては父親の仕事に合わせて各国を飛び回る予定だったのだが…。
ひとまず数ヶ月ほど王都で暮らした結果、王都の空気に馴染めず、帰りたいと泣きついたため叔父に面倒を見てもらう形になったのだ。そのあとはクラウスと婚約するまでずっと領地で暮らしていた。
ランチの白パンを口に含んだ。シェフ手作りのその甘みを堪能していたとき、母親はテーブルの向かい側から娘を覗き込むように見た。
「イザベラ、あなたはまた領地に帰るのね」
「もちろんよ、お母様。私、早くワンコ達に会いたいもの」
「王都は嫌い?」
その質問に困ったように目を泳がせて、イザベラは唸った。
「大型犬を王都で飼っても良いなら、きっと好きになれると思うけれど」
「ここは領地の屋敷程広くないから、5匹はちょっと難しいかしらねぇ」
「…5匹一緒じゃないと、かわいそうだわ」
「そうね」
慈愛に満ちた目尻の皺が、優しく刻まれる。
家族のようにコロコロと育った5匹を引き離すなんて鬼畜の所行を出来るはずも無い。
「学園はどうなの、楽しい?最近、パーティーで色んな奥様に話しかけられるわよ。娘があなたにお世話になってるってね」
「そうかしら…むしろ皆さんに私がお世話になっている気がするわ」
「建前はいいの、本当のところを教えてちょうだい?」
「……………疲れます」
「ふふ、そうでしょう」
素直でよろしい、と笑って母親はイザベラの頭を優しく撫でた。
「ある意味で学園は社交界より大変よねぇ、私にも覚えがあるわ。私もあなたと同じ、模範生徒に選ばれていたから」
そのしみじみとした響きに、同情と懐かしさが入り交じる。平等を謳うアイリス学園に、貴族の規律は無い。
しかし統制を取るためには誰かが目に見えないルールを示してあげなくてはならない。
そのお鉢が回ってくるのはいつの時代も後ろ盾を持つ優秀な者達だ。模範生徒の称号を与えられた生徒たちは、規律を乱す人たちを正しく導いてあげる役割を担う。
とは言え、当時の母親は今のイザベラほど、皆に恐れられていたようには思えない。
それも偏に、この禍々しい赤い目と鈍い表情筋が原因なのだろう。イザベラの脳裏で侍女が「お嬢様、シャイ拗らせすぎです」とツッコミを入れてくる。
「あなたも私と同じように飛び級して、さっさと卒業してしまいなさいな。そうすればあのワケの分からない面倒ごとから解放されるわよ」
そう言って母親は茶目っ気たっぷりに片目を瞑る。その愛嬌のある姿は若かりし頃は更に愛らしかったことだろう。
げんなりしてイザベラは無言でスープを啜った。
母親は気にした様子も無く、名案を思い付いたかのように目を輝かせる。
「ほら、殿下も来年の春に卒業なさるし、あなたも一緒に卒業すればいいじゃない」
「………お母様。私はまだこの自由を手放したくはないの」
出来ることなら、この自由にずっと揺蕩っていたい。
卒業してしまえば、瞬く間に自身を取り巻く環境は変化してしまうだろう。
今以上に領地に帰ることも出来なくなる。
いや、婚約解消という理由が出来れば別だが。まだそれが行われていない今、卒業してしまうのは困る。
「イザベラは本当に領地が好きなのねぇ」
眉を下げ、困ったように手を頬に当てた。
イザベラはどちらかと言うと父親似で、父親は本来王都があまり好きではない。幼い頃からイザベラが領地で伸びやかに育てられたのは、それも理由の一つだった。
母親はイザベラたちとは反対に王都の暮らしが好きだ。
煌びやかなドレス、装飾、賛美、何もかもそろったこの場所で何不自由なく暮らすのは気質に合っていた。
だと言うのに、イザベラが生まれて6歳まで王都から離れた領地で一緒に暮らし、育ててくれたことに、母親としての愛情を深く感じている。
「私は親不孝な娘かもしれませんわ、お母様…」
困り顔の母親を見て、ふと呟いた。
勢いに乗って穏便な婚約解消をわくわくと夢見たものの、王太子からの婚約解消となると、隣国のクララと同様に醜聞が流れるのは防げないだろう。
娘が社交界で傷物扱いされ、領地に引きこもることになったらこの母親は悲しむかもしれない。
「あら、聞き捨てならないわね。」
母親はムッとしたように口をへの字に曲げた。
「イザベラ、お母様を見くびらないでちょうだい?あなたがどんな道を選ぼうと私たちは受け入れるわ。私はあなたの評判ごときで揺るがされたりしないの」
だから安心なさいな。と母親はどこまでも見透かしたような緑の瞳を笑みの形に変えた。
イザベラは一瞬呆気にとられたものの、じわじわと照れ臭そうに笑顔を見せた。
いつもの硬い微笑みとは違って、心から許した相手に見せる、優しい笑みだった。
「ごめんなさい、お母様」
イザベラがそう言うと、母親は思案するように人差し指を顎に当てた。
「そうねぇ、イザベラが明後日お父様のところへ一緒に行ってくれるのなら許してもいいわ」
「えっ、それは出来ない相談よ。そうだわ、お母様が私と一緒に領地に行くというのはどうかしら」
「あらそれは出来ない相談ねぇ」
ひとしきりそう言い合うと、親子で向かい合ってくすくす少女みたいに笑い合う。
イザベラはランチの最後の一口を笑顔で味わった。
母親の言う“評判”が、何を指すのか。何の疑問も抱かずに。
母親とランチを食べ終えると、イザベラは午後のひとときを自室でのんびり過ごしていた。
学園から持って来たハードカバーの本を膝にのせ、ページを捲る。犬と飼い主の涙溢れる感動ストーリーも佳境に入って来ており、涙腺も怪しくなってきたところだ。
「うう……コリン…ぐすっ…なんて良い子なの……」
大判のハンカチを握りしめ、イザベラが鼻をすする。
主人公である犬のコリンがはぐれた飼い主を探し、ようやくその後ろ姿を見つけ、悲鳴のような泣き声を出しながら走りよって行った。飼い主が振り返る───次のページを捲ろうとしたとき、コンコンと自室の扉がノックされた。
侍女が慌てたような声色で、入室を伺う。
イザベラはグッと己の欲求を飲み込み、本を置いた。
「ええ、いるわ。どうぞ」
チーン、とハンカチで鼻をかみ、イザベラはシレッとした顔で声をかける。
入室した侍女は、困惑気味に眉を下げていた。
「あの、お嬢様、お客様がいらっしゃっています。」
「お客様?私に?お母様の間違いじゃなくて」
首を傾げたイザベラに、侍女は言い淀むようにゆっくり口を開いた。
「いえ、…その、お嬢様のご婚約者様がいらっしゃっています」
「………はい?」
「ですから、我が国の、第一王太子殿下がいらっしゃっています。既に客間にてお待ちです。」
「……………何故?」
「ご用件はお嬢様に直接お話したいことがある、と」
「…………………先触れは?」
「ございませんでした」
イザベラは大きなため息を吐いて、頭を押さえた。
人に会いに来るならば、直前に会いに行くと連絡を入れるのが筋というもの。
これがその辺の男ならば、先触れも送らないような非常識な方とお会いしたくありませんわ!と問答無用で突っぱねただろう。
だが、相手は王位継承権第1位の王太子だ。門前払い出来るものならしたいが、流石に王子を相手に会わずに帰すなんて無礼なことは出来やしない。
「わかりました。すぐに向かいますわ」
一ヶ月半は全ての煩わしさから解放されると思っていたというのに、イザベラは苦々しい気持ちのままもう一度だめ押しでため息を吐いた。