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第44話


幼い頃の記憶を思い出しながら、イザベラは校舎の中庭に一人きりで立ちすくんでいた。

ホールの建物から遠いこの場所では、明かりも最低限のみで夜の闇を頼りなく照らしている。誰もいない中庭のベンチに、イザベラは崩れ落ちるように腰掛けた。

深層心理に眠っていた幼き日の邂逅が、クラウスの言葉をキッカケにするすると解かれていく。

あの日は王宮で、同じくらい年齢の貴族の子供達を集めて交流させる催しが開かれていた。

愛犬を亡くして間もないイザベラを元気付けようと両親が王都に連れて来てくれたのだ。しかしイザベラは王都の子供達の輪の中に上手く入れず、更には自分の珍しい赤い目のことを魔女や化け物のようだと指さされ、幼い心に傷を負った。

泣きながら逃げ込んだ先は、王宮の庭園の、あの双子が教えてくれた迷路(メイズ)だ。

そして、そこで蹲って泣いていたイザベラに声をかけたのは、幼いクラウスだった。

「ばかみたい」

イザベラの呟きが闇に吸い込まれていった。

俯いた拍子に金色の長い髪が乱れて顔を隠す。

犬のラウに出会った時、自分でもなぜこの名前をつけたのか理由は分からなかった。

けれどそれは単純なことで、先に王子様のクラウスに出会っていたからだ。深層心理でイザベラはクラウスを覚えていた。

そして偶然にも特徴の似た犬と出会い、無意識にその名前をつけるなんて。

とんだお笑い(ぐさ)だ。

そこまで考えて、イザベラは勢いよく両手で顔を覆った。

「なんっなの……私は、…馬鹿なの?」

もし今ここに侍女がいれば、あの例の微笑みでイザベラを見つめたことだろう。

穴があったら入りたい気分で、あああと呻いて深いため息をついた。

羞恥と自己嫌悪で顔が熱い。過去のイザベラは一体何を考えて少年と同じ名前を犬に付けたのか。特徴が少し似ていたから、それだけ?

すっかり忘れていたのに、今更過去の記憶を思い出してしまうなんて。


───君の髪は、僕の色だ。


全てを暴き出すかのような、燃えるような独占欲の宿るあの眼差しがイザベラの脳裏によみがえり、思わず震える吐息をこぼした。

心臓が、早い。

今までイザベラに対して興味など無いと思い込んでいた。ただの義務の相手だと思っていると。

クラウスを象徴する色が入ったドレスなど贈られたことなど無かったし、まさかイザベラのブロンドに対してそんな風に思っているなどと、思いもしなかった。

確かに言われてみれば、イザベラの髪は深い黄金色をして、あの蜂蜜を溶かしたようなクラウスの瞳と似ていた。そんなおこがましいこと、思ったこともなかったが。

あの場で混乱の境地に陥り、とうとう感極まって泣いてしまったが、冷静になった今もう涙は止まっている。

ついにやってしまった、今まで溜まりに溜まっていた感情が勢いよく噴出した結果、泣きながらの無様な逃走である。

下向き加減に出て来たから他の生徒たちに見られてはいないだろうが、クラウスには確実に気づかれたはずだ。

「これって結局のところ、私が悪いんじゃない……」

ポツリとこぼした言葉に、そんなことないよと言ってくれる人はいない。

悲しいね、残念だね、元気出して、大丈夫。周囲の人がくれるその言葉だけでは立ち直れなかった子供の頃のイザベラ。

当時のイザベラには、どうして父や母たちがそんな簡単に愛犬の死を納得できるのかわからなかった。

愛犬の喪失に落ち込んでいた時、道標を示してくれたのは幼い少年だった。

イザベラが立ち直れたのは、急に自分で思い立って犬のことを知ろうと考えついたのではなく、あの少年が「つらいなら、そのために頑張ればいい」と言ってくれたからだった。

日の光を浴びて輝く黒髪の、ひだまりみたいな瞳をした、優しい少年が。

「私、これから…どんな顔してあの人の前に立てばいいのかしら」

すっかり外面が剥がれ落ちて、素の自分のままイザベラは独り言ちた。

クラウスは、まだ知らないのだ。

イザベラのことをあんな熱い眼差しで見つめて来ても、この学園で見せるイザベラの全てが本来の完全なる素の性格ではないことを。

とはいえ、もちろん自分の立場に矜持と責任感は持っていて、その真面目さから模範生徒にも選ばれて、それもイザベラ自身であることには間違いはない。

しかし、それは外面、つまりは建前の自分だ。

内面という本音の部分で語れば、イザベラの本質はそこではなく、三度の飯より犬。ただただ犬様至上主義の大型犬マニアだ。

鼻を見てうっとり、足の裏の匂いを嗅いではうっとりと抱きついて淑女というのに芝生の上をゴロゴロ転がりながら奇声を上げるイザベラを見れば流石にドン引きするだろう。

以前のイザベラであれば、そんな恥ずかしい姿を見られてドン引きされるなんて、恥ずかしい、淑女としての矜持が、と建前的な理由で嫌だと思っただろう。

けれど、今は彼にそうやって否定されること自体に対して苦しいと思う自分がいた。

そんな人だとは思わなかった、幻滅したよ、とあの優しい笑顔が嫌悪に歪む様を想像しては、胸がズキリと鈍く痛んだ。

もう全部打ち明けるしかないだろう。

こんな気持ちのまま、婚約者として接することはできない。

「……マリー、アドルフ、ダニエル、シャルロット、ラウ」

舌を出して笑う大好きな犬たちを思い浮かべて、イザベラは空気をぎゅっと抱きしめた。

目を閉じてマリーの顎や、アドルフの頭を撫でれば2匹のゴールデンレトリバーが大きなクリームとゴールドの尻尾をゆっくりと振る。垂れた耳がさわりと風に揺れる様子まで細かく頭の中で再現できる。

白い毛並みの美しいホワイトスイスシェパードのダニエルが、広い芝生の上を駆け回っているから、トントンと物を軽く叩いて音を鳴らせばそれを合図にイザベラの方へすっ飛んでくる。大きくピンと立った耳の中は健康なピンク色で、耳が良い。イザベラの顔を見上げて、期待したように瞳を輝かせている。

やんちゃなボーダコリーのシャルロットは甘えん坊で、いつもイザベラに撫でて欲しくて仕方がない。目の前で巨体をどさりと倒してみたり、いく先々で落ちている。さて拾おうかな、とイザベラが目の前でしゃがみこめば、嬉しそうに尻尾を振って撫でられている、と思いきや興奮するあまり勢いよく飛びあがって走り回り始める。

そして一番若い雑種のラウが同調して2匹で走り回り始め、ダニエルも気が向けばそれに混ざり、アドルフとマリーはそれをゆったりと眺めている。

疲れたのか飽きたのか黒い毛並みのラウがイザベラの方にてろてろと寄ってきて、頬をペロリと大きな舌で舐めた。柔らかい毛並みの半立ち耳を撫でれば、気持ち良さそうにその陽だまりみたいな目が細まる。

「…………………クラウス」

そっと無意識に呟いた名前は、どちらの名前か。


「なんだい」


返ってくるはずのない返事が聞こえてきて、ピッとイザベラは固まった。

言葉が出てこないイザベラの背後で、密やかに笑う気配が聞こえる。

「……急に出て行ってしまうからびっくりした」

存外、明るい声色で彼はそう言って、コツコツと足音を鳴らした。

「馬車を使った痕跡もないし、校舎の敷地内に居るのは確かだと思ったんだ…良かった、見つかって」

心の準備が全くできていなかったイザベラは急ごしらえの外面をかぶって、よそよそしい声を出した。

「お手数をおかけしてしまい、申し訳ございません。…けれど、先にお帰りになって下さいと申し上げたはずですが」

「泣いてるあなたを放っておけないよ」

彼はイザベラが座るベンチの後ろで足を止めて、戸惑いがちに声をかけた。

「ねえ、僕は何か嫌なことを言ってしまった?」

率直な質問に、イザベラは幼い頃の彼の面影を覚えた。

けれど今の彼はどうでも良さそうではなくて、その声色にはどこか懇願の念が宿っている。

イザベラは何と返せば良いのか、全く良い言葉が思いつかなかった。いつもの自分ならば当たり障りなく返答していただろうに、すっかり頭が回転を止め、笑ってしまうほどに素のイザベラが居座っている。

「クラウス様は……」

「うん」

途切れたイザベラの言葉に、クラウスは律儀に返事を返した。覚悟を決めたようにイザベラは息を吸い込む。

「我慢しないで言いたいことを言っていいと、そうおっしゃいましたよね」

「え?ああ、もちろん」

戸惑ったような様子のクラウスに、イザベラは口元に笑みを浮かべた。

心臓は早い速度で打ち鳴らされているが、打ち明けると決めた心は何だか自由を手に入れたように軽く感じる。

「クラウス様はご存知ないでしょうけど……私、外面がいいんですのよ」

「外面?」

星空の下、内緒話をするようにイザベラが告げれば、クラウスは不思議そうにその言葉を繰り返した。

「ええ、私は本当は、淑女の鑑ではないんです」

「へえ」

納得とも落胆とも取れない返事に、イザベラは次の言葉を意を決して告白した。


「私、実は犬がとても好きなんですの」


沈黙が落ちた。

夏が終わり暑さは過ぎ去っていったというのに、辺りになんとなく生温い空気が漂った。

「うん、……あー……………知ってるよ」

菩薩のような一際優しい声が返ってきた。

「この間領地に行った時に見たから……、気づかれてないと思ってたことに驚きだが…」

呆れたような声に、イザベラは間髪入れず反論した。

「いいえ、クラウス様がご想像なさっている範囲の犬好きではございませんわ」

少々憤慨したようにイザベラはそう言って、指折り数え始める。

「例えば肉球の匂いを嗅ぐことは私の日課ですの。私はバラの芳しい香りや紅茶の誇り高い香りよりも、犬の足の裏が世界一、良い匂いだと思っています」

「……どんな匂い?」

「犬によって若干の違いがありますが、私がよく嗅ぐのは焼きトウモロコシのように香ばしい匂いですわね」

「それは……美味しそうだな」

本気のトーンで言うから冗談なのか判別がつかない。イザベラはそれを流して、話を続けた。

「淑女としてあり得ない話でしょうが、この年になっても庭で犬と一緒に寝ますし」

「あなたが?庭で?」

ぼそりと羨ましい、という言葉が聞こえた気がしたが、意味がわからないので流した。

「学園にいる間は犬に会えないので、禁断症状緩和のため、部屋に等身大の犬のぬいぐるみを特注で作らせて隠し持っています」

「そうだったんだ。それ、飾るの?」

「……抱きしめて一緒に寝ます」

「へえ……」

羨ましい、と再び妙な声が聞こえたが、やはり意味がわからないので流した。

「他にも色々とありますけれど、つまり……お分かりでしょう?」

何だか思ったような反応が返ってこず、焦れたイザベラが問えば、うんと素直な返事がくる。

「あなたの犬は幸せ者だな…」

「いえ、そうではなく」

しみじみとした感想にずっこけそうになるのをこらえた。

まあ少しソフトめのエピソードを選んだところはある、言い方もオブラートにやんわり包んだ部分もある。

だが、大分ドン引き案件であることに変わりはないはずだ。

あれだけ他の生徒を淑女として云々と模範生徒の名の下に窘めている人間が、要するに家では実は犬の足の裏を嗅いで世界一良い匂い最高、とはしゃぎながら庭で転がり回って、まさかの学園の寮に特大のぬいぐるみを持ち込んでいるのである。

「……本当の私は、そんな、人に偉そうに言えるような素晴らしい人間ではありませんの」

ここまで本音をさらけ出したことは、もしかすると犬に対しても無いかもしれない。

言ってしまった、という心臓の高鳴りと、ようやく言えた、というスッキリとした開放感の両方を感じながら、イザベラはホッと気を抜いた。

すると、黙り込んでいたクラウスが後ろで呟いた。

「そう、……僕もあなたと一緒だよ」

その言葉の意味が分からず、イザベラは反射的にそっと振り向いた。

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