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第50話


それでも半信半疑のままクラウスはエヴァンズの屋敷に押しかけた。いつも通りツンと澄ましたイザベラを観察し、困惑をあらわにする彼女に一方的に領地へ一緒に帰る約束を取り付けた。

拒絶を恐れて深く踏み込むことを躊躇してきたクラウスが、王妃の言葉を胸に臆病を振り払い、無意識に持っていた傲慢さを捨ててイザベラに近づく。

物理的な距離ではない、これが最後のチャンスだとわかっていたからこそ、クラウスは勇気を出した。

結果的に、王妃のいうことは全て真実で、領地には大きな犬が五匹も走り回っていて、イザベラは必死に隠そうと試みてはいたが取り繕い切れずに不意にとろけた顔をして犬たちを愛でていた。

五匹の“愛人”と戯れるイザベラを見つめて、クラウスは自分自身の馬鹿さ加減に地中深くに沈み込みたくなった。

と言っても結局のところマイナスがゼロになっただけの話で、嫌われているのではなく全く興味を持たれていない事実に新たなショックも受けた。けれど自業自得だと受け入れたクラウスは、王都へ帰城した後も花瓶に挿した枯れたダリアの花を日がな見つめていた。

もっと、イザベラのことが知りたい。

本当は犬を愛でたくて仕方がないのに、クラウスの前ではそれを隠したいのかわざとらしく澄まして振る舞う姿がこれ以上ないくらい愛おしくて、可愛い。

犬に見せる表情豊かな彼女の姿を、いつか自分にも見せて欲しい。

頭の中が、馬鹿みたいにイザベラでいっぱいになった。諦めなければならないと思い込んでいた萎びた心が、息を吹き返す。

こんなにも休暇が長いと感じたのは初めてのことだった。手紙を書く文字が震えないよう、呼吸を落ち着けてクラウスはペン先にインクを浸した。

長期休暇明けのパーティでようやく会えたイザベラに、浮ついた心を隠せない。

自分のセンスだけでは厳しいとこの国の有名なデザイナーに相談して揃いの衣装も作らせた、義務的であろうと心がけてきたこともやめて、火傷しそうな熱視線を隠さずに慣れない口説き文句を贈る。けれどクラウスは、彼女の前で格好良く見せようと頑張れば頑張るほどにから回りしているような焦りを覚えた。

そして───イザベラが口を滑らせるように不意にクラウスを詰った。

これまでこの学園の一年生である男爵令嬢のルーナに接触していたクラウスに、その軽率な言動に、常ならば公爵令嬢として、婚約者の立場として注意を促していたイザベラが、ルーナの気持ちを思いやるように不快感を示して本音を口にしたのだ。

一気に冷静になったクラウスが、王子としての顔でイザベラに相対する。

イザベラは正しい。クラウスのしたことは卑劣なことだったのだろう。

この国の大きな誘拐事件を解決する鍵となるルーナに、この学園が平等を謳うことにかこつけて友人のように妹のように優しく接した。

最初は幾人かの人間をルーナの元に差し向けて有力な情報を得ようとしたが、傷ついた少女は自身の誘拐についてだけはあまり多くを語ることをせず、最終的にクラウスが直々に接触を試みることとなったのだ。

するとどうだ。王子という存在に強い憧れを抱いていたのか、学園で優しく微笑み話を聞いてくれるクラウスに、ルーナはぽつりぽつりと少しずつ誘拐されたときのことを話すようになった。

言うなれば少女の淡い恋心を利用したのだ。

しかし結果的に彼女の証言により誘拐犯の居所がついに突き止められ、これ以上被害を広げることを防いだ。クラウスはこの国にとって正しいことをした。

「私には、真似できませんわ。私は、期待に答えられないのなら、最初から夢を見せたりしません」

凛とした目が、クラウスを糾弾する。

彼女は、正しい。

それでも王子としての自分が冷静な視点でクラウスもまた、正しいのだと理解していた。

けれど、一個人としての自分が顔を歪めて落ち込む。

こんな自分は彼女にふさわしくないのかもしれない、と。

「それでも僕は、ずっとあなたを───……手放せなかった」

本音を漏らせば、その大きな瞳がこぼれんばかりに見開かれた。

「例え、あなたが他の誰かを、」

掠れた声で、懇願するように彼女のブロンドをかき上げた。


夢のようなワルツが始まる。

黒色の装飾が施された赤いドレスに、黒の革靴を身につけて、クラウスの色をした彼女の髪が舞い踊る。

イザベラはてっきりクラウスの瞳が嫌いなのだとばかり思い込んでいたが、それも違った。

幼い頃に化け物だと罵られたことで自分の赤い目が嫌いで、クラウスの瞳に赤い色が映り込むことさえ辛くて、いつも目をそらしていたのだと言う。

そんな馬鹿な話だったなんて、クラウスは思わず笑ってしまった。どうしてもっと早く言わなかったのだろう、クラウスは彼女の瞳が好きだ。甘いワインのように透き通る赤がクラウスをとらえれば、心が震えた。金色のまつ毛がそっと伏せられて、その赤い瞳がきらきらとその色を反射して煌めくさまは、あまりにも美しくてクラウスよりもよっぽど彼女の方が天使のようだと、そう思うと同時に脳裏で泣きながら蹲る少女の幻影が過ぎる。

「君の髪は、僕の色だ」

もはや隠しきれなくなった感情をあらわにすれば、イザベラは突然涙をこぼし始めた。

驚いてクラウスが声をかければ、彼女は首を振ってその場から立ち去った。

ルーナの誤解が解けても、二人の間にはまだ見えない隔たりがある。

すぐにイザベラを追いかけようと中庭に出たところで、クラウスは一度立ち止まった。

もう隠し事などないとクラウスが一方的に思っていたところで、まだ彼女にとってはそうではない。彼女の赤い瞳には、罪悪感が宿っている。

花壇に茂る大きな葉を一つ手にとって、クラウスは小さく息を吸った。

即席の仮面を持って、今一度互いの秘密を曝け出そう。


中庭の隅の隅の生徒たちに存在を忘れ去られたようなベンチに座る、その小さな背を眺めて何と声をかけようか臆病にも口をまごつかせていたクラウスに、そのか細い声が届いた。

「…………………クラウス」

それは、本当に己の名だったのか。クラウスには判別できなかった。

一瞬で胸の内に広がった愛おしい感情を押し込めて、クラウスは仮面を握る手に力を込め勇気を出して返事をした。

「なんだい」

驚いたようにイザベラが顔を上げたが、彼女は頑なにこちらを振り向かない。震えるその背中を見つめながら、こんなにも勇気を奮い立たせて彼女の前に立っていることなど、きっと目の前の彼女は知らないのだろうと目を伏せた。知らなくていい、こんな格好悪い自分は知られたくない、仮面を被っても虚勢を張り続ける自分に内心で呆れた。

何も知らないイザベラが、不意に覚悟を決めたような声を出した。

「クラウス様はご存知ないでしょうけど……私、外面がいいんですのよ」

急に何を言い出すのか、そっと内緒話をするように秘密を打ち明ける。

「私は本当は、淑女の鑑ではないんです」

イザベラほど立ち振る舞いの美しい女性が淑女の鑑ではないなら、多くの令嬢がかわいそうだとぼんやりとした感想を抱きながら、クラウスは頷く。


「私、実は犬がとても好きなんですの」


決死の覚悟で打ち明けただろう、その内容にクラウスは思わず脱力した。

「うん、……あー……………知ってるよ」

「いいえ、クラウス様がご想像なさっている範囲の犬好きではございませんわ」

なるべく優しく頷けば、イザベラは憤慨したようにそっぽを向いて反論する。

そこから怒涛の勢いで告白される犬との日課に彼女は子供っぽくどうだ、とクラウスの反応を探っていた。

「例えば肉球の匂いを嗅ぐことは私の日課ですの。私はバラの芳しい香りや紅茶の誇り高い香りよりも、犬の足の裏が世界一、良い匂いだと思っています」

話しているうちにその匂いを思い出したのか、柔らかい声でうっとりと告げる。普段の冷静な雰囲気とは違い自分の好きなものを滔々と熱く語るイザベラに、正直なところ、可愛いという感想以外浮かばないクラウスはどう反応すべきか困った。

「……どんな匂い?」

迷った末にそう聞けば、パッと嬉しそうな声が返る。

「犬によって若干の違いがありますが、私がよく嗅ぐのは焼きトウモロコシのように香ばしい匂いですわね」

我ながら良い例えだと満足そうに頷くイザベラは、おそらく真剣だ。間違っても可愛いと口を滑らせてはいけないと、クラウスもまた出来るだけ真面目に答える。

「それは……美味しそうだな」

全く引かないクラウスにイザベラは怯み一度黙り込んだ。

けれど負けじと再び勇んで口を開く。

「淑女としてあり得ない話でしょうが、この年になっても庭で犬と一緒に寝ますし」

「あなたが?庭で?」

一緒に寝る?なんて羨ましい、驚きすぎて本音が漏れた。

「学園にいる間は犬に会えないので、禁断症状緩和のため、部屋に等身大の犬のぬいぐるみを特注で作らせて隠し持っています」

「そうだったんだ。それ、飾るの?」

等身大の犬を部屋に飾って嬉しそうに微笑む姿を想像し、クラウスは何とはなしに尋ねた。

「……抱きしめて一緒に寝ます」

「へえ……」

クラウスは犬が妬ましすぎてため息のような相槌をこぼした。

「他にも色々とありますけれど、つまり……お分かりでしょう?」

焦れたように尋ねるイザベラに、しみじみと頷いた。

「あなたの犬は幸せ者だな…」

「いえ、そうではなく」

間髪入れずにイザベラが頭を押さえて首を振る。

「……本当の私は、そんな、人に偉そうに言えるような素晴らしい人間ではありませんの」

そう告げて彼女は安堵の息を吐いた。それは紛うことなき彼女の本心だ。だから、クラウスも素直に本音を口に出した。

「そう、……僕もあなたと一緒だよ」

その言葉にようやく、イザベラがこちらを振り向いた。

涙で濡れた赤い目がクラウス見た瞬間、固まる。

引きつった顔で、彼女はクラウスの仮面をじっと凝視した。

しばらく黙り込んでいたかと思えば、肩を震わせながらイザベラはその赤い瞳をキッとつり上げてクラウスを睨んだ。

「……ふざけていらっしゃるの?」

表情豊かにクラウスの目をまっすぐ見つめるイザベラに、思わず笑ってしまう。

「泣いたと思ったら、今度は怒ってる」

「な……」

羞恥で彼女の頬が染まる、素に近い彼女の反応にクラウスは思ったことをそのまま口にした。

「今日は色んなあなたが見れて良いな。他の誰かじゃなくて、………僕に対してあなたが色んな顔を見せてくれるのがとても、嬉しい」

呆気にとられたようにイザベラはポツリと呟いた。

「……あなたって意外と変わった方でしたのね」

「知らなかっただろ?僕もあなたと同じ、いつも外では外面を被っているからね」

今度はクラウスが曝け出す番だと、格好悪いのを承知で狭量な自分の心を暴露する。

「僕はずっと、……あのお茶会の日の、あなたの笑顔が忘れられなかった。クラウスが好きだと、そう言って嬉しそうに微笑んだあなたのことが……」

クラウスが自嘲気味にそう言えば、イザベラは何か言いたげに言葉を詰まらせてそわそわと視線を彷徨わせた。そして申し訳ありませんと思い切って頭を下げた彼女に、疑問符が飛ぶ。なぜ彼女が謝るのか、やはりクラウスの好意を受け入れられないということなのだろうか。

運命の時を待つようにじっとイザベラの顔を見つめていれば、徐々に彼女の声が尻すぼみになっていった。

「………………私は……狡猾にもあなたや王妃様を欺き、まんまとこの婚約者という地位を手に入れたのです」

一瞬彼女が何のことを言っているのかわからず、沈黙が落ちた。

それが、あの「“クラウス”が好き」発言についてのことだと理解して、クラウスはブハッと王子らしくもなく吹き出した。同時に仮面を取り落とすも、クラウスは気にせず笑い声を上げた。

何を言い出すかと思えば、金のまつ毛を震わせて今にも泣きそうな顔で懺悔のように告白するものだから、クラウスが流石に耐えきれずに笑ってしまったのは仕方がないことだろう。

“クラウス”違いの、勘違い騒動もこれでようやく終焉を迎えた。

彼女の瞳から罪悪感が消えていく。

イザベラは、クラウスと同じように臆病な人間だった。

公爵令嬢としての自分と、素の自分を上手く合わせられなくて、素の自分を隠すように生きていた。シャイで人前に上手に自分をさらけ出せなくて、緊張で強張る表情が冷たい印象を与えていた。

けれどそばに愛犬がいれば、彼女の表情は安堵したように和らぐ。そのことに微笑ましさと妬ましさの両方を覚えて、クラウスは制御できない自分の心を面白く思った。

けれど、いつまでも犬に美味しいところを取られてばかりでは困る。

「犬の代わりじゃない、もう一度、僕を選んでくれないか」

クラウスもまた決死の覚悟でそう言えば、対するイザベラはぽかんとした顔をして見せて、やがて我慢できないとばかりに吹き出した。

何とも格好悪い告白だ。以前の自分では考えられないだろう、けれど彼女が笑っている。

片目を擦りながら、潤んだ赤い目を堪えきれずに微笑ませて、くすくすと笑い声を上げている。

紛れもなく、クラウスに向けた笑顔だ。

「待ってくれ……急に……あー…」

急速に顔に熱が集まっていく、思わず再び葉っぱの仮面で顔を隠すもおそらく耳まで赤くなっているため意味をなさない。

夢にまで見た彼女の笑顔がそこにあって、その笑顔が他の誰でもないクラウスに向けられている。

「……あなたの笑顔は心臓に悪い」

クラウスは完全降伏の声を上げた。

犬に始まり、犬に終わる、とでも言おうか。

全ての誤解が解けて、ようやくこれから二人は始まる。

期待に胸を膨らませたクラウスが、勇気を出してイザベラに声をかけた。

休暇のたびに彼女が領地に帰る理由が犬の存在だと言うならば、王宮で彼女の犬たちを飼えばいい。名案だと思った。

余りあるほどに広い王宮の庭に素晴らしい犬小屋を作ろう、巨大なドッグランを作ってもいい。

だと言うのに、目の前には分厚い嘆願書があり、少女たちが両手を組んで祈るようにクラウスを見上げている。その中でも一際輝く、赤い目を潤ませて期待に頬を染める少女の姿がある。

恋は惚れた方が負けだ。

クラウスは泣きたい気持ちを隠して微笑み、諦めたように頷くしかなかった。

幸せとは甘く、切ない。

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