第46話
すると暫くして、くぐもったような低い声が生み出される。
そして突然ブハッ、と吹き出す音とともにゴホゴホと咳きこむ音まで聞こえてきた。
見れば目の前のクラウスは仮面を外して片腕で自らの顔を隠しながら、小刻みに震えている。
何が起こったのか分からず呆然としていたが、徐々に理解したイザベラは目を瞬いた。
「何がおかしいの……?」
急に爆笑し始めた目の前の婚約者は、咳き込みながら手を振っている。
「いや、だって……何を言い出すかと思えば…狡猾に欺くって…」
くっくと喉を鳴らしながら、彼は涙目でイザベラを見た。笑いすぎて仮面がひらりと地面に落ちる。
笑いが一段落したのか、はあと息を吐いて彼は微笑んだ。
「……つまり、あなたの飼っている犬の名前が───クラウス、僕と同じだったんだろう?」
「……へ…………え!?……知って……っ」
驚愕のあまり赤い目をまん丸に見開いたイザベラに、クラウスはバツが悪そうに目を逸らした。
「少し反則だけどね。終業式のダンスの時、何故か陛下に呼ばれたって話しただろう」
「ええ、そういえば、そんなこともおっしゃってましたわね…?」
「実はあの後、休暇初日に陛下…と、王妃からあなたのことを聞いた。……僕が飛んだ思い違いをしていたことをね」
「国王陛下と、王妃様から………?」
意味がわからない。なぜその二人が犬のことを知っているのだろう。
だって、王妃はイザベラにクラウスのために王妃教育を頑張るようにと何度も激励していた。みんなイザベラの“クラウスが好き!”発言に勘違いしていたはずでは?
イザベラの困惑をよそに、クラウスはゆっくりと屈んで葉っぱを拾う。
「僕はそれまで、あなたが何を考えているのか正直よく分からなかった。僕のことが好きだと公衆の面前で公言して婚約者になって、だというのに僕に全くと言っていいほど興味を示さない。登城するあなたに何度かこちらから距離を縮めようと努力しようとしたこともあったが、あまりにも釣れなくてかなり心が折れた」
「ええ!?」
イザベラは思わず驚きの声を上げた。
必死に思い返してみたが、全く記憶にない。いや、だってそもそも城に通っていた頃はイザベラ自身が王子の婚約者だということ自体、自覚していないのだ。時々すれ違ったような気はするが、曖昧な記憶しか残っていない。
どこか遠い目をして語るクラウスに、形容し難い気まずさを覚える。
「でも、……そんなあなたを諦められない僕自身が一番、厄介だった」
呆れたように目を伏せながら苦笑して、クラウスは手に持った大きな葉っぱをくるりと回した。
「けれど、領地にあなたを待ってる愛人がいるという噂が学園で流れ始めて」
「あ、ああああ愛人……!?」
初めて聞く自分の噂にイザベラは仰天した。
そう言えば確かにこの間レオノーラが屋敷へ来た時、意味不明なことを言っていた気がするが……。
「信憑性は低いと思っていたんだが、試しに終業式のあの日、あなたにカマをかけてみたら…図星のような反応をするものだから。いや、まさか犬のことだとは思わなくて……嫉妬に駆られて嫌なことを言ってしまった」
すまなそうに謝ると、クラウスはペチペチと手に持つ葉っぱで自らの額を叩いた。
「僕は……ずっとあなたに嫌われていると思っていたんだ。あなたは、いつも難しい顔をしていたし、丁寧だけどいつもよそよそしく接するものだから、……あの告白は幼い頃の気の迷いだったのだろう、と」
クラウスは目を閉じて、細くため息をついた。
「だから嫌われている僕に好かれても嫌だろうと思って……極力、義務的に接するよう心がけたんだが。まさか全部僕の勘違いで、あなたは僕を嫌うどころか、はは……興味さえなかったなんてさ。自分の自意識過剰さにめまいがしたよ」
落ち込んだように語るクラウスに、イザベラは目を泳がせた。
「だけど、嫌われてないと分かると、現金なことに気力が出てきてさ。折れていた心が復活した。だって、真実はとても単純な、笑ってしまうくらい馬鹿みたいな勘違いだった。あなたは大の犬好きで、……僕が思っていたようなことは何一つなかった」
その心底安堵したような表情に、息を飲み込んだ。
温かい陽だまりのような瞳が、照れくさそうに揺れる。
「自分の勘違いを知らされて、僕は……自分の目で、あなたのことを確かめたいと思った。それで先触れを出すのも忘れて、慌ててあなた屋敷に押しかけたんだ」
謎が紐解かれていく、あの日の探るようなクラウスの表情がよみがえる。
「あなたのことを知れば知るほど、今まで傲慢だったのは僕の方だったことに気づいて、とても恥じ入ったよ。陛下の言葉を聞く前に、もっと早く勇気を出して自分の意思であなたのことをちゃんと知ろうとするべきだった」
言い淀むように閉口して、クラウスは僅かに顔を歪めた。
「正直、ずっと迷っていたんだ。あなたとの婚約を……解消するべきかと。あなたが望むなら僕は、あなたを自由にしてあげなくてはならないと思ってた。…実際にそう出来たかどうかは、ちょっと怪しいけれど」
「……そんなことを考えてたなんて…」
クラウスがこんなにもイザベラのことを考えていたなんて、何も知らなかった。
お互いの気持ちが分からず、すれ違い、両者とも嫌われていると思い込んで、誤解が解けるまでこんなに時間がかかってしまった。
「ああ、だけど全部勘違いならもう遠慮しなくてもいいんだと……そう思って一気に暴走し過ぎてしまったね。……泣かせてごめん」
後悔するようにそう言って、遠慮がちな彼の指先が、イザベラの赤くなった目尻をそっと撫ぜた。
手袋越しに感じるその体温に、心に温かな火が灯る。
「でも……知っていて欲しいんだ。僕があなたに、……こんなにも恋い焦がれていることを」
そっと柔らかくクラウスはイザベラの白い手を取った。
「…気づいたらもう、あなたのことばかり目で追ってしまっていた。あなたの姿が目に入れば体温が上がって、少しでも話せれば嬉しかったし、その美しい目に僕が映れば胸が踊った。……いつも目を逸らされれば胸が苦しくなって、誰かのことを思って微笑むあなたを見れば嫉妬でどうにかなりそうだった」
「どうして、そんなに……」
好かれるようなことをした覚えがないイザベラは、困惑して目を伏せた。
「多分、あなたに初めてあった時、あなたの笑顔を見たときから、……僕はずっとあなたに囚われているんだ」
そう言って、クラウスの握る手に力が入る。
「イザベラ」
懇願するような声で名を呼ばれ、イザベラは恐る恐る顔を上げた。
「犬の代わりじゃない、もう一度、僕を選んでくれないか」
真摯な黄金の瞳が、真面目くさった表情でイザベラを真っ直ぐに見つめている。
その顔とは裏腹に、妙な言い回しが際立って、しんと辺りが静まり返った。
「なんかこれ格好つかない台詞だな……」
口にしてから気がついたのか、苦笑いをこぼしてぼやくクラウスに、イザベラはおかしくなって吹き出した。
「……本当、何ですのその台詞」
堪えきれずにクスクス笑って、片目を擦りながらクラウスを見れば、そのポカンとした美しい顔がみるみるうちに赤くなっていく。
「待ってくれ……急に……あー…」
クラウスはブツブツ言って、サッとその不気味な葉っぱでまた顔を隠した。ひょこりと覗く耳が赤い。
「……あなたの笑顔は心臓に悪い」
「失礼ね…」
「いや、そういう意味じゃなくて……犬でも、ハンカチにでもなくて、初めて僕に笑いかけてくれたから」
観念したようにそろりと仮面を下ろし、クラウスはまだ少し赤い顔のまま穏やかに微笑んだ。
言われてはたと気がついた。そう言えば、いつの間にかイザベラの全身から強張りが解けて、素直に笑えている。




