第48話
クラウスの婚約者は、いつも酷くつまらなそうにしている。
遠目からでも目立つあの美しい髪を眺め、クラウスは秀眉を憂いに歪めた。
庭園で取り巻きを従え、長い金色のまつ毛を伏せて紅茶を啜るその白い横顔。腰まで届く豊かなブロンドが風に揺れ、キラキラとした光が飛沫のように輝いている。
それだけならば、彼女はまるで天使や女神のようだと人々に讃えられたことだろう。
けれど彼女の外見的特徴を語るにおいて何よりも欠かせないのは、そのゾッと身の毛のよだつような真っ赤な目だ。非常に珍しい彼女の瞳の色は、曽祖父譲りの隔世遺伝で、まるで血液を凝縮したかのように毒々しい赤色をしていた。
彼女のその目に映るだけで皆、言葉に出来ない緊張が走った。まるで人間じゃないような、その姿。良く言えば神秘的、悪く言えば化物じみた彼女の姿に周囲の人間の多くが畏怖の念を抱いた。
しかし、立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花という言葉もあるが、家柄も見目も、少しの所作さえ令嬢として申し分ない彼女は、絵画の中にいたならば誰もが魅了されこぞって鑑賞したことだろう。
けれど、彼女は生身の人間だ。
絵物語に出てくる凄絶な容貌の魔女ではない。
この学園の模範生徒の一人である彼女───イザベラ・エヴァンズは、この国の王太子であるクラウスの婚約者だ。
エヴァンズ公爵家は王家とも古くから繋がりが深く、この学園で王子を除き一番の権力がある家柄で、一人娘のイザベラはその一挙一動が注目の的の存在だった。
背筋の伸びた凛とした立ち姿に、腰まで伸びる黄金の髪、ひりりと気の強そうな顔立ち、つり上がった目はこの世のものとは思えないほど赤く、表情は氷を纏っているかのように冷たい。
その冷徹な美しさはまるで人形のようにも見えるが、その化け物のような赤い瞳で射抜かれればたちまち生徒たちに緊張が走る。
模範生徒の役割として、貴族としてのマナーや立ち振る舞いを他の生徒たちに見本を見せ、時に出来ていない者には注意を促す。他の模範生徒に窘められるよりも、生徒たちにとってはイザベラに見つかって睨まれる方が何倍も恐ろしい。
エヴァンズという大きな権力の後ろ盾もあるが、イザベラ自身の見た目や醸す雰囲気が余計にその緊張を助長させていた。
表情が無いというわけではないが、令嬢らしく口を閉じて控えめに唇の端を上げるその耽美な微笑みはどこか身の毛のよだつような恐ろしさがあった。
クラウスの視界で、黒髪の少女が何事かをイザベラに囁きかけた。密やかな少女たちの愛らしい笑い声が聞こえてくる、それに合わせてイザベラがその赤い目をゆるりと細めた。小さな唇が動いて、赤い瞳がぐるりと周囲を巡らせる。その時ふと、彼女と目が合った。
何の感情も灯らない冷ややかな赤い瞳が、一瞬クラウスを見つめて、まるで他人行儀に会釈する。いつも通りにクラウスがにこりと微笑み返せば、イザベラは興醒めしたように目を伏せた。
───イザベラは、クラウスのことが嫌いだ。
その事実を今日もまざまざと痛感しながらも、クラウスは実に王族らしい鷹揚な態度で柔らかく微笑む。
今更だ、捻れに捻れた二人の関係は手遅れなほどに冷え切っている。そのことに苦しみを覚えないほど、心は鈍り切ってはいない。
けれど、王族の証たる黄金の目を閉じれば、まぶたの裏にはいつだって彼女の微笑みがあった。
あの冷ややかな赤い瞳が、柔らかく花開くようにふわりと愛らしく微笑むことをクラウスは知っている。その微笑みがまるで毒のように、クラウスの心を今も捕らえて離さない。
「ご存知ですか。彼女、領地に愛人を囲ってる悪い噂が流れている───婚約解消を視野に入れてはいかがです」
銀色の髪をかき上げながら、友人である目の前の男は簡単そうに言った。
クラウスは口元を笑みの形を保ったまま、指先だけでコツコツと音を立てる。
「どうしてそんな噂が流れたんだろう」
招かれた寮の一室で、クラウスは至極どうでも良さそうに呟いた。
「さあ……ただ私が見ている限り、彼女が殿下の言う“天使のような微笑み”を浮かべるようなご令嬢にはとてもじゃないが思えない。そしてこの噂とくれば、友人として忠告したくもなる」
少しだけ口調を崩して友人らしくセドリックが肩をすくめる。クラウスは規則正しく机を叩いていた指先をぴたりと止めて、殊更ゆっくりと顔を上げた。
「……私が悪かった、だからその顔をやめてくれないか。あなたの真顔は心臓に悪い」
「それは失礼」
青ざめたセドリックに、クラウスは改めて美しく微笑みかける。
「セドリック、君は少し浅慮なところがある。痛い目を見る前に直すべきだよ」
「私は殿下を思ってこそ、申し上げたまでのこと」
心外だとばかりにセドリックは首を捻って、参ったように耳の上を撫でた。
「上に立つ者は常に見られている、それ故に些細なことで妙な噂に発展することもある。実際のところ彼女のその醜聞というのはこの学園内の一部でしか流れていないだろう、色々と君の話は早計すぎる」
「わかったわかった、意地でも婚約解消したくないわけですね。恋は盲目とはあなたのことだ」
呆れたようにセドリックは息を吐いた。けれどクラウスは涼しい顔で肩をすくめる。
「君のその情報源を当ててみせようか。さて、恋は盲目の男は誰だろう」
揶揄うようなクラウスの言葉に、一瞬で男の顔が朱に染まる。
「何のことやら」
セドリックの脳裏に黒髪のツンとした婚約者の顔が浮かんで、慌ててしかめ面をして緩んだ顔を誤魔化した。照れ屋すぎる男に、今度はクラウスが呆れる番だ。
あれだけ婚約者から熱の籠った視線を浴びせられておいて、贅沢な身分である。もしも自分がそんな立場だったなら。クラウスの脳裏で赤い目をしたブロンドの少女が、優しげに微笑んでうっとりとこちらを見つめる。思わず自嘲の笑いがこぼれて、クラウスは首を振って幻想をかき消した。
「まあ、君の言う通りあまり野放しには出来ない噂だ。近いうちに確かめてみるさ」
「確かめて噂が本当だったらどうする」
緑の瞳が心配そうにクラウスを見つめていた。セドリックが本当に友人としてクラウスを気にかけてくれているのはわかっている。少しだけ動きを止めて、けれどすぐにクラウスは何でもないように口を開いた。
「彼女が望むなら、それも考えるよ」
口先だけでそう言って、クラウスは優雅に微笑んだ。その隙のない笑顔にセドリックは微妙な表情を浮かべた。
本音を口に出すことなど、ほとんどない。王族の人間として教育を受けてきたクラウスは、柔らかな微笑みを貼り付けて内心を読み取らせない。
けれど時折、彼女のこととなるとそれが崩れそうになって、クラウスは慌てて自分を律する。
彼女が、望むなら。婚約解消も考える。
───本当に?
心の中で、クラウスは自分自身に問いかけた。答えは返らない。
王子の婚約者という豪華な椅子に縛り付けて、彼女が口に出して拒否をしないのを良いことに未だ解放してやらないくせに。
イザベラに初めて出会ったのは、クラウスが13歳の時の婚約者を決めるお茶会の場だった。
誰を選んでも変わりないと思いながら、表面では笑顔を振りまいて内心冷めた心で婚約者候補の少女たちの話に相槌を打っていたクラウスに、彼女だけが予想を裏切った。
人間離れした赤い目をした冷たそうな美貌の少女が、突然花開いたような柔らかな微笑みを浮かべて、愛らしく頬を染めてクラウスを見つめて言ったのだ。
「私は、クラウスが好き!」と。
媚を売るようでもなく、ただ嬉しそうに少女は素直に告げた。先ほどまでの冷たそうな印象とは真逆の可愛らしいその様子に、クラウスは一瞬で心を奪われてしまった。
恋とは落ちるものだとは話には聞いていたが、まさか自分に起こるとは思ってもみなかったクラウスは経験のない怒涛の感情の渦に混乱し、気がつけばお茶会は終了していた。そんな自分を母親である王妃が面白そうに眺めていた。
トントン拍子に話は進み、イザベラが内々定の婚約者に選ばれるのはあっという間のことだった。
正式な婚約者としての発表は彼女が学園に入学する年齢になってからとなり、とりあえずは他の令息に掻っ攫われてしまわれないよう唾を付ける意味合いで親同士の契約が交わされた。
王妃教育のためにイザベラが王宮に通うことになり、会える日が増えていくのかとクラウスはらしくもなく浮ついた。
けれど王妃は彼女と話したいなら自分で何とかしなさいとクスクスと意地悪く面白がって交流の場をセッティングしてくれることもなく、クラウスはクラウスで自身の公務もあるものだからイザベラの登城に合わせることも出来ない日々が続いていた。彼女の家に行くことも考えたがまだ周囲には内密であるこの婚約が万が一誰かに見られて明るみに出ても困るし、逆に手紙を出して彼女を招待することも考えたが王妃教育で忙しい彼女をこちらの都合で振り回すのも気が引けて、結局会えたのは3ヶ月後のことだった。
公務から帰ってきたクラウスが使用人から、丁度これからイザベラが王妃教育が終わって帰るところだと聞いて、はやる気持ちのまま従者を連れて廊下を急いだ。
そして、長い廊下の向こう側からお淑やかに歩いてくる彼女を見つけて、クラウスは緊張したまま真っ直ぐに彼女に向かって足を進める。
けれど、───すれ違い間際に、まるで何の熱も宿さない赤い瞳がクラウスの表面を滑り、冷ややかなその顔が麗しく頭を垂れた。そのまま、何事も無かったかのように少女が通り過ぎて行く。
てっきり、またあの愛らしい笑顔で微笑みかけてくれると勘違いしていたクラウスは、予想外の対応に何も声をかけることが出来ずに呆然と立ちすくむしかなかった。
最初に考えたのは、彼女はもしや緊張や照れからあのような態度を取ってしまったのでは、ということだ。
だって、この婚約を望んだのはイザベラの方だ。イザベラが屈託のない笑顔でクラウスのことが好きだと告白したのだ。なのに、ありえない。
傲慢な感情が胸の内をぐるぐると這い回り、クラウスは無意識のうちに唇を噛んだ。
それから何度か廊下ですれ違うイザベラに声をかけたが、眉ひとつ動かさずに冷たい瞳がクラウスを見つめて、対応は丁寧ではあるものの、そこに明確に引かれた拒絶を感じ取ってクラウスは強く出られないまま月日だけが過ぎていった。
結局のところ、彼女が欲しかったのはクラウスではなく、時期王妃という立場だったのだろうか。その事実にクラウスは酷く傷つきながら、怒りよりも悲しみが心を支配した。
それでも、クラウスはイザベラが好きだった。
誰もが神秘的で美しいと褒め称える黄金の瞳を、温かな陽だまりのようだと優しく微笑んだ彼女に、戻れないほどに恋に落ちてしまったのだ。
正式に婚約者となり彼女との接触が多くなっても、二人の距離が縮まることはなかった。
クラウスが瞬きもできずにイザベラを見つめれば、いつだって彼女は苦しげに目をそらした。嫌われている相手に、迫られても迷惑なだけだろうと、クラウスも自分自身の恋情を押し殺して出来る限り彼女に対して義務的に接するように心がけるようにした。
彼女の心が手に入らなくても、婚約者としてダンスパーティーの最初の一曲を踊れるだけで満足だとクラウスは嘯いた。
イザベラを困らせたいわけではないのだ。だから、婚約者に自分の色を贈ることが流行していても、決してクラウスが金色や黒色の類の衣装を贈ることはなかった。
彼女の見事なブロンドを自分の色だと、そう思うことで自らの独占欲を満たしていた。イザベラを象徴する真っ赤な色をしたドレスに、彼女の美しい黄金の髪はよく映えた。クラウスは手のひらから彼女の熱を感じながら、ターンとともに自分の色をした彼女の巻き毛がくるりと舞う様を見るのが好きだった。
彼女と踊った後は少しだけぼんやりとしてしまう自分がいて、特にその日は、頭がごちゃごちゃと絡まってうまく解けなくなっていた。だから妹が勝手に悪戯して奨学生の少女に黄金の刺繍が入ったドレスを贈ったことも気がつかずに少女の手を取ったのは完全に自分のミスだ。
「会いたい人がいるのかな」
いつものように澄ました顔で最初のダンスを踊る婚約者に、気がつけばクラウスはそう鎌をかけていた。
するとどうだ。その途端にイザベラの涼しい顔が、こちらが笑ってしまうくらい過剰に反応したのだ。
図星、だ。
そう理解した瞬間、ドロドロとした激情がクラウスの胸の内で一気に暴れ出した。
ひくりと引き攣りかけた口の端を堪えて、一切の感情を押し殺す。
幼い頃から鍛えられたポーカーフェイスがこの醜い心を隠して、クラウスは体面のよい微笑みを形づくった。
「楽しんでくるといい」
どの口が言うのか。奥歯を噛み締めて出来る限り丁寧に声をかけた。
そう言いながら、それでも彼女を手放したくない己の身勝手さに笑ってしまう。
彼女の心は、己にはないともはや分かっているのに。往生際の悪い自分に自嘲が漏れた。




